ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

036『女がいる』エステルハージ・ペーテル/加藤由美子・ヴィクトリア・エシュバッハ=サボー訳

誰かを愛して生きること

女がいる。僕は彼女を愛している。理由は逐一説明できろうだろう。彼女の特性を、・・・ひとつずつ挙げてみよう。・・・イタロ・カルヴィーノオートミールが大好き。ブロンズの肌。下品に、同時に恥じらいをもって、抜群に大胆に動く。(p.152)

<<感想>>

久しぶりにポモポモしい小説を読んだ。

もうね、何が厄介って、本来あらすじの説明をするようなステップであらすじ以外の何かを説明しなければならない。そもそも私はあらすじの説明が得意ではないが、それにもまして、このあらすじ以前の構成の説明は大変だ。

まず、本書は97の短い文章からなる。ここまではいいだろう。ニーチェを読んだ人ならば、あんな感じを思い出して欲しい。そして、97の文章は(普通に読むところでは、恐らくは、)相互に無関係で、全て独立している。

そして、97のうち殆どの章はこの言葉で始まるのだ――「女がいる。」

早速、第1の文章を引用しよう。

女がいる。僕を愛している。(p.3)

これでおしまい。これですべてだ。

続いて第2の文章の冒頭。

女がいる。僕を憎んでいる。影、と僕のことを呼ぶ。・・・(p.4)

ははーん。このあたりで本書の仕掛けが了解されてくる。

各章の基本形は「女がいる。+(僕を愛している。or僕を憎んでいる。)」からスタートする文章であり、全ての章はその変奏として構成されているわけだ。

すぐにはピンとくる方ばかりではないと思うので、序盤の17章からも少し引用してみよう。

女がいる。僕を愛している。僕は彼女に、追い出してくれてもいいよと言った。・・・僕のほうの理由は身体的なものだった。体にひどい発疹が出たのだ。・・・僕は体の中に何か気持ち悪いものがいるんだ、と言った。女はうなずいた。発疹がつぶれたところや水泡になったところを、うっとりと観察していた。・・・女は夢中になり、愛撫してキスし、分泌液を自分の肌に塗りつけていた。僕はぞっとした。僕のことはもはや重要ではなく、僕の発疹だけが重要なのだった。そうやって夏が過ぎだ。(p.43)

男女間の微妙な感情・関係の襞が描かれているのがなんとなく伝わるだろうか。

 

そしてもう一つピンとくるのが、カルヴィーノの『見えない都市』【過去記事】とよく似ているということだ。かたや55の都市、そしてこなた97の女。カルヴィーノの都市がすべて女性名だったことも思いだすべきだろう。それもそのはず、東欧作家の概説書である『東欧の想像力』の記述によれば、やはりこの作者はカルヴィーノの大ファンであったようだ。

さて、私は以前、『見えない都市』について、「まぁよくわからん」という感想を残した。本作もやはりこれと同様、上手に楽しむのが難しい作品である。読み手の側で楽しみ方を見出さないと置いて行かれるということもできる。

しかし、個人的には、『見えない都市』よりは本作の方が楽しんで読むことが出来た。それは、本作の方はまるで前衛劇団の演劇を見ているように読むことが出来たからだ。

幕が上がる。そこには女がいる。もちろん、その女を観測している男がいる。男と女の関係性・記憶・感情を描いた寸劇が行われ、すぐに照明が消える。再び照明が付いたとき、先ほどとは違う女がいる。演者は同じかもしれないが、そこに登場するのはやはり違う女だ。幕によっては、演者が交代することも、女が男を演じ、男が女を演じることもあるかもしれない。

さて、次の幕ではどんな変奏が繰り広げられるのか。制限された演出と制限された舞台装置だからこそ、男女間の、ひいては人間同士の関係性そのものが浮き彫りになっていると言ったら褒めすぎだろうか。

 

なお、大抵の章で男女の関係にスポットが当たるため、勢い性描写は直接的だし、その数も多い。また、時代背景(といってもたったの30年前)からするとやむを得ないといえ、男性の著者が描いた「女」像には今日的な視点からすると耐えがたい部分もある。

また、この地域の作品によくあるように、本作も作者の出身国であるハンガリーが辿った歴史への言及・仄めかしが多いのも特徴だ。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆(カルヴィーノ好きにはぜひ)

 

カルヴィーノの作品

・ポモチックな作品

<<背景>>

1995年作。原語はハンガリー語のようだ。

ハンガリー文学、といってもすぐにピンとは来なかったが、『悪童日記』でお馴染みのアゴタ・クリストフハンガリー風には、クリシュトーフ・アーゴタというようだ)はハンガリー出身でフランス語で執筆した作家である。

作者エステルハージ・ペーテルは、エステルハージ家というもとは大変な名門貴族の出で、ハプスブルク時代に宮中伯に任ぜられ、かの作曲家ハイドンを宮廷楽長として召し抱えていたそうだ。

著者自信は1950年生まれ。作家デビューが1976年とのことだから、その作家人生の前半分を社会主義国で、後半分を民主制の国で過ごしたことになる。

<<概要>>

感想にも書いた通り、全97章構成。すべての章はそれぞれ独立した物語、あるいは独立した語りだ。短いものでほんの半頁ほど、長いものでもおおよそ5頁程度だろうか。すべての章に章題が付されるが、その章題はすべて「女がいる」に章番号が付されたものである。

一人称小説であるが、どこか演劇のナレーションを思わせるような、少し突き放した語り口が特徴である。

<<本のつくり>>

重訳&共訳という珍しいパターン。原書がハンガリー語、底本がドイツ語で、ドイツ語からの訳出と、ハンガリー語との対照とで役割分担をしたそうだ。少なくとも訳文を読んだときの違和感はない。

ハンガリー史上の重要な人物が多く登場するが、過不足なく訳注で補われている。注が巻末に付されていて、いちいち飛ばなければならないのがやや不満である。

なお、あとがきによれば、ハンガリー語の語彙のなかでも特に卑猥なものが積極的に採用されているようだ。日本語で読む限り、確かに性描写が多いようには感じたが、そこまでそこまでどぎつい印象は受けなかった。