ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

3-04『苦海浄土』石牟礼道子

生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに

海の上はほんによかった。じいちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。

いまごろはいつもイカ籠やタコ壺やら揚げに行きよった。ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけて、シシ島の沖は凪でなあ――。

・・・

舟の上はほんによかった。

イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨をふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。(p.86-87)

<<感想>>

第一印象は最悪だった。

私がこの作品を知ったのは、K教授の国文学の講義でのことだった。K教授*1の授業はキャンパス屈指の人気授業だった。理由は単純。単位認定が甘い科目だと、学生たちの間で有名だったのだ。毎回授業に出席して、出席確認がわりのリアクションペーパーを提出すれば必ず単位が認定される仕組みだった。

ほどなくして、これはK教授の戦略であり、学生たちとの間で黙示の共犯関係にあることを理解した。

K教授は、都内の大学でも保守寄りといわれる母校の校風に珍しく、市民派あるいは環境派の、しかも活動型の左派教授だったのだ。

配布されるレジュメは大体「週刊〇曜日」の切り抜きのコピーで、講義の内容は殆ど文学とは無関係に思われた。自衛隊がどうこう、排気ガスがどうこう、食品添加物がどうこう・・・。その中で、稀に関連する文学作品の引用が行われることがあった。単位とオルグの幸福な蜜月がそこにはあった。

集団の持つ体質、そこでの労組役員の体質、オルグ意識ばかりが先にはたらくにんげんたちの体質、運動をくすねることばかりする政治セクトの体質も絡みあっている。このことは容易に腑分けできない。(p.610)

もともと哲学ないしは社会思想を勉強したくて大学に入った私は、K教授式の実践を相当に冷ややかに見ていた。大教室の目の届かない片隅に座り、ペーパー作成のネタになりそうな断片だけ聞き取り、残りの8割は聞き流していた。

 

石牟礼、という文字列が、イシムレという音に対応するのだと知ったのはその時だった。

曰く、元教員で、共産党員だったこともある。曰く、週刊〇曜日の編集委員を務めたこともある。曰く、この作品は、水俣病患者たちの苦しみのみならず・・・

私は即座に理解した。

K教授がいま取り上げようとしている作品が、トラウマメーカーこと『はだしのゲン』の精神的親戚であり、左派のエヴァンジェリストであり、不幸と同情の押し売りであり、文学作品の風上におけるような作品であるはずがない、と。

誤りに気づいたのは、『苦海浄土』抜粋が印字されたレジュメが配布されたときである。そのテクストに、文字通り心を奪われたのだ。もう、K教授のアジは全く聞こえてこなかった。

そこにうたわれていたのは、言い知れぬ郷愁を呼び起こす方言のことば。韻も律も放棄され、無限に拡大された短歌の世界、紛れもないやまとのうたの調べだった*2

イシムレの重要な来歴は、K教授によって語り落とされたのか、あるいは私が聞き洩らしたのか。彼女はもともと短歌を作る趣味をもっており、本質的には歌人だったのだ。

 

前置きが随分と長くなった。しかし、この前置きも、苦海浄土』を世界文学の文脈で読解をしてみたいという本記事の狙いと無関係ではない。

 

1.記録文学・証言文学とは何か

さて、ここで本作の読解の為に、世界文学のライブラリの中から、二つの作品を召喚してみたい。

一作目は、人類学者であるエリザベス・ブルゴスによって書かれた『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』である*3

この作品は、グアテマラのマヤ系少数民族出身のメンチュウが、グアテマラ政府及び軍事組織から少数民族に加えられた差別・迫害・搾取を告発する内容となっているという。メンチュウは、1992年にノーベル平和賞文学賞ではない)を受賞している。

ポイントはここからだ。アメリカの人類学者であるデヴィッド・ストールは、詳細な現地調査のもと、彼女の物語の細部が真実でないことを実証したのである。あまりに滑稽であるが、これは今からほんの20数年前の話である。

仮に、作中の出来事すべてに、過去との間に1対1で対応する事実があったとしても、それは生起した事実の正確な活写では有り得ない。1分1秒の事実全てを書き起こすことは原理的に不可能であり、そこには必ず書かれなかった事実も存在していたはずだからだ。

即ち、いかな記録文学・証言文学といえど、それ自体の真実性が玩味されるべきではない。文学はどこまでいってもおとぎ話なのである。

文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。(『文学講義 上』p.61)

もう一作は、こちらはノーベル文学賞のほうを受賞した、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチによる『亜鉛の少年たち』だ。これは、ソ連によるアフガン侵攻の帰還兵から、著者自身が聞き取った内容を記したとされる記録文学・証言文学だ。

この作品が示唆的なのも、内容についてではない*4。この作品によって作者が、証言をしたとされる兵士とその家族から、名誉棄損で訴えられた事実について*5である。訴え提起の背後には、アフガン戦争を美化したい政治的な意図が見え隠れする。

この事実は、いかなフィクションであっても、現実政治との距離感によって、受容や読解が簡単に左右されてしまうことを示している。

 

こんな当たり前(私見)のことを強調するのには理由がある。2023年現在、『苦海浄土』の題材である水俣病が、未だにアクチュアルな社会的・政治的課題として存在し続けているためである。例えば、2023年に判決が下ったある訴訟では、原告団が掲げた「不当判決」の文字の横に「苦海どこまで」の文字が躍っていた。これは、水俣病を巡る諸問題において、如何に本作がアイコニックな役割を果たしているかを示している。

しかし、果たして現在、ツルゲーネフの『猟人日記』を読むときに、19世紀ロシアの農奴制という問題に政治的関心を抱くことがあるだろうか?トルストイの『戦争と平和』を読むときに、トルストイの説教をうるさく思う方が多数派なのではないか?

誤解を恐れずに言えば、私は著者自身の考えにかかわらず、水俣病」が完全に風化したときにこそ、あるいは、「水俣病」を農奴制と同程度にまで脱色しえたときにこそ、苦海浄土』の文学的価値が見えてくる、と思っている。

 

2.近代文明批判再考

さて、周知の通り、『苦海浄土』は水俣に育った著者石牟礼による、水俣病の発生とその後の闘争に関する物語だ。

私がこの物語の中で特に注目したいのは、何が書かれているかではなく、どのように書かれているか、だ。本作は、語り手(≒著者)の語り、当事者の語り、医療記録、行政記録、報道資料等々の文献資料からの引用の三重奏で書かれている。もちろん、当事者の語りを再構成した点も、引用する資料をセレクトした点も、著者の創意であることを忘れてはならない。

この本をお持ちの方はお手に取って、読んだことない方は書店などで、ぜひパラパラと本をめくってみて欲しい。黒がちで漢字の密度が濃いところが引用部分、白がちでひらがなが多いところが当事者の語り、中間的な部分が語り手の語りの部分であることが視覚的にも明らかだ。

著者は患者支援の市民団体の立ち上げまで行った人物である。従って、当事者の語りだけでも作品は作り得たかもしれないし、むしろそうする方が自然だったはずだ。

しかし、この語りの三重奏こそが、ある種独特の効果を生み、単なる批判の書・告発の書に留まらないより高次の次元へと作品を引き上げている。

避病院から先はもう娑婆じゃなか。今日もまだ死んどらんのじゃろか。そげんおもいよった。上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で、手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死にぎわのごだった。ふくいく肥えた娘でしたて。(p.28)

またその頃から言語障碍が現れ、手指震顫を見、時にChorea様の不随意運動が認められた。八月に入ると歩行困難が起り、七日水俣市白浜病院(伝染病院)に入院したが、入院翌日よりChorea様運動が激しくさらにBallismus様運動が加わり時に犬吠様の叫声を発して全くの狂躁状態となった。(p.31)

犬吠様(けんばいよう)。読めた人が何人いるだろうか。

ここで際立つのは、漢語によって示された文明の言語の異質性、非人間性だ。こうした表現に接すると、この本を近代化・文明批判の書として読みたくなる。事実、著者自身の語りの部分には、そのように読める部分もある。

ひとりの人間にとって、文明とは何であったろう。すべての文化とは、文明とは、ひとりの人間にとっての、属性でしかない。(p.221)

しかし、ここでは石牟礼の言語感覚に敬意を表して、もう少し先へ進んでみよう。

思えば、近代化という営みは、何も歴史区分上の近代以降に限って起こった事象ではない。例えば、日本史で最初の頃に習う蘇我氏物部氏の争いも、外国から伝わった知識・技術を用いて近代化を進めようとする蘇我氏と、それに対抗する物部氏との勢力争いだ。その結果として導入された律令制は、中央集権化の亢進と行政権力の拡大とを意味した。

そして、当時我が国が輸入した舶来の技術の最たるものこそ、漢字である。技術としての漢字は、すぐに行政権力と結びついた。現存する我が国最古の書物が、漢字技術を用いて作られた官製の歴史書(『古事記』)であることは、象徴的でさえある。

しかし、人は政のみにて生きるにあらず。漢字技術はその受容の最初期の頃から、変容され、翻案された。いわゆる万葉仮名である。万葉仮名は、既に『古事記』の中にも使用例がみられるという。その使用箇所こそ「歌謡」、すなわち和歌の母体である。そしてその名の通り、万葉仮名の使用は歌集である『万葉集』において一つの頂点に達する。

思うに、苦海浄土』はある種の翻訳文学である。文明の言葉である漢字と、歌の言葉である仮名との相互翻訳。権力の言葉と、個人の言葉との相互翻訳。日本語から日本語への翻訳。中心から周縁への、周縁から中心への翻訳。石牟礼道子にこれが可能であったのは、彼女が歌人であり、文明の言葉と歌の言葉とのバイリンガルだったためだ。

従って、本書を単なる文明批判の書としては読みたくない。著者自身も、水俣市民に進取の気風があったからこそ、水俣チッソという巨大企業が生じたことを克明に描いている。また、本書には、ある種の和解あるいは赦しの文学として読む余地さえある。

そこで私は、人間集団内でしばしば発生する「近代化」という相克を、翻訳という営みによって乗り越えようとする試みとして本書を読み取りたい。

そして、そうした作品であるからこそ、本作を「世界文学」として位置付ける意義が現れるのではないか。母語で書かれた作品に「世界文学」という冠を付すためには、それが単なるお国文学自慢を意味するべきではないのだ。

 

3.世界文学に位置付ける

実は、『苦海浄土』を世界文学と位置付けたのは、池澤全集だけではない。先日紹介した『世界文学アンソロジー』【過去記事】でも、その一部が取り上げられている。

同作では、「環境ーわたしたちを取り巻く世界」のテーマのもと、ファン・ラモン・ヒメネスの詩二篇と、クリスタ・ヴォルフ【過去記事】の『故障』という短編とともにまとめられている。

今回は、同作の二番煎じで、私が思う『苦海浄土』とともに位置付けられるべき作品を考えてみたい。テーマはやはり「近代化」である。

一作目は、カフカ作品を挙げたい。『失踪者』【過去記事】の感想でも書いたとおり、私はカフカ(の一部)作品の主要テーマを、行政権力と対峙する個人の本能的恐怖、あるいは、個人視点から捉えた行政権力の滑稽なまでの不条理さであると捉えている。その感覚は、『苦海浄土』とも通ずるものがある。『失踪者』*6でもいいが、そうした系譜のものとしては、『審判』*7か『城』、短いものなら『流刑地にて』を推したい。

二作目は、フリオ・コルタサルの短編「南部高速道路」*8だ。『苦海浄土』の続巻である短編集の冒頭にこの作品を配した池澤氏はまさに慧眼という他ない。同作は、フランスの南部高速道路で起きた大渋滞を舞台にする。無時間的に解消しない大渋滞の中、運転手同士の連帯が生まれ、やがて小さな共同体が成立していく。文明の象徴ともいえる高速道路の中に、白昼夢のように生まれた原始共同体の描写が実に見事だ。高度成長期を迎えた日本社会と、在りし日の不知火海の神話的世界とを、そこに二重写しにしてみることも許されるだろう。

このように、特定の政治課題の箱から取り出したときに、読み手の読みのモードの中で、作品は国境を越えるものと思われる。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(日本語での創作を考える人へ)

 

・本作を世界文学に位置付けた作品

・世界文学に位置付けることとは

<<背景>>

第一部は1969年出版。

続刊にあたる「天の魚」は1974年に出版され、現行の第三部にあたる。

両者を架橋する「神々の村」が2006年に出版され、全三部として完結した。

最も有名なのが第一部にあたる部分で、私が学生のときに読んだのもこの部分だと思われる。本作を読んだという人の中でも、第一部のみに触れている人も多そうだ。また、正直なところ作品のクオリティとしても、やはり第一部が最も完成度が高いようにも思われる。

しかし、第一部が出版された1969年は、ようやく水俣病第一次訴訟が提訴された年だ。また、作品としてのテーマの深化を考えると、第二部や第三部を外してこの作品を捉えることもまた不適切だろう。

感想で取り上げたカフカ作品は概ね1910-24年頃、コルタサル「南部高速道路」は1964年の作品だ。

さて、ここで少し注釈めいたことを。

第一部の末尾に書かれている「いのちの値段」を決めた契約書だが、これは後の訴訟で無効になっている。日本は自由主義国家であるため、私人間で交わした契約は有効であり、たとえ国家であれ、そこに介入することは許されないのが原則である。しかし、「公の秩序・善良の風俗」に反する契約、即ち、良識に照らし異常性の強い契約に関しては、契約が無効となる(民法90条)。講学的に典型例として挙げられるのは、愛人契約、奴隷契約である。この「見舞金契約書」はこれらと同視しうる程度に恥ずべき契約書であったと認められたことになる。

生活保護法の収入認定問題も、あまりに戯画的でカフカ的な不条理ささえ感じるのだが、長くなったのでこの辺で。

<<概要>>

全三部、第一部から順に、7章、6章、7章の構成だ。各章には章題が付され、第一部のみ章の下に小見出しが存在する。「わたくし」の一人称のもと、著者自身も作品世界内に登場するため、一人称小説ともいえる。しかし、本文で取り上げたとおり、聞き書きの体裁をとる部分も多く、語りの位相は複雑であり、それが魅力的だ。

<<本のつくり>>

この全集の第III集のラインナップが発表されたとき、『苦海浄土』がセレクトされたことはある種の驚きをもって迎えられたように思う。それは、2015年にアレクシエーヴィチがノーベル文学賞を受賞したのと同じ種類の驚きだ。「世界」に日本が入るところまではわかるものの、川端でも、安部でも大江でもない。今ではすっかり「世界」のラインナップに入るのが自然と受け止められているようにも感じるが、それはやはり池澤氏の功績と言っていいのだろう。

ただ、「自国を代表しうる傑作」という意味を超えて、どこが「世界文学」なのか、という問題がこれまでずっと不思議だった。特にこの作品は、方言の音の響の妙が大きなポイントの一つで、ひと目他言語への訳出=輸出が難しそうな作品である。唯一英語版に訳出がされているようだが、海外ではほぼ無名に近いと言われる。

今回は巻末解説も挟み込み冊子もいずれも池澤氏の手によるもの。作品への尊敬の念はビシバシ伝わってくるが、正直若干暑苦しい。背景欄で若干ふれたとおり、この作品は完成までに長い来歴のあった作品である。底本や、各部の初出等の基本的な情報に加え、テクストの温度感の変遷などにも触れて欲しかった。こういうところはやはり、情熱的な作家にではなく、冷静な研究者にこそお願いしたい。

*1:いろいろ特定できてしまった方はそっとしておいて下さい・・・。

*2:古い記憶のため曖昧だが、この記事の冒頭の引用箇所だったように思う。

*3:なお、残念ながら私は同書には直接触れられていない

*4:苦海浄土』と『亜鉛の少年たち』の内容面の読み比べもそれは示唆に富みそうだが、今回は扱わない。

*5:最近岩波から出た増補版の「増補」部分は、原著者によって書かれたその経緯である。本編よりも増補部分の方が面白いくらいだ。

*6:アメリカ』あるいは冒頭1章の『火夫』

*7:『訴訟』とも。

*8:岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男』にも採録されている。