ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『世界文学とは何か?』デイヴィッド・ダムロッシュ/六名共訳

千の夜を飛び越えて走り続ける

英語とロシア語こそが、ナボコフにとっては真の「笑いと嘆き」(laughing and grief)*1の言語なのだ。

<<感想>>

『世界文学とは何か?』、本書のタイトルはわかりやすいようで捉えどころがない。その内実は、全く新しい「世界文学」という実践を行うための宣言であり、あるいは最初の実践である。

ある程度以上、海外文学にハマっている読者であれば、次のような悩みを持ったことがあるだろう。

キリスト教徒ではない私が、本当に『罪と罰』を理解したといえるのだろうか?『ボヴァリー夫人』【過去記事】を本当に味わうためには、やはりフランス語が必要なのではないか?植民地支配への罪の意識を無視して『マンスフィールド・パーク』【過去記事】を読むのはいけないことなのではないか?

そしてこうしたたぐいの問いは、一般読者にとってだけではなく、研究者にとっても切実な問いであった。

切れ味鋭い(ように見える)大量の文学理論が創出された後、果たしてどのような文学研究が可能なのか?「オリエンタリズム」に囚われず、外国文学を研究することはできるのか?そもそも、文学研究に学問的な価値などあるのか?

本書は、こうした文学を読んでいく上での根源的な問いに答える。屋根裏部屋でほこりをかぶっていた「世界文学」という言葉にふたたび命を吹き込み、新しいパラダイムを打ち立てるのだ。

1.位置づけ

ダムロッシュの仕事は、まるでジョン・ロールズのようだ。

ロールズは『正義論』で有名な倫理学者・政治哲学者だ。ロールズ登場以前では、懐疑主義相対主義が蔓延し、もう政治哲学など論じることはできないのではないかと誰もが思っていた。そこに登場したロールズは新しい『正義論』を打ち出した。もちろん賛成する論者も、反対する論者もいたが、ロールズ以降、ふたたび「正義」を論ずることが可能になったのだ。

ダムロッシュ以前の状況も同じだ。百家争鳴の文学理論で、昔ながらの批評はすべて切り刻まれた。世界を席巻した『オリエンタリズム』のおかげで、他文化への道はガラスの橋のようになってしまった。

ピーター・バリーは『文学理論講義』の中で、テリー・イーグルトンの『文学とは何か?』*2の出版を、二十世紀文学理論の十大事件の一つに数え上げた。しかし、私の見るところ『世界文学とは何か?』の出版は、それよりも大きな二十一世紀最初の重大事件の一つである。

2.主張

ダムロッシュの議論の特徴は、アリストテレス的な中庸の徳に求められる。具体的には、文化の多様性への力強い肯定を基盤にしている。これは今日、頑迷な保守主義者や、狂信的な普遍主義者以外からの多くの支持を得られるはずだ。そして、そうしたコンセンサスを背景に、文学の学問としての新たな可能性をひらいている。

さて、彼の主張の骨子は3つある。以下、彼自身による定式をそのまま引用する。

一、世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。

二、世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。

三、世界文学とは、正典のテクスト一式ではなく、一つの読みのモード、すなわち、自分がいまいる場所と時間を超えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するという方法である。(p.432)

うーん、なんかよくわからん?

大丈夫、その具体的な意味は、終章において著者自身の手によって明敏に説明されている。もしダムロッシュ自身の定式に興味があるなら、終章だけでも読んで欲しい。

ただ、最初に書いたとおり、本書は理論書というよりは実践なのだ。終章に至るまでの序章+9章の合計10章で十分に行われ、また例証されたことのコアが先の3つのテーゼなのである。従って、主役はこちらのテーゼではなく、各章の例証の方なのだ。

各章(序章を含む)では、1章あたり1冊、主役としてスポットライトを当てられる作品が登場する。詳しくは後に概要を示すが、比類ない古今東西ぶりであり著者の底知れない知識量を感じさせる。そしてその読解方法も、テクストの受容史と生成史、そしてテクスト本体を自由自在に往還し、テクスト内的情報とテクスト外的情報の類縁を美しく描き出す、とてもエキサイティングな内容だ。

3.実践

そうかといって、前述の3テーゼだけでは、これが一般読者の疑問に対して何の役に立つのかわからないかもしれない。沼野先生も解説では先の3テーゼと別の言葉でダムロッシュのエッセンスを説明している。

そこで私も、さっそくダムロッシュアニキに教わったエッセンスを実践に移して、私の読解世界の中に居るダムロッシュアニキから一般読者向けの優しい導きを抽出してみたい。

 

私の解釈は間違っているんじゃないかって?

大丈夫、研究者たちだって、これまで随分と自分たちに都合の良い、一方的な解釈をやらかしてきたんだから。あなたにはあなたの背景とあなたのテーマがあって、それに基づいた解釈はきっと間違っていない。でも、それがあなたの本当に好きな作品なのだったら、是非ともその作品の専門家の意見も聞いてみて欲しい。それであなたの解釈に別の光が当てられたり、あなたの解釈がさらに深まる助けになるかもしれないから。

翻訳で読んだって、作品の理解には程遠いんじゃないかって?

たしかに、あなたの国の名作の中には、翻訳しても伝わらない作品もあるかもしれない。そうした作品は「世界文学」にはなりにくいかもしれないけど、それは悪いことじゃない。ただ、あなたが「世界文学」として受け取っている作品は、あなたの国の言葉になることによって、あなたという異文化の人に読まれることによって、より豊かになる可能性を秘めているかもしれない。大丈夫、今の翻訳者は素晴らしい仕事をしている。でも、その作品をあなたが本当に好きになったのなら、是非、他の訳者が訳したものも手に取って欲しい。そしてもし可能なら、一番好きな作家が使った言語だけでもいい、その言語を身につけてもらえれば、さらにあなたの世界は広がるかもしれない。

次はどの作品を読まなければならないのでしょうかって?

残念だけど、既に「世界文学」の量は人間が一生で読める量を超えているんだ。だから、あなた自身の感性に従って、取捨選択していいんだよ。特定の作家の作品を全部読んだり、ひたすら文学史を遡ったり、そういう仕事は研究者に任せていいんだ。興味が湧いたなら、その上前をはねたっていい。あなたがあなたの興味に従って、どんどんと世界の文学作品を読み進めていったとき、そこにできた関心の足跡、テーマの軸があなたの世界文学のあり方なのだから。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(悩める全ての文学子羊へ)

 

・過去に一世を風靡した文学理論、概観に擬態した一つの立場

・国内における「世界文学」実践の一つの形

・「世界文学」の前線に立つ訳者たち

<<概要>>

序章+9章+終章の全11章構成。

本体部分の9章は3章ごとに括られて、「流通」「翻訳」「生産」の全3部で構成される。なお、章の下の区分にはないが、行アキが付され、おおよその意味のまとまりで区切られる。

以下では、各章のテーマとなる書物を紹介するとともに、若干の梗概を付す。

・序章=『ゲーテとの対話』エッカーマン

テクスト内からゲーテエッカーマンの「世界文学」観を引き出しつつ、その受容史において如何にエッカーマンが無視され続けてきたのかを同時に示す。

生成・受容・翻訳に関する優れた問題提起。

私の考えでは、世界文学は、翻訳であれ原語であれ、発祥文化を超えて流通する文学作品すべて包含する。(p.15)

余談だが、私は海外文学を読み始めたごく初期の頃にこの作品に触れている。それも、何某かのブックリストにおいて、本書がまさしく「正典」として掲げられていたからだ。老人が若者に勧めたがりそうな本、という当時の感慨を懐かしく思い読んだ。

・1章=『ギルガメシュ叙事詩

すんげー面白い。テクストの「発見」までの物語がまるで冒険小説のように綴られる。

そして、そもそも発見に至る動機付けの段階で、特定の解釈が予定されていたことが暴露される。「発見」期の後に、本テクストが他のテクスト解釈にどれほどの影響を与えたかも示される。結末部において、ギルガメシュ叙事詩自体が、古代の知を探究することに価値を置く物語だとする解釈が示され、テクストの外と中とが結合される。

古代のテクストは、近代世界で流通しはじめると同時に、新しい、驚くような文学的並置を作りだしていく。(p.89)

・2章=『メキシコ雅歌集』(未邦訳と思われる)

16世紀にメキシコで作られた先住民詩の選集である。前章同様、テクストが現代に届けられるまでの冒険の旅が綴られる。論旨は前章と逆、これが現代に残ってくれていたおかげで、如何に多くのことが理解可能になったかが強調される。また、他文化を図式的に理解することがいかに本質を歪めるかも仄めかされる*3

あるテクストが時間を越え、文化を越えて流通していく際に、その意味をどう変化せ、新たにするのか。アステカ詩はそのいくつかの典型的な例を体現している。二重の歴史的背景をもつという点で、これらの詩は、ボルヘスが小説上で探究した「時とともに移りゆく意味」という主題の実例となっている。(p.153)

・3章=『ジャンバティスタヴィーコ―アフリカの言説の陵辱』ヌガル(未邦訳と思われる)

メソポタミアからメキシコに飛び、次はコンゴ。この著者ヤバイ(語彙力)。そしてこのフランス語で書かれた作品は、ダムロッシュによればまだ一度も翻訳されていないという。アフリカの口承文化と、宗主国からやって来た書き言葉文化との対立を背景にするとても面白そうな話。読みたい。

本作を論文として読んだ場合、核心に近い論述がなされている大事な章。勘の良い方はおわかりのとおり、それまでの西洋の「世界文学」がいかに狭い世界を指していたかが丹念に例証される。1955年にアメリカで出た選集では、採録された1010作品のうち、非西洋作品は三作*4だったらしい。

重要なのは、・・・作品を元のコンテクストに閉じ込めておくことも、私たち自身のいまこの瞬間のニーズに完全にしたがわせてしまうことも、どちらもしないようにすることだ。(p.210)

・4章=「巻物に収められていた、死者の都の書記ナクト・ソベク作の甘い言葉」

石板、口承、書物ときて、パピルスの登場である。語彙力。なお本章で一番の驚きは、文中に普通にヒエログリフが登場すること。文字データとして印刷できるんですね。

話題はいよいよ翻訳論で。この手の話題で必ず触れられるベンヤミン「翻訳者の使命」や、我らがナボコフ先生の「ナボコフ訳注『エヴゲーニイ・オネーギン』」にも言及される。当然、VNの『オネーギン』は原著への極端な合一主義の一例として批判的に紹介される。しかし、ナボコフがロシア語へと訳した『不思議の国のアーニャ』*5の言葉遊び部分の置き換えは好意的に紹介される*6

概して、翻訳論でもダムロッシュは中庸の美徳を貴んでいる。

私が言いたいのは、原作のコンテクストが読者を圧倒して、詩が入口を作ってくれた虚構の世界に入るのを妨げてはいけないということだ。あの古代エジプト語詩を鑑賞するうえで、語り手が服を脱いでいるということがわかるのは大事だが、脱いだ服の種類はさほど重要ではない。(p.245)

・5章=『神性の流れる光』メヒティルト*7

中世ドイツ、女性の修道女、神秘思想家が書いたエロい詩。エロさが翻訳・編集によっていかに隠ぺいされてきたかという点と、散文と韻文とを行き来する文章の翻訳の困難さに言及される。散文と韻文とを行き来するエロ王朝文学を要する我が国も無関係ではいられまい。ダムロッシュのテクストもさることながら、こんな詩が存在していたことにまず驚いた。現代の女性作家が触れれば、実りが多そうなテクスト。

・6章=『城』カフカ

みんな待望の「知っている作家」を取り上げている章だけど、論の中身は弱め。エスニシティを薄めた古い訳と、それを取り戻した新しい訳。ただ、原著者の望みは本当にその新しい言葉遣いにあったのか?など。日本でも、かつてはドストエフスキートルストイもみんな米川先生が訳していたから、どっちも文体が一緒に見える、なんて話があったそうだ。

・・・理想的なのは、複数の翻訳を入手することだ・・・。なかには近年の新しい版よりも、カフカモダニスト的な面、普遍主義者的な面をより多く残した翻訳もあるかもしれない。(p.318)

・7章=P.G.ウッドハウスの諸作品

ウッドハウスはユーモア小説、探偵小説、短編集などを書いた多作な作家で、英米両国で活躍している。このため、本章の中心テーマは英語論となる。英語内部での広がりについて論じられ、その文脈でチアヌ・アチェベやカズオ・イシグロなどへ話は膨らむ。

地球の各地であたらしい使い方をされることで英語が一段と豊かになる可能性もある。このときには、文学の働きが重要となる。(p.348)]

・8章=『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』ブルゴス

ダムロッシュ一流の生成史と著者のエスニシティ、テクストそれ自体に深く迫る批評が見られる章。メンチュウはグアテマラ先住民族の女性で、作品は、軍事政権の横暴を告発する「証言文学」だ。本作は発刊後、作品の内容に虚偽があるとの批判にも晒されている。このため、「証言文学」における証言者と聞き手との関係や、「証言文学」における虚構の在り方について論じられる。

「証言文学」とは、個人の視点から社会的事件にかたちを与えるジャンルだが、もっとも成功した「証言文学」の語りは・・・雄弁さに満ち、芸術的に造形されていて、ノンフィクション小説のように読めることが多い。(p.358)

・9章=『ハザール事典』*8パヴィチ

カフカに引き続いてファンが多そうな作品。ただ、同様に論述の中身は他章に比すと軽め。ポストモダン小説として他国で評価・紹介された本作が、その受容と相反して、強いセルビア民族主義的な主張を持った作品でもあるということが示される。個人的に興味深かったのは、パヴィチに影響を与えた作家としてダニロ・キシュ【過去記事】が挙げられていた点。

世界文学の作品をきちんと読むためには、両面を同時に生かすようにしなければならない。つまり、自分とは異なる時間と空間の要素に触れることを意識しつつ、その効力も書物が祖国から遠ざかるにつれて変化することを覚えておくことが必要になる。(p.425)

さて、ここまでの梗概をお読みいただいた真面目な方であれば、ダムロッシュの狙いもまた理解できたはずである。本書で示されたこのてんでばらばらの10冊の批評。その10冊を、特定の個人がその視点に立ちつつ、書物に思いを致して読解したときに立ち現れるテーマ。これこそが、ダムロッシュのいう読みのモードそのものであり、私が冒頭で表現した、本書は実践であるという言葉の意味である。

また、終章でダムロッシュ自身によって、『失われた時を求めて』と『源氏物語』の類縁性が指摘され、そうした観点から読むのも面白いとされていて驚愕した*9。はじめて「見出された時」を読んだときから、私もそのように感じていたからだ*10

<<背景>>

原著の発刊は2003年、日本語訳が出たのが2011年であるが、恐らくはもうこの分野では古典と言って良い。

本文でも触れたイーグルトンの『文学とは何か』は1983年に発行され、翌年には邦訳が出ている。同書は2014年には岩波文庫に入った。『文学部唯野教授』教授のタネ本であるなど、キャッチーな作品だし、読むとアジりが上手くて引き込まれるが、正直なところ本書を筆頭に、もっと良い本が沢山あるように思う。

なお、文学理論の概観をするためには、本書でも紹介されているジョナサン・カラーのものも良いですが、私のおススメはピーター・バリーのものです。

<<本のつくり>>

最初に共訳者6名の方のお名前を。秋草俊一郎、奥彩子、桐山大介、小松真帆、平塚隼介、山辺弦(敬称略)の6名である。ダムロッシュ自身が一体何か国語ができるのか謎だが、ぱっと見少なくとも英独仏にヒエログリフが読めそうだ。こうした諸語が、その言葉遊びの部分まで含めてきちっと訳出されていること、それが各国文学の専門家の共訳によることも、ダムロッシュの世界文学の理念の体現の一つである。

なお、表紙絵の双頭の哺乳類は、終章で明かされるとおり、ロフティングの『ドリトル先生』に登場する「オシツオサレツ」*11という生き物、あるいはヒエログリフの文字から採られている。

また、これはどうしようもないが本書は結構高い。今回これを書くのに再読をしていたら、栞がわりにしていたスリップが出てきて、なんとまだ消費税が5%!本も高くなりました・・・。

ところで、本書の共訳者3名を含む5名により、『世界文学アンソロジー』という作品も出版されている。これは、古今東西の世界文学の短編の中から、各選者が共通のテーマで貫かれた3篇を紹介するというアンソロジーで、まさに「世界文学」の実践の一つである。各テーマごとに、おかわり用のブックリストまで付いていて、これもまた激推しの一冊だ。

*1:不思議の国のアリス』のウミガメモドキの箇所で使われる洒落(ラテン語ギリシャ語,"Latin and Greek"のもじり)と掛けている。のちの註も参照。

*2:まるで本書のタイトルは同書のタイトルを意識しているかのようである。しかし、同書の原題は"LITERARY THEORY"すなわち、直訳すると「文学理論」である。本書のテーマの一つである受容と翻訳の問題がここにも顕れていて面白い。

*3:コンキスタドールによっても先住民の文化が一夜にして塗り替えられたわけではなかった、など。

*4:源氏物語』、『千夜一夜物語』、『シャクンタラー』。『千夜一夜物語』はある意味西洋の作品だし、『シャクンタラー』はゲーテのお気に入りなので、実質的には『源氏物語』のみと言っても良い。ただ、ここで『源氏』を誇りに思ったあなたのケツの穴もたぶん小さい。別の箇所で、「世界文学ではなく、「NATO文学」じゃないか」、という批判も紹介されているように、これは同盟国の誼による文化的近接性の賜物に過ぎない。

*5:もちろん、『不思議の国のアリス』の翻訳である。

*6:梗概にふさわしくないので、註にぶん投げたが、この箇所は本書全体の白眉である。単に推しのナボコフ先生の登場箇所だからではない。言葉遊びの置き換えを言葉遊びで褒めるという高等テクを駆使しつつ、そのテクストがナボコフのその後の経歴を象徴していると論じ、テクストの内から外へと華麗なとんぼ返りをキメているからだ。さらにさらに、全体の論旨が翻訳論に繋がるのだが、この華麗なウルトラCが、全て日本語の読者に直解可能なように訳されているのだ。

*7:すごいぞ日本!翻訳あるぞ!

*8:私男性なので、男性版でリンク張っておきます。

*9:なお、さらに加えて三島由紀夫の『春の雪』もどうだろう、と勧められている

*10:当ブログの『失われた時を求めて』第7篇の感想としても書いて、もう2年半も下書きのまま。第6篇の感想が上手く書けなくて凍結しているためです。

*11:新訳では「ボクコチキミアチ」。私は終章を読むまで一切思い出すことはなかった。うちの8歳児に表紙を指さしてこれ知ってるー!と言われて、それが正解だったときはとても驚いた。