ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-02①『失踪者』フランツ・カフカ/池内紀訳

若き失踪者のアメリ

「そのことじゃないんです」

と、カールは言った。

「正義が問題なんです」(p.37)

<<感想>>

『失踪者』である。『アメリカ』ではない。

私は学生の頃、本作のタイトルを『アメリカ』として認識していた。これは文庫で出ていた訳本が『アメリカ』のタイトルを採用していたためだろうか。ともあれ、私は本全集版を手にして初めて、この『失踪者』が『アメリカ』のことであることを知った。

本作は、女中を妊娠させてしまったドイツ人の少年カール・ロスマンが、両親からアメリカへと放逐され、アメリカを遍歴する物語だ。

だからといって本作は「アメリカ」の物語ではない。また、ヨーロッパに居場所を失ってしまった、などという散文的な意味での「失踪者」の物語でもない。

 

カフカの小説のタイトルは、法律概念から取られたものが多い。『審判』や『判決』、『流刑地にて』もそうだし、そうやって考えると『城』は城砦なり城郭なりという意味ではなく、行政府という意味あいでの「城」だ。

それもそのはず、カフカは名門プラハ大学の法学部に学び、卒業後、弁護士事務所での見習いを経て、裁判所での司法研修まで受けている。研修終了後に選んだ職業も、半官半民の保険協会の調査員、すなわち法律実務を扱う官吏である。

 

従って、カフカのいう「失踪者」が日常用語における「失踪者」であろうはずがなく、これは法律用語としての「失踪者」の物語なのである。

 

視点を変えていうと、本質的に偉大な文学者であるカフカが、「失踪者」という法律概念を学んだときに感じた根源的な恐怖心が、実にいきいきと表現されている。

 

法律用語としての「失踪者」とは、失踪宣告を受けた者を意味する。失踪宣告とは、長期間の生死不明などの一定の要件*1を満たすものについて、裁判所が、利害関係人の請求に基づいて下す宣告である。そして、失踪宣告を受けたものは、死亡したものとして扱われる。

いわゆる行方不明者を代表例として、戦死者や災害被災者など、生死不明者について、その生死を公的に確定するための制度である。こう淡々と説明されると、なるほどそういうものかという程度のものだろう。

 

しかし、想像するに、文学者カフカはこの規定を、失踪者の立場に感情移入して読んだに違いない。そう、"失踪者の側"という本来ありえない視点だ。

現実的には、生死不明者というのはオブラートに包んだ物言いで、死亡確認未了者というのが残酷だが正確な物言いだろう。従って、「失踪者」はほとんどのケースでは、正しく死者である。

しかし、存在している失踪者の視点にたって見ると、こんなに恐ろしい制度はない。生きて、存在している自分が、いつのまにか自分の知らないところで、社会権力によって、存在しないものとして扱われることになるのだから。

 

失踪者/カッサンドラ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-2)

失踪者/カッサンドラ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-2)

 

これを裏付けるように、本作では主人公カール・ロスマンが、その場その場での権力から一方的な取扱いを受ける箇所が頻出する。敢えてたとえるなら、自分のした行為がいたずらであると咎められた少年が、職員室で教師に詰問されるかのようなシーンだ。

例えば第1部「火夫」では、カールは火夫が船長から詰問される場面に立ち会うことになる。あるいは、第3部「ニューヨーク近郊の別荘」にも、アメリカで身を寄せていた先の叔父から一方的に勘当を言い渡されるシーンが登場する。はたまた、第6部「ロビンソン事件」でも、就職に成功した職場で、ボーイ長に呼び出され、規則違反を難詰される。

いずれのシーンでも、カールの側の申し開きはまったく聞き入れられない。そもそも、カールの側の理屈と、その場の権力側の論理がまったくすれ違っているのがポイントだ。

 

ここで私が思い起こすのは、カフカより2年早く、同じプラハで、同じくユダヤ人として生を受け、カフカと同じく法律を学んだ人物、ハンス・ケルゼンである。この人物は、法哲学者として、後の研究者が決して避けて通ることの出来ないくらい決定的な業績を残した人物である。

彼の主要業績は、「法実証主義と呼ばれる考え方を確立したことだ、と要約できる。

「法実証主義という考え方を理解するには、それ以前の法哲学の主流であった「自然法思想」の理解が欠かせない。

我々にはなかなか実感がわかないが、キリスト教圏では、人間や山川草木を含む外界の事物、すなわち「自然」とは、神の被造物であると考えられる。これと同じように、「法」も神の被造物として存在していると考えるのである。従って、法学の役割は、既に存在しているあるべき法を発見することや、あるべき法の円滑な執行を考えることとなる。こうした自然法思想は、天賦人権説のような考え方を生むこととなる。

しかし、この考え方では、悪く言えば法律と道徳の区別が不分明になるし、ある意味では法は倫理のはしために過ぎないこととなる。

実証主義」は、こうした考え方を批判し、法律を道徳や価値の問題から切り離し、法律学を近代化したのである。法律学は、現にある法とその解釈のみを考察対象とすべきであると考え、倫理や価値観の問題を法律学の外に追い出したのである。国や時代によって、「正義」の概念は異なるかもしれない。しかし、その時々に異なる「正義」を支えるための技術体系として、法は存在するのである。

こうしたケルゼン流の立場を敷衍すれば、「悪法もまた法なり」*2となる。

 

ケルゼンの考え方は、その後、ナチスの登場により、猛烈な批判にさらされることになる。ケルゼン自身は、熱烈な民主主義の擁護者であったし、ユダヤ人であったため、ナチスには抵抗をした。しかし、ナチスを生んだのはその民主主義であるし、ケルゼン流の価値観という中身が空の法学では、ニュルンベルク法に対抗することはできない。

 

それ自体として価値観を持たない統治マシーンとしての法。そしてそれに運命を左右される主人公。カフカの描き出した世界は、驚くほどケルゼン的だ。

ケルゼンがこの世に生を受けなくとも、ケルゼンのような考え方は生まれていたのかもしれない。ケルゼンやカフカが生を受けたオーストリア=ハンガリー帝国は、多民族国家ゆえ、マリア・テレジア以来、官僚制と中央集権が発展してきたお国柄だ。そして、時はWWIの前後、世界中で近代化が推し進められていた時代である。

法学の世界において、この時代の要請に真正面から応えたのがケルゼンである。

他方、この時代の要請に対する本能的な、そして実に人間的な恐怖を描きだしたのがカフカである。

 

カフカについて、ミラン・クンデラが次のように書いている。

カフカは予言などしなかった。彼はただ「その後ろにあった」ものを見ただけなのだ。彼はじぶんが見たものが予-見であったことを知らず、社会組織の仮面を剝ぎ取ろうとするつもりなどなかった。彼は人間の内的なミクロ社会の経験知によって知った機制を明らかにしたのであって、<歴史>ののちの進展によってそれが大舞台で始動することになろうなどとは思ってもみなかったのである。(『小説の技法』岩波文庫p.162)

 

優れた文学作品は、普遍性と時代性とを兼ね備えているが、カフカの作品こそ、そう評するにふさわしい。ただ、本作の評価を下げなくてはならないのは、この『失踪者』以外のカフカの作品が、焼却されずに残されたからだ。『城』や『審判』など、カフカの他のより優れた作品の存在が、本作の価値を貶めている。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆(カフカを読むならほかの作品をお勧めします。)

 

 

<<背景>>

1911-1914年頃執筆。

敢えていうまでもなく、WWIの前夜の頃である。

どういうわけか、カフカ好きの人が書いた文章を読むと、カフカの作品に時代背景を読み込むのを嫌う傾向にある気がする。

しかし、作品に時代性が反映されているからといって、それが普遍性を否定する理由にはならないのではなかろうか。

<<概要>>

本作は未完成作品である。それも、著者の死により未完に終わった作品というのではなく、著者が明確に作品の完成を放棄したという意味での未完作品である。

本作が長編の形で出版されたのは、作者の死後の1927年。

また、『失踪者』の表題で、今日読める形で出版されたのは実に1983年のことだ。

今日読める形、というのは、完成部分の第6部までに、部に近い内容を伴った2つの断章、そして3つの断片である。

三人称視点書かれてはいるものの、主人公にあたるカール以外の人物を異質な存在として書き出す筆力は見事である。

<<本のつくり>>

訳者はカフカといえばこの人の池内紀氏である。

とはいえ、本全集に採録されたのは、白水社版のカフカ全集=白水社uブックス版の『失踪者』と同じモノのようであり、敢えて本全集版が存在する意義がいまいちわからない。

定番の訳者による翻訳といってよく、自然と読み進めることができる。

ただ、講談社学術文庫に入っている氏のカフカ作品論集『カフカのかなたへ』 も読んだが、どうも氏のカフカ論はしっくりこない。

カフカ批評といえば、私にはカフカの同郷であるミラン・クンデラのものが一番刺さった。

 

*1:日本民法では7年。ドイツ民法では10年だそうだ。

*2:より正確には、当該法が悪かどうかの判断は法学の埒外であるということになるが。