燃え上がれ 愛のレジスタンス
今日取り上げるのはモレッティの『遠読』である。この本は、文学作品ではなく、批評分野の人文書である。このため、いつものスタイルではなく、要約を主体とした形式でまとめている。『遠読』を「遠読」したい人のためのメモといってもよいかもしれない。この文章の最後に、私が見たところの若干の感想も付している。
この本には、10本の論文が収録されているが、この種の本の読解の定跡に従い、本論に入る前にあとがきを読んだ。このため、この記事でも冒頭にあとがきの要約をつけている。
いずれの論文も、本書の形式に収録される際、原著者の手による前書きと後注とが付加されている。初出後に付加されたこれらの手段を用いて、著者による自己批判かあるいは自己弁護がされている箇所も多い。
概ねどれも独立して読むことができる。私のオススメは、2番目、3番目、そして9番目の論文だ。もう一つ入れるなら7番目だろうか。
0.訳者あとがき
この本には90-10年代に書かれたモレッティ論文10本が発表順に収録されている。
書名になっている「遠読」(distant reading)は、「精読」(close reading)の対概念であり、発表時点ではジョーク含みの表現だった。内容的には、原語でテクストを丁寧に読むのをやめて、翻訳や他言語、他地域の専門家の研究をもとにして分析しよう、という概念である。デジタルヒューマニティーズ*1の潮流の一つといえる。
「遠読」は「精読」を否定するものではない。
遠読にも欠点がある。
一つ目は、まったく異なる文化圏の作品を論じるとき、気づかぬうちに地雷を踏みぬきかねない点だ。本書掲載の「小説―理論と歴史」や「ネットワーク理論、プロット分析」でもその欠点が顕在化している。
もう一つは、遠読には向くものと向かないものがあるという点だ。狭い世界である「芥川賞受賞者の選定」というテーマよりも、「ライトノベルのタイトルの文字数」などサンプル数が採れるものに向いている。
本書掲載の10本のうち、代表作は「世界文学への試論」。世界システム理論とポリシステム論をモデルに、文学への適用を試みた。成立史としては、ポストコロニアル理論の普及で旧来型の批評が困難になりつつあったことが端緒である。
――
と、ここまでがあとがきの要約である。しかし、このあとがきで一番面白いのは、本書を指して「みすず書房の得意とする「モダン世代のエスタブリッシュ路線」への平手打ち」と評している一文である。版元をイジっていくスタイル。
1.「近代ヨーロッパ文学――その地理的素描」(1991)
後掲の「試論」に先立つこと9年前に書かれた論文。
こいつが掲載されているミソは、「試論」的発想の萌芽が見られるというところに尽きるように思われる。非アカデミック読者を想定して書かれた長めの文章でもあるので、「遠読」を楽しみたい方は、後回しにした方が良いように思われる。
ごく簡単に中身を要約すると、近代ヨーロッパ文学の道程について、地理的観点から描き出している文章である。また、著者の後の仕事を踏まえたうえで表現すれば、「近代ヨーロッパ文学」という時代も地域もかなり広範囲にわたる文化の変転について、個々の作家の影響関係等というミクロ的な視点からではなく、ヨーロッパ全体の地理・歴史というマクロ的な視点から眺めた文章である。
まず、ヨーロッパ全体の見立て方として、「統一ヨーロッパモデル」と「分裂したヨーロッパモデル」の二つを導入した上で、著者が後者を取ることを明らかにする。
ついで、17世紀のバロック悲劇の時代、18世紀のフランス中心の「文芸共和国」の時代、19世紀の「小説革命」の時代などを経て、モダニズムと大衆文学の時代から、ヨーロッパが「輸入」側に回った現代までをもを次々に分析していく。
進化論からのメタファーとして登場する「茂み」概念(共生しつつも、分岐し、重なり合い、ときにはさえぎりあう様子)などが重要と思われる。また、いずれの時代の分析においても、地理的な背景や社会・経済的な背景が文学の栄枯盛衰に影響を与えているとの指摘も重要であろう。
2.「世界文学への試論」(2000)
本書の中心的な論文。邦訳で僅か17ページ。『遠読』を「遠読」したい人も、これだけはそのまま読んでも良いかもしれない。
中身を抑える前に、コンテクストが重要である。本論は、コロンビア大学において、英文科から比較文学科を切り離すような動きが出て、そのいざこざの中で生まれたようだ。従って、論の背景には、各国文学者v.s.比較文学者というアプローチ姿勢の相違がある。
さて、肝心の中身であるが、内容的には論文というよりマニュフェストかあるいはアジテーションのようなものだ。具体的な成果・結論を導き出しているよいうよりも、あるコンセプト、思いつきを提言・提案しているような恰好になっている。
その著者の提案というのは、文学を「惑星的システム」として眺めてみよう、ということだ。この着想のもとは、ウォーラーステインの世界システム論*2であるという。
著者は、こうした観点が有用である例をひとつあげる。それは、日本とインドという異質な文化において、西洋の小説の受容期に同一の現象が起こったことの説明としてである。
そして、このような巨視的な観点―「世界文学」の観点から文学を眺めるためには、一部のカノンを精読しているわけにはいかない。そのためには、「一行の原典購読すらしない、他人の研究のよせあつめ」をする必要さえあるという。
さあ、いかにテクストを読まないかを学ぼうではないか。遠読―繰り返させてもらうなら、そこでは距離こそが知識をえる条件なのだ。それさえあれば、テクストよりずっと小さく、ずっと大きい単位に焦点を合わせることができるようになる。(p.72)
最後に、著者は世界規模で文化を分析するためのツールとして、二つのメタファーを紹介する。「樹」と「波」である。
「樹」とは、インド=ヨーロッパ語族から異なる言語が枝分かれしたように、単一から多様性に至る経路を描く。
反対に「波」とは英語が諸言語を次々と飲み込んでいるように、当初の多様性を吸い込む均一性を指している。
著者によれば、世界文化はこの二つのメカニズムのあいだで揺れているため、その生産物は不可避的に複合的になるという。
従って、今後は(このマニュフェストに従うのなら)各国文学は樹を見る人が、世界文学は波を見る人が担当して、その分業こそが重要だろうとする。
3.「文学の屠場」(2000)
モレッティ自身による、「遠読」の最初の適用例といって良いのだろう。適用の対象は、いわゆる探偵小説である。そして、関心の対象は、「なぜ、コナン・ドイルがカノンに選ばれたのか?」である。
方法の一番目は、カノンそのものではなく、埋もれてしまった残りの99.5%の作品を併せて「読む」ことだ。
方法の二番目が、形式主義である。つまり、作品を特定の要素(モレッティの用語では「技巧の装置」)に分解して、分析可能なものに還元する。
そして最後に、本論で登場する概念整理の方法が樹(ツリー)である。ツリーとは、文字通り枝分かれした樹形図のようなもので、各作品がどこの枝に属するかを視覚化するための図である。
本論では、探偵小説を「手掛かり」に注目して整理分類している。つまり、作中に「手掛かり」が登場するもの、しないもの、手掛かりが作中で機能を有するもの、有さないもの、それが目に見えるもの、見えないもの・・・などなど。
この整理の結果、「手掛かりは読者にも解読できなければならない」という、今日の探偵小説の第一則に至るまでに、全ての非ドイル作品が振り落とされていることが確認される。この後、さらに母集団の数を増やしたツリーと、時代ごとにどの枝が太く現れるかを視覚化した別種の図も提示される。
だが、この論文が本当に面白いのはここからである。それは、大学院生から示された素朴な疑問と、それに対する応答という形で示される。
その疑問とは、既にカノンとされている(作品から抽出された)装置に注目する以上、非カノン作品から発見されるのは、装置の不在に過ぎず、それではトートロジーではないか?というものだ。
モレッティは、この疑問を認めつつも、次のように答える。すなわち、実際にカノンに選ばれた作品以外にも、カノンに選ばれた可能性のある枝々は無数に存在し、いまと違った文学史が存在していた可能性をツリーは示してくれる、と。
なお、本論はモレッティ自身の論旨とはやや離れた部分や、注釈、前書きなどに現れるカノン論が示唆深く、読んでて楽しい論文である。
4.「プラネット・ハリウッド」(2001)
著者自身による前書きで、この論文は小品だとみなされ、大した分析ではないと見なされてきたと言われている。これに対して、モレッティは、発見自体は新しくないが、その実証(方法)の明白さこそ新しいと切り返している。
さて、この論文もやはり、「屠場」と同様、「遠読」適用の一例だ。そして今度の対象は文学ではなく映画である。
方法論は結構単純で、世界各国各年の映画興行成績ランキングTOP5を取ってきて、そのジャンルの分布を見ましょうという話だ。結果から観察できる事象はいくつか指摘されている。この中で最も重要なのは、アクションのようなプロット重視の物語は伝播しやすく、コメディのような言語依存度の高い物語は伝播しにくい、という結論だろう。
『数の値打ち』のような、その後のDH分野のより高度かつ精緻な展開を知っていると、正直やや物足りない感がある。
5.「さらなる試論」(2003)
前出の「世界文学への試論」がバズってしまったために、沢山の反響が寄せられた。本論は、それらの反響のうち、3つの典型に対するモレッティ自身の回答として書かれたものである。
疑問点の一つ目は、世界文学の典型として小説を取り上げるのが妥当か?という問いだ。あるいは、小説以外の文学ジャンルでは小説と同様の観測結果が得られないのではないかと言い換えても良いかもしれない。
これに対する著者の答えは、小説が文学の運動を代表すると主張したいわけではなく、自身に馴染みのある例として取り上げたに過ぎない、というものだ。確かに、モレッティによる自己弁護の通り、小説には小説の、詩には詩の、映画には映画の・・・動態があっても良さそうであるし、そのそれぞれの分析もまた有益だろう。そして、この結論は「試論」のような方法論を取ることへの反論にはなっていない。
二つ目の異論は、大略、世界経済システムの動態と、世界文学システムの動態は必ずしも一致しないのではないか?という問いだ。これはさらに、経済システムとのアナロジーから予想された各論的議論に対する否定も含んでいる。
これに対しモレッティは、いずれの批判も受け入れ、自身の誤りを認めつつも、やはりよりマクロ的、より科学的なアプローチを取ることの重要性を擁護する。
三つ目の異論についても触れられているようだが、言及の紙幅は短く、注もなく、かつ多くの議論を与件とした文章であるため、正直私の読解力では理解が難しかった。
6.「進化、世界システム、世界文学」(2006)
世界システム論の牙城であるフェルナン・ブローデル・センターに講演に招かれたことが契機となって作られた論文。
テーマは、これまでモレッティが使用してきた進化論的モデル(=樹形図的モデル)と世界システム論的モデルとが、矛盾しないのか?という検証である。
進化論的モデルは、必然的に多様性を志向する。他方で、世界システム論的モデルは、世界を「唯一にして不均衡」なものとしてみた上で、中核、半周辺、周辺というわずか三種類のカテゴリに分類する。
この対立に対するモレッティの回答は、驚くべきかな、時代で分ける、というものである。すなわち、国際市場の確立前では進化論的モデルが、確立後では世界システム論的モデルがより良く妥当するというのである。うーん、本当か?
なお、本論の途中で、具体例の紹介という名目で、先の「プラネット・ハリウッド」で確認された命題、即ち、「プロットと形式は分断され、前者は伝播しやすく、後者は伝播しにくい」という命題が確認される。この議論の途中で、モレッティがあまり言及しない翻訳についての話題が顔を覗かせるのが興味深い。
7.「始まりの終わり――クリストファー・プレンダーガストへの応答」(2006?)
位置づけがややこしい論文。ありがとう訳注。この論文は、モレッティの別の著作『グラフ、地図、樹』(2005)に寄せられた批判に対する応答として書かれたようだ。
このため、やや議論がつかみにくいが、『グラフ、地図、樹』の内容は相当程度「文学の屠場」と重複しているようであり、論の前半部分は「文学の屠場」への批判とその擁護として読むことができそうだ。
批判の内容とその擁護の構造を要約するよりも、むしろここではモレッティが擁護のために持ちだしてきた別の議論を取りまとめる方が面白いだろう。
その一つ目は、カノン形成の第一歩に関する主張である。モレッティはここで、「読者の好み」を重視する立場を取る*3。
・・・同時代の読者による選択にもまして強力な選択の因子がほかにありうるというのか?もちろん、出版があり、流通があり、それに付随するさまざまなもの(レヴュー、広告)がある。だが・・・ヒットに必須の勢いを得るのは、・・・ファンの間で交わされる情報の連鎖・・・がそうした諸圧を押しのけたときなのである。(p.192)
もう一つは、カノンと非カノンの差異についての主張である。モレッティは、もとはカノンも非カノンも近い位置に立っていたが、市場プロセスがその差異を増幅させたのだと分析してみせる。
ただ、このカノン/非カノンという問題に関連して寄せられた「勝者の歴史をあたかも自然であるかのように表象」している、という批判については、私にはモレッティが上手く回答しているようには見えない。(初期英国探偵小説の分野において)ドイルと同じ程度に「一筋縄ではいかない、意義深い作品」は見つからなかった、という主観的言明のみで済ませてしまっているからだ。
8.「小説――理論と歴史」(2008)
この著者の良くないところが全部出ているような論文。なぜ、数理的・定量的に分析しましょうという発想と、悪しき人文系の伝統そのもののような、比喩から一般化みたいな暴論とが同居できるのか?
・・・ともあれ、その巨視的過ぎるタイトルとは裏腹に、内容的には散文・冒険・中国小説との比較という三題噺になっている。
(1)小説は何故散文が支配的になったのか?それはね、韻文が永続志向なのに対し、散文が未来志向・連続志向だからだよ。そしてそれは、物語を加速させるのと同時に、文体を複雑化させるんだ。より典型的なのは物語性に富んだ小説の方だから、我々は「安っぽい小説」を研究した方がいいね。
(2)なぜ冒険譚はかくも一般的なのか?それはね、物語を多様化させるからなんだ。そして散文ともとても相性がいいね。でも。何故、冒険という封建時代の名残が、ブルジョア時代を生き延びたんだろうか?―後述
(3)なぜ十八世紀のヨーロッパで小説が勃興し、中国では起こらなかったのか?それは、中国では既に小説が美学的に読まれていたのに対し、ヨーロッパではそうではなかったこと、それと表裏の関係として、ヨーロッパでこの時期に消費社会が誕生し、「気散じ」の読書が流行したからだ。
この三つの議論は、いずれも相互補完的な関係に立つ。つまり、封建的価値観の「冒険」は、資本主義的拡大ととても相性が良かったのだ。
・・・、とモレッティの三題噺は大体このように収斂する。なお、特にこの(3)の中国小説を論じた部分は、訳注から詳細なツッコミを受けている。
9.「スタイル株式会社――七千タイトルの省察(一七四〇年から一八五〇年の英国小説)」(2009)
「屠場」や「プラネット」と並んで、遠読の適用の一例のような論文。しかも、この論文は数理処理に寄っており、これらの中で一番説得力が高いようにみえる。
分析の俎上に乗せられるのは小説の「タイトル」である。論文のタイトルにあるとおり、指定の年代の英国小説7000作品のタイトルが分析される。最近(2024年)でこそ全く珍しいものではなくなったが、人文系のこうした論文で、表やグラフが多用されているものをこれまで見ることがあっただろうか。
・・・タイトルとは、言語としての小説と商品としての小説が出会う場であり、両者の出会いの結果は極めて有意義なものとなりうる。(p.250)
まず、論じられるのが、タイトルの長さの変遷についてだ。ここでは、タイトルがどんどんと短くなる傾向にあることが明らかにされる。そして、その理由としては、小説市場の発達により、タイトルが要約機能から解放されたこと、そして、多数の作品が載せられるカタログに適応するサイズに縮小されるべき要請があったことなどが推認される。
続いて論じられるのが、タイプの変遷だ。ここの論述は説得的で面白い。
まず、名詞タイプのタイトルで採用されるのは、「エキゾチックで逸脱的な」タイトル、即ち『苦行僧』や『吸血鬼』などが多いのに対し、「父」や「娘」などの「慣れ親しんだ観念」が採用される率は極めて少ない。
これに対し、形容詞+名詞型の作品では、こうした名詞の採用率は急上昇する。そこでのタイトルの例としては、『野暮な妻』『捨てられた娘』など・・・形容詞は叙述を生み、これこそがストーリーテリングの第一歩なのだと説明される。
ここではさらに、時代が下ると『自制』『忍耐』『中庸』などの抽象概念、即ち、小説の物語ではなく小説の趣旨を表すタイトルが登場することが指摘される。
最後に特定のタイトルのタイプとジャンルとの結びつきについて論じられる。保守的なタイプの小説では定冠詞theの使用率が高いのに対し、革新的なタイプの小説では、不定冠詞aの使用率が高いという。これは、不定冠詞のもつ新規性を指し示す機能に拠っているとの指摘だ。この他にも、ゴシック小説に特有のタイトルの型などが定量的に示され、なかなか興味深い内容に仕上がっている。
10.「ネットワーク理論、プロット分析」(2011)
「科学では・・・きれる頭よりも実のある行動のが是とされる。」のだから、課題が山積であったとしても、とりあえず行動する方が良いと思ったのだろうか。にわかには首肯したがたい論文である。
趣旨としては、プロットをどうすれば数量的概念に変換することができるか?という問いに対する試論だ。そしてこの試論の答えは、これを登場人物同士のネットワークに還元する方法はどうか?というものだ。
確かに、これ自体としてはありうべき道筋の一つのように思える。しかし、その例証の仕方がちょっといただけない。まず、遠読を謳いながらも、彼が依拠するのはごくごく少数のサンプル―もちろんカノン作品なのである。前半では『ハムレット』、ディケンズに少し寄り道をしてから『紅楼夢』。
『ハムレット』での分析も、そのネットワークモデルに従ったプロット分析の正しさは、旧来的な精読か、あるいは人文的な直観によって裏付けられているに過ぎないように読める。さらに『紅楼夢』の分析においては、中国小説に対するモレッティの人文的な直観の怪しさが、かえってネットワークモデルの怪しさを助長してしまっているように見える。
アイデアはアイデア。精緻な実装は後進の仕事を待つのが良いのだろうか。
・世界文学の流通に関する別の解釈
<<感想>>
どうもこのモレッティという人はなかなか厄介そうな人だ。
会社組織でいえば、アイデアマンの社長のような人物に見える。とても面白いアイデアを提案する。取締役会はああでもないこうでもないと大紛糾。社長のアイデアの実装に向けて、問題点や予算の洗い出し、実現可能性の検証・・・。形になった頃には社長は既に次のアイデアに取り掛かっているのである。
あるいは、SNS(twitter)の世界にいたのなら、大量のフォロワーを抱えるインフルエンサーであっただろう。ただし、クソデカ主語で物事を語ってしまった結果、引リツで散々叩かれまくるタイプのインフルエンサーだ。ただし、多少強引であっても万人を唸らせるだけの訴求力を持っているのもまた確かだ。
かつて、数多の文学理論が生まれては忘れ去られて来た。文学理論というのは、実演販売の包丁のようなもので、感心して買って帰っても、意外と演者が切った食材以外は上手に切れないものである。何なら、演者が切ったものでさえ、熟練の技がなければ上手に切れなかったりもする。
しかし、モレッティの理論(の少なくとも一部)は機械式だ。上手にパーツを組み替えれば、これまで見たことも無いような成果が出るのではないかと、ワクワクさせてくれる。
そうしたタイプの著者であるため、モレッティの関心はあちらこちらへと飛ぶが、中でもカノン論が楽しい。いち文学ファンとして、カノンを参照したり、あるいは逆に敬遠したりと、愛憎半ばな複雑な対象として常に意識してきたからだ。また、これまで何度か書いてきたとおり、カノンとは、読書ファンから、あるいは社会から要請されているもののようにも見える。
モレッティは、カノンは読者の選好によって形成される、と考えているようだ。しかし、社会学的な命題な立証としてまだまだ直観的で粗雑であるように思える。今後のこの議論の更なる展開と精緻化が期待される内容だ。
<<本のつくりほか>>
原著は2013年、訳書は2016年初版。長く復刊(増刷)が待望されていたが、この記事を書いている2024年6月14日、新装版が発売される予定だそうだ。ダムロッシュの『世界文学とは何か?』が2011年訳書刊行であるから、批判先があとになって読めるようになった、ともいえる。
共訳者は秋草俊一郎、今井亮一、落合一樹、高橋知之(敬称略)の四名。ダムロッシュの前掲書共訳6名とメンバーが入れ替わり、1/2周りほど若返っている。当時の肩書を見る限り、秋草氏をのぞいて大学院生であるから、今回は五十音順の暴力に従っても問題ないはずだ。
学術書らしい精緻な作りであり、索引から訳注に至るまで手間と苦労が偲ばれる出来となっている。特に、原注に付加的につけられた訳注は、原著者の粗雑な性格と粗雑な議論を相当程度補っており、とても参考になる。
なお、今回私が読んだのは「旧装板」であるから、もしかすると新装版とは引用のページ数などにズレがあるかもしれない。
(余談であるが、あとがき328頁に、8番目の論文のサブタイトルとして「歴史と理論」と書かれているが、他のページでは「理論と歴史」である。表記揺れであると思われる。)