ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『文学とは何か――現代批評理論への招待』テリー・イーグルトン/大橋洋一訳

人類に逃げ場なし

知識は「価値自由」でなければならぬという主張も、それ自体、ひとつの価値判断である。(上巻、p.54)

<<感想>>

『文学とは何か』という表題に騙されていはいけない。

本作は、文学批評というジャンルの入門書か、あるいは教科書的な作品だ。

いや、いや、こんな真面目な文体でこの作品は論ずるのは辞めにしよう。

本作は極めてズルい。ズルい点は山ほどあるが、最とも卑怯なのは、「批評行為」をテーマにしている以上、読者の本作に対するあらゆる批評・批判も既にその手法が作品の中で徹底的な批判に晒されている点だ。

この手の卑怯な循環的議論の大師匠であるところのニーチェ先生も言っていた。

怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。(『善悪の彼岸』146節、岩波文庫版p.120)

まさしく言いえて妙だ。

 

よし、それならば奴等の土俵に立つのは辞めよう!奴等を批判の矢から防いでいる胸壁は我々自身の持つ、批判に耳を傾ける内省的知性に他ならない。

そんなものは直ちに打ち捨てて、独断に微睡む奴等の頬にモンゴル式のかち上げを食らわそう!

そう、これが書かれ、書き言葉になったその瞬間、これは奴等の手を離れ、我々読み手の掌中に陥ちた。今こそそのテクストを好き放題犯してやろう!

奴等マルキストはまるでハルキストの如く、その聳え立つ意識の上で特権を振りかざしている。今日こそメタメタ言っている奴等の更にメタに立って、奴等に批判の砲火を浴びせよう。あなたがたも既にイデオロギーに拘束されている?そんなことを言われたら、「知ったことか!」の一撃を見舞おう!これぞプラトン先生直伝の無知の痴、或いは無恥の知だ!

正々堂々エクリチュールと戯れよう。

 

さて、奴等の罪を数えよう。ひとつひとつ想い出せば何よりズルかったはずだ。

まず、教科書的な作風に擬態しつつも、その実のところ自身の批評的立場の宣明に他ならない*1。そのため、さまざまな批評的な立場のそれぞれの主張や特質の紹介を期待する純朴な読者の期待を裏切る。読後に残るのは、それぞれの批評的な立場に対する、特定の思想的立場から張られた同一のレッテルばかりだ。

次に作者が周到なのは、特定の思想的な立場に立っているということを正直に告白してから本文に入る点だ。特定の思想的な立場に立ちたいのであれば、正々堂々とそれを隠してプロパガンダに徹すればよろしい。それなのに敢えて宣言するのは、プロパガンダ批判に対する論点先取か、あるいは学問的誠実性に包まれたブルジョワ的な道徳観以外の何物でもない。

 

そんな奴等の倫理観よりは、需要に応えた実用的な教科書こそ良い教科書だという資本主義の倫理の方がよほど信頼できる。

そう、我々は奴等にオルグされたかったわけではない!あるいは、文学の置かれた政治状況を知りたかったわけでもない!作者の批評よりも作者がクソミソに扱うエリオットの批評の方がまだしも我々を楽しませてくれる!

奴等のペンもインクも、奴等の書籍の流通もすべては資本主義の産物だ。読者=購買者こそ、資本主義社会における権力者だ。さあ今こそ資本主義の名において、奴等の書籍にノーを突き付けよう!!

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆(読前読後に類書の服用を)

<<背景>> 

原著の出版年は1983年。

1983年といえば、奇しくも『構造と力』の出版年であり、我が国のいわゆるニューアカブームの華やかなりしころである。デリダの主要著作が出そろったのが60年代後半であるから、思想史的に見てもポストモダンの嵐が吹きあれていた頃といって良いだろう。

本書でも次のような皮肉が書かれているが、ここで皮肉られているのは幸い我が国ではない。

構造主義は、知的低開発国に対して一種の援助計画として機能した。そうした国々に対し、崩壊しつつある国内産業を建て直す重工業プラントを供与したのである。(上巻、p.290)

 

本書は、我が国でも1984年に翻訳がなされ、2014年に岩波文庫採録になった。

文学理論が最も流行していた頃の作品で、本国でもだいぶ売れたようだ。

このあと紹介する『文学理論講義』の中では、本書の出版を文学理論史の10大事件の一つに数えている。

文学部唯野教授』のネタ本としても知られる。なお、同作は1990年の出版だ。

さらに余談だが、本書に頻出するローマン・ヤコブソンとえいば、ナボコフ先生のハーヴァード招聘に反対した人物だ。曰く、「動物学の教授に象を招きますか?」と。(『ヨーロッパ文学講義』の文庫版下巻の沼野先生の解説より。)

 

<<概要>> 

序章+全6章の構成に、あとがきが付される。

おおよそ理論の大枠ごとに、

1章:英国批評理論の誕生

2章:現象学、解釈学、受容理論

3章:構造主義記号論

4章:ポスト構造主義

5章:精神分析批評

6章:政治的批評

にカコつけて自説が展開される。

なお、あとがきは、原著出版後の理論状況に関する解説に充てられている。

批評理論の便利な概説書として読むには全く向かない。イーグルトンの目を通した各理論家たちの「本音」ばかりにスポットがあてられ、それぞれの理論のポジティブな側面や、各理論家たちが表向き何を目指していたのかといった部分が伝わりにくい。

売れ筋の新書版の哲学本などにありがち*2な、毒気が多くて読者ウケが良いが、勉強には向かないタイプの典型だ。

勉強がしたいならピーター・バリーの『文学理論講義』をお勧めしたい。

文学理論講義: 新しいスタンダード

文学理論講義: 新しいスタンダード

 

 

<<本のつくり>>

作者は作中で言語の限界について熱心に論じていながらも、その実、言語の伝達能力に全幅の信頼を置いているようだ。仮に本作に、概説書なり教科書なりの役割を担わせたいのであれば、絵・図・表の力を借りてしかるべきだ。たとえば『マンキュー経済学』などを見習ってほしい。今時言語だけで伝えようとする教科書なぞ、人文科学系のコアなところにか存在しない。

作者の責任なのか訳者の責任なのか判然としないところでは、空行の入れ方がイマイチだ。紹介している学説や学者の中間的な区切りで入れているのかと思いきや、テーマがずれてきても空行なしで突っ走っている箇所も散見される。

注が豊富な点は喜ばしいところではあるが、原注と訳注とが巻末に別々に掲載され、参照しにくいことこの上ない。また、原注と訳注との差異は、本文中では丸かっこと亀甲かっこの差異で示され、こちらもわかりづらい。

巻末に人名注や人名索引があるのは大変よかった。

*1:もしかすると本作は、一周回って「文学」そのものなのかもしれない。本書が赤帯に分類されているのは、筆者の問いかけに自覚的なのか?はたまた何も考えていないのか?

*2:具体例は敢えて出さない。