ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『世界文学アンソロジー いまからはじめる』著者27名/編者5名

帰りたくないから止めないで

世界文学を読むとは、実はそのようなぐらぐらした、不安定な流れの中に身をゆだねることなのです。たとえるなら、きっちりとしたかたちのあるものではなく、不断に更新されるソフトウェアなのです。(p.14,まえがきより)

<<感想>>

本書は、とても素晴らしい本である。そのため、今日はこの本がもっと読まれて欲しいと思ってこの記事を書いている。

帯には「はじめての世界文学。」という惹句が踊っているが、類書がないため、どういう狙いの本なのかがいまいちわかりにくいと思う。

たとえるなら、この本は、5名のDJ(編者)が世界中の音楽(文学)から、9曲の楽曲を作り上げたリミックスアルバムである。各楽曲は、3つの作品から構成されており、多くは詩+短編二つの構成だ。

例えば第2章の表題は「自己―まるで檻のような」で、次の3つの作品からなる。

アンソロジー(作品集)というと普通は同じ作家の作品を集成したものだ。また、作家横断的な作品集の場合も、「ホラー」や「ミステリー」といったジャンルで集められるケースが多い。

本書が斬新なのは、ジャンルとは異なる作品それぞれの本質的なテーマを抽出し、かつそれを他の作品と繋いで作品集を組成しているところにある。だから、「好きな作家の作品が載っている/いないから」とか、そういうつまらない考えはいったん捨て去って、DJが繰り出す斬新なグルーヴに身を委ねてみて欲しい。DJ達はみな最前線で活躍している世代の一流の研究者=小説読み達だ。

全部で9章(テーマ)、即ち作品数としては27作が採録されていることになるが、いずれも名品揃いである。以下では特に気に入った章(テーマ)について、若干の感想を付す。最後に、この試みの狙いをもう少し踏み込んで論じた上で、それに対する感想を述べたい。

・まえがき

もうね、このまえがきからして素晴らしい。三省堂がこのまえがきをWebで公開してくれたらいいのに。もちろん、まえがきなわけで、この記事の冒頭で書いたようなこの本の説明が、もっと上品かつ正確に記載されている。

ただ、ぐっとくるのはそこではなくて、まえがきの最後で引用される「イサーク・バーベリ讃歌」の話だ。この下りを読んで、バーベリを読みたくならない人います?ぜひ早速書店で立ち読みしてきて、本書を買いたい気持ちになってきて欲しい。

孫引きになるが、一番いいところだけ引用しておく。

「このなかでどの話が一番いいと思う?ねえ、正直に答えてよ、どれがほんとに一番だと思う?」

私はガチョウを殺す話を選んだ。キャサリンはゆっくり読みだした。私はそれを見守りながら、本をその手から奪い取りたかった。この可憐な子供を、イサーク・バーベリから護ってやりたかった。*1

・第2章

冒頭で紹介したとおり、第2章の表題は「自己」だ。そして、その副題からしてもう読み手をえぐってくる。「まるで檻のような」である。

詩の感想を書く自信がないので、一言、表題に相応しい詩だとだけ書いておく。

そして次が、言わずと知れた童話作家アンデルセンの「影法師」である。

自分の影法師が、自分から分離し、独立して行動するようになり、やがては自分自身を乗っ取り、立場が逆転していくと言ったお話。

・・・君はだれからも、影法師、と呼ばれなければいけない。かりにも、もとは人間だったなどと言ってはならん。(p.81)

これだけでは単なるホラーだが、実体の方が真善美を探究する学者で、影法師の方が詩に触れ、経済的に成功し、やがて王女と結婚して権力を得る、となるとそこに含まれる寓意は明らかだろう。

非常に個人的な話だが、哲学科を卒業しつつも、院進を諦めて資本主義に魂を売り、結婚して文学を楽しみに生活をしている私はもう、グサッと刺されて血まみれである。

もう一作はナイジェリアの作家アディーチェによる「なにかが首のまわりに」

これは、アメリカに渡ったナイジェリア女性が、まだしも理解のあるアメリカ人の恋人を作るが、アメリカ的な社会感覚と、自己の出自に根差す感覚との差異に苦悩する話だ。

彼がナイジェリアへ行って、ナイジェリアを、貧しい人たちの生活をぼんやりながめてきた国のリストに加えるのも嫌だった。そこの人たちは、「彼の」生活をぼんやりながめることなどできはしないのだから。(p.95)

余談だが、今回この作品を再読する直前に、黒檀【過去記事】を読んでいたお陰で、随分アフリカ的な感覚が理解できるようになっていたことに気づいた。

ともあれ、本書はこのように、全く異なる時代・地域の作品を、同じ一つのテーマ・読解姿勢で繋いでいるところがキーポイントである。

・第4章

こちらの表題は「家族」。またしても副題で読み手を抉るスタイル、「かけがえのない重荷」ときたもんだ。作品は次の3作。

  • 「子供」(詩)石垣りん
  • 「私の兄さん」(短編)プレームチャンド
  • 「終わりの始まり」(短編)チヌア・アチェ

前同様、詩の論評はご勘弁をいただこう。

しかして、プレームチャンドはインド人の作家。この短編はヒンディー語で書かれた作品だそうだ。

誰が言ったか*2、「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ」という言葉あるが、本作はその逆。真面目が取り柄だが、勉強が苦手な兄と、行儀よく真面目なんて出来やしないのに、なぜだか勉強だけは得意な弟の物語だ。ここから手前味噌ストリームが始まるが、これ完全に我が家と同じ。私は兄の3分の1もマジメでなかったが、3倍は勉強が得意で、そして30倍は親に迷惑をかけた*3。文学作品の面白いのは、単純にこうした感情移入だけを迫られて終わるのではなく、ある意味で突き放して相対化できるようになる点にある。つまり、これ、兄の立場で読解したらどうなるのか?という味わいである。(うーん。やっぱり兄なんてクズだな。)

お次は『崩れゆく絆』で著名なナイジェリア人作家の作品だ。

今度は兄弟ではなく、親子がテーマとなっている。アフリカの伝統的な慣習に従って、同じ氏族間での婚姻のみが許されると考える父と、恋人と結婚をしたい都市住人の息子の相克。恐らくは世界中のあらゆる地域で繰り返されてきたであろう、世代間の価値観の相克であると同時に、家族という最小の社会集団と個人との相克の物語でもある。

父は社会集団の脅威を知っているからこそ、子に対してそのルールに従うように強いる。そして、子にそれを従わせる権威を与えているのも、またその背景にある社会集団である。このわずか数ページの物語は、親子関係・夫婦関係といった極私的なはずの関係を、相当程度社会が規定しているという実態を鮮やかに描き出している

・ほかにも

これ以外にも、単品で気になった作品はいくつもあるの。その中で一つだけ、アズィズ・ネスィンというトルコの作家の「神の恵みがありますように」について触れたい。

これは醜さ故に迫害された大男が、手の付けられない殺人鬼になるお話津山三十人殺しかあるいはジェイソンか。いずれにせよ、良くあるタイプのお話ではある。

しかし、その独特なオチが実に見事である。刑事弁護人、家庭裁判所調査官、ケースワーカーなどなど、モンスター化した人々に触れあうお仕事の人が読むとわかりみが深そうだ。

・この本の狙い

さて、実はこの本の真の狙いは、「文学作品を読むこと」についての新しいスタンスの提案にある。

かつて文学といえば、「文学全集」に代表されるように、権威付けられた(ほとんどが列強国に出自を持つ)作品のリストが与えられ、これを消化することが理想的な読書の在り方のように考えられたこともあった。しかし、文学はもっと自由で、作品を通じて、時空間を飛び越えた世界を読者の眼前に開いてくれるもののはずだ。

一定のテーマのもとにリミックスして作品を提示する本書のやり方は、そうして読者の眼前に開かれる世界を例示的に示したものである。

本書の副題にある「いまからはじめる」とは、こうしたスタンスを読者が受け入れ、読者自信が次なる世界を開いて欲しいという願いが込められている。つまり、読者自らがDJとなり、オリジナルのプレイリストを作成することが推奨されているのだ。

前述のいくつかの短編の感想の中に、私が自分の人生の断片を見つけ出し、これを相対化したのも、そのようにして開かれた一つの世界と言って良いのかもしれない。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆

 

・余談

ここから先は、本書から少し離れた「世界文学論」に対する感想と願望である。自分自信と、読んで意味がわかる人向けに書いている。

 

さて、この感想を書くにあたり本書を再読して得たのは、逆説的ではあるが、実は「正典」は必要なのではないか、という感覚である。その感覚の根源はおおよそ次の4つに求められそうだ。

1.共感の読書

沼野先生がお書きになった文章だったと思うが、「誰もあなたの代わりに本を読んではくれない」というものがある。また、「『失われた時を求めて』を読んだからって、それを名刺に書くわけにもいかない。」といった表現もあったと思う。これは、読書とはあくまで個人的な体験である、という趣旨であると思う。

しかし本当にそうなのだろうか。tiwtterなどを眺めていると、何なら本当にプロフィール欄に「〇〇読破」と書いている人もいる。あるいは、どうせ読むならメジャーな作品を、という作品選定の動機は決して珍しいものではないと思う。それどころか、未だにサマセット・モームの「世界の十大小説」を何かの指針にしてる人だって珍しくない。

これは結局、読書という行為自体が、多かれ少なかれ集団的なもので、不在の他者の存在を前提としたものであることを示しているのではないだろうか。

2.19世紀の偉大さ

これは音楽とか絵画とか、他の形式の芸術を鑑賞するときにこそ強く思うが、やっぱり19世紀の作品は偉大だ。調性音楽、印象派。我々の身体感覚、生活感覚にごく自然と訴えかける形式。

それに引き換え20世紀の作品は難しい。本作品に収録された短編にも、ジョイス「土くれ」やバーベリ「私の最初のガチョウ」のように、予備知識なしで理解するには困難な作品もある。

もちろん、それが作品の価値を損なっているとは思わないが、偉大なる入門編としての19世紀作品の価値は不変なのではないか?

3.間テクスト性

専門家じゃないので気軽に無定義でジャーゴンを使ってみる。

私自身これが好きというのもあるけれど、やっぱり意識的な引用であれ無意識的な共鳴であれ、これがわかると文学は面白い。そして相方となる確率が高いのはいわゆる正典的作品になってくる。

換言すれば、結局、作家自身が正典を読んで作家になっていることが多い。

4.バベルの図書館

世界文学の蔵書目録は日々飛躍的に拡大をし続けている。他方で、読み手の方の可処分時間は有限だ。資本主義の論理からいっても、ライトな読み手を増やさないことにはこの世界に未来はない。

実際、いわゆるブックリストに需要があることは今も昔もそう変わらない。だって、あのブログだってこのサイトだって、ブックリスト的な記事が人気になっているでしょう?

 

ここまで挙げた4つの理由は、一文で要約できる。つまり、「正典には需要がある」のである。さりとて、今更イニシエの文学全集を引っ張りだしてくるのは酷いアナクロニズムである。

そこで私は、我々読者が各人の「読みのモード」を実現するためには、良き船頭が欠かせないと思っている。膨大な19世紀のテクストを前にすると、枝打ちをしないと一生そこから出られそうにもない。では誰が枝を打ち、その先の道を拓くのか?私はそれにはやはり、専門家・研究者の手を借りたいと思う。それも、多様なバックグラウンドや専門性を持つ、複数のプロの手を借りたい。

そう、沢山書いたけれど、オチはこれだ。

次は中篇や長篇でもこの試みを!最後の全集である池澤全集が出てはや10年以上。何なら「いまからはじめる全集」もオナシャス!採算が取れないなら、私撰全集のリストだけでも発表していただけると、我々読者は大いに楽しめます。

 

・本書の企画のネタもとの一つと思われる

・池澤全集はこちら

 

<<概要>>

ここにくどくどリストを列挙するよりも、出版社のページの目次を見た方が良いだろう。また、収録作品の既訳(出典)一覧もあるので、続けてリンクを貼っておく。

<<本のつくり>>

編者は秋草俊一郎、戸塚学、奥彩子、福田美雪、山辺弦の5氏。いずれも東京大学の人文系の大学院出身者で、40歳前後であるから、まさに最前線の研究者と言って良いのだと思う。

感想にオカワリを要求するワガママを書いたが、各章にはご丁寧にも同じテーマでさらに読み進めるための読書案内が付いている。また、編者・訳者の手による9つの文学コラムが掲載されており、こちらも大変に面白い。

各章には若干の前文が付され、各作品には著者の略歴等も付される。反面、読書案内で若干触れられる他に解説のたぐいは無い。統一的なテーマのもとで採録されている以上、そこから先への読解は読者に委ねられていると思って良いだろう。

*1:ドリス・レッシング作「イサーク・バーベリ讃歌」『超短編小説・世界篇Sudden Fiction 2』所収

*2:北斗の拳より抜粋でございます。

*3:あるいは放蕩息子の帰還か