パニックパニックパニックみんなが慌ててる
理論的には興味深い研究ですよ。・・・でも、実際面の成果は?(p.150)
<<感想>>
今日は『一九八四年』の話から始めてみたい。
昔々、哲学科の学生だった頃、飲み会の席で文学の話が出たことがある。
まず話に出たのは、ドストエフスキー【過去記事】やらフローベール【過去記事】やらの定番どころだったように思う。そこで誰か(私だったかもしれない)が、「ジョージ・オーウェルなんてどうですか」と、ゼミのボスに尋ねた。専門が社会思想寄りのその先生は、そこで一言、「あれは仕事で読むもんや」と笑って言った。
それを聞いた私は、ああなるほどそういうものか、と妙に腑に落ちたのを覚えている。
誤解のないように最初に念を押しておくと、私はオーウェルは好きな方だし、全体主義も(ジャン・ジャック・ルソーも)大嫌いだから、『一九八四年』は好きな本だ。ただ、文学的には駄作だとも思っている。言い換えれば、あれはミルの『自由論』のような政治思想の本であると考えているのだ。
さて、ブルガーコフは、オーウェルと同じように、社会主義批判の文脈で論じられることが多い。しかし、私にとってブルガーコフは、豊かな文学性を備えたとても好きな作家の一人だ。
本作の舞台は1920年代モスクワ、毛むくじゃらの野良犬の視点からはじまる。死にかけの野良犬により、ひとしきり人間観察が行われた後、犬は医師である教授に拾われる。この教授、どうも新しく同じ建物の住人になった共産党員達と対立をしているらしい。教授が犬を拾った目的は、もちろん実験動物にするためだ。ここでブルガーコフらしいSFチックな設定が炸裂。野良犬は人の脳と睾丸を移植された結果、なんと人間に変容してしまう。
・社会主義批判?
この要約の仕方をすれば、当ブログをお読みいただいている慧眼な読者の方は秒でお気づきのとおり*1、この物語は『巨匠とマルガリータ』【過去記事】同様、ゲーテの『ファウスト』を強く意識して描かれている*2。親切なブルガーコフは、ちゃんと物語の終盤で明示の引用もしてくれている。
・・・最後にまったく一人きりで、白髪のファウストのように青白い顔をして叫んだ。(p.137)
『ファウスト』である以上、そこにおける人間認識の有り方は、理性を持ち神の如くとなりつつも、同時に動物以下にもなりうる野蛮性を秘めたものとして捉えられる。
メフィストフェレス 常に悪を欲し、常に善をなす、あの力の一部分です。*3(『ファウスト』1335-1336行、訳文は新潮文庫版より)
さて、先の元野良犬ことシャリコフは、共産党員達に折伏されて、元飼い主の教授と対立をすることになる。さりとて、共産党員達+シャリコフ=悪、教授=善という陳腐な二項対立が描かれているわけではない。むしろ、教授≒ブルジョワの俗物性や野蛮性、あるいは滑稽さもこれでもかと強調されている。
従って、本作が端的な社会主義・共産主義批判の書であろうはずがない。むしろブルガーコフが鮮やかに描き出したのは、右も左も馬鹿ばっかという、人間的愚かさである。
こうした視点で本作を読んでいくと、まるで左右の対立こそ人間本性であるかの如く、100年前と今とで一寸も変わらないやり取りが繰り広げられており、実にアイロニカルで面白い。
例えば、共産主義者たちが教授に対して、「恵まれない子どもたち」のため、五十コペイカする雑誌を買うようせがむシーン*4。
「なぜですか?」
「ほしくないからです」
「フランスの子どもたちのことをかわいそうだとは思わないのですね?」
「いや、かわいそうだと思いますよ」
「五〇コペイカがもったいないのですか?」
「いいえ」
「ではなぜ?」
「ほしくないからです」
しばし沈黙が支配した。(p.49)
これを戯画と言わずしてなんといおうか?
・人間を笑え!
ブルガーコフが笑い飛ばしてくるのは、思想対立だけではない。この180頁足らずの短い作品で、人間の社会的な営みそれ自体の滑稽さをバンバン抉って来る。
例えば、野良犬がはじめて鎖に繋がれ、首輪を与えられたあとの場面。
《首輪とは、エリート役人が持っている書類かばんと同じように一種のステータス・シンボルだな》
シャリクは心の中で自分のひらめきに満足し、ジーナの後を追って旦那方の歩き方を真似ながら二階のホールに向かった。(p.49)
『巨マル』でも登場した、官僚制による人間の疎外が描かれる場面も。
あんただって知ってるくせに、書類のない人間の存在は厳しく禁止されているじゃないか。(p.104)
・文学的技巧
このブルガーコフ的面白さを支えているのはやっぱり文学的技巧だ。
一つ目に指摘したいのが、融通無碍な語りの視点取りだ。
最初の5頁、野良犬の一人称視点で始まる。そこで一度、10行ほど三人称視点で客観描写を行ったかと思うと、段落も変えずに犬の一人称へととんぼ返りを決める。
その後の物語は、基本的に教授の位置に付いた三人称で語られることが多い。しかし、その位置取りの距離感が絶妙なのである。
例えば、教授ことフィリップ・フィリッポビッチが哀れ野良犬を手術するシーン。
フィリップ・フィリッポビッチは、両手を上げた。一瞬、不運な犬シャリクの偉業を称える仕草かと思ったが、いやなに、ほこりが黒い手袋につかないようにしただけだった。(p.76、強調は引用者)
そもそも、三人称視点の叙述の中で「思った」のは誰なんだ?この、視点人物にくっつき過ぎない三人称の位置取り。この「いやなに」の見事さである。
二つ目に指摘したいのが、モチーフ、いや、セルフパロディと言っていいような場面だ。本作には、現代的なデウス・エクス・マキナのシーン(ようは、不意の電話による場面の転換・解決)が複数回登場する。
一度目は、教授が共産党員達をやりこめる。
真っ赤になったシュボンデルは受話器を置いて振り向いた。(p.47)
シュボンデルの顔に青い冷ややかな喜びの表情が浮かんだ。
フィリップ・フィリッポビッチは真っ赤になって叫ぶように言った。(p.110)
最後に指摘したいのが、引用の扱いの見事さだ。
『ファウスト』への参照についてはもう触れた。この短い作品で登場するのはあと一作、お馴染『ロビンソン・クルーソー』である。
犬が人間に変容したあと、元犬のシャリコフは本が読めるようになったらしい。そこで教授は、犬が読んでいるのは『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】だと思い込む。ところが実際に読んでいたのは、エンゲルスの往復書簡集であり、しかもその内容については、「頭がパンクしちゃう」もので、「賛成できないよ」と評するのである。
くどくどした解説は不要だろう*6。この引用使いの妙、こういうところこそブルガーコフの素晴らしい魅力である。
『巨匠とマルガリータ』も素晴らしい作品であるが、そのエッセンスが見事に詰まった楽しい作品である。
お気に入り度:☆☆☆☆(「悪魔物語」より面白い「運命の卵」より面白い)
人に勧める度:☆(後記「本のつくり」参照)
・おまけ1
こういう瞬間が好き。
— かめきち (@kamekichi1999) 2023年1月1日
←一昨日読んでた『パラディーソ』キューバ、1966
→今読んでる『犬の心』ロシア、1925 pic.twitter.com/KPFKA3xz3s
さらにもう一カ所、併読していた『ロシア文学の食卓』より。
酒の飲み方も、たしかにロシアでは、ウォッカなどを小さな杯で一気に飲むのがふつうで・・・(同書p.9)
本書では・・・
グラスに注がれた飲み物を一気にのどに流し込んだ。(p.52)
・おまけ2
当ブログ2回目*7。ゼータガンダムより、パプテマス・シロッコのセリフ。
常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ!(第50話)
本書では・・・
先生、人類は誰にも言われずにこの問題に取り組んで、少しずつ漸進的に、多数のろくでなしの中から地球を彩る数十人の天才を毎年着実に生み出してきているんです。(p.150)
追記
この記事を書き終わってから、下記のサイトで訳文を無料公開されている方がいることに気づいた。すごい!
それより気になったのは、私の感想の本文で引用した箇所の訳文が全然違うことだ。下記サイトの堀内氏訳では次のとおり。
この時、教授は不運な犬シャーリクの困難な偉業を祝福するかのように両手を上げていた。黒いゴム手袋に塵一つつかないように努めていたのである。
「思った」も「いやなに」もないように読める。
当該言語の特性もあるのだろうから、一概にどちらかが正解といえないことはわかる。それにしても、ここまで違うと、底本が違う等の事情がない限り、どちらかの訳がマズい(勝手に「思った」主体を消してるか、作出しているか)ように思う。
・・・ロシア語勉強しようかしら。
・同時期のモスクワが舞台
・同時期のソ連の希望と懐疑と混乱
<<背景>>
1925年成立。この頃のロシアの沢山の作品と同様、発表は随分後の1987年だそうだ。このあと1988年にはロシア国内でテレビ映画化され、また高校の教科書に載ったとかで、本国では大変有名な作品といわれる。
作中引用されるゲーテ『ファウスト』は1808-1833年、デフォー『ロビンソン・クルーソー』は1719年の作品だ。
作中年代は制作年代と同様、1920年代中頃と推定される。なお、作品の内容として、当時のモスクワの住宅政策が重要な背景となっている。これは、都市の住宅不足の解消のため、各個人の居住面積の上限を定めるという規制だ。
この規制を背景にした面白い短編に、クルジジャノフスキイの「クヴァドラトゥリン」がある。
<<概要>>
エピグラフはなし。全9章+エピローグの構成である。
各章の途中には時折行アキやアスタリスクが挟まり、リズム感とスピード感にあふれる展開になっている。
語りの構造については感想で触れたとおり、複雑である反面、それと感じさせない見事な位置取りである。これで1920年代。ブルガーコフ、すごいなぁ。
<<本のつくり>>
まず、2015年に新潮文庫から別の訳者の『犬の心臓・運命の卵』が発売されている。
私はこれを知らず、読んだことのなかった『犬の心臓』の久々の新訳だと信じて手に取っている。なお、本書と同時発売で、訳者の手による本書の解説書である『奪われた革命』も出版されている。
で、本作を読んでから気づいたのだが、この訳者、謎の人である。CiNiiやNDLで検索をしても、90年代初頭のソ連情勢を論じた古い論文しか出てこない。どうも経歴からすると、全く人文畑の人ではない、ロシア語通の在野の方のようだ。
当ブログで繰り返し書いているように、基本的には私は訳者=研究者、あるいは少なくとも翻訳の専門家であるのが好みだ。個々人の学者というよりも、研究者を研究者たらしめている制度に信頼を置いているからだ。
まぁともあれ、翻訳が良ければそれで良いはずだ。そこでまず本書の翻訳について触れるが、これはとても良い点ととても悪い点とがあった。総合して、どちらかというと良い方である。なお、新潮文庫版については読んでいないので、どちらが私の好みかは不明である。
当然、原語が読めないので、訳文だけを読んで考える他よりないわけだが、良い点は、全体として訳文がこなれていてリーダブルな点である。悪い点は、その現代風の言葉遣いの中に、突然、時代(あるいは世代)を感じさせる、古びた言葉遣いが出てくる点である。
そこですべてを恐れている匹夫下郎のくるぶしに嚙みついてやるんだ。(p.17、強調は引用者。)
え、吉川英治!?って感じになるし。
悪い点二つ目。
ロシア語版を底本とした水野忠雄訳『犬の心臓』・・・(p.255、強調は引用者。)
え、ブルガーコフを翻訳しようとする人が、水野忠夫の名前、間違えます!?
まぁでも、いずれこういうのところはむしろ翻訳者よりも校正者や編集者が責めを負うのかもしれない。
さらに微妙なのが訳注である。本作は、訳注が90も付されている。しかもどれも詳細だ。本来私は、訳注はあればあるほどうれしく、訳注大好きな人間である。本作の注は、私の嫌いな後注方式であることは置いておくとしても、注の内容が微妙過ぎる。訳者がロシア・ソビエトの文化・政治状況などに詳しいことはよくわかった。だが、どういう基準で付けているのかのポリシーが全く見えてこない。単なるオタク知識の垂れ流しにしか読めない。正直、途中から『淡い焔』のキンボートのパロディをやっているのかと思ったくらいだ。
そして極めつけが解説である。この解説の酷さについては、以下に書く『奪われた革命』という解説本に対する私の不満がそのまま当てはまる。
それでその『奪われた革命』であるが、私は二十一世紀に入ってこのかた買った本の中で、一番購入を後悔した。
著者は人文系の批評書というものを読んだことがないのだろうか?
まず、そもそもの論旨が、作品の方の解説と訳注で書かれていることを拡大して一冊本にしたものに過ぎず、敢えてもう一冊分の対価まで支払って読む必要性に疑問が湧く。
二十世紀初頭ロシアの政治状況等については、大変に詳しく、その点は素直に勉強になった。ただ、次の3つの観点から、本書の存立基盤自体が甚だ疑問である。
第一、作者ブルガーコフが意図したモデル探し、彼が風刺した対象の解明に全力が注がれている点。大学入試じゃあるまいし、私はその姿勢自体に強く反対だ。そもそもテクストは読み手が奪い取るべきものだ。そして、この素晴らしい文学作品を、ひたすら政治思想的内容に還元しようとするのも冒涜的であるように感じる。それは、文学作品を政治的主張と看做して検閲しようとする態度とコインの裏表ではないか?
なお、著者の主張(シャリコフ=スターリン(と、その配下の入党者)説など)が正しいかどうかについては、私は関心が湧かない。
第二、批評あるいは解説であるはずの作品が、フィクショナルな作風で書かれている点。この作品は、ご隠居と聞き手の創作落語調の語りで描かれているが、そこは語り手=著者であるべきだ。この調子で書かれているがために、作中で「ご隠居」が断言する事柄が、まるでその創作世界内では動かしがたい真実であるかのような効果を(意図しているかは不明だが)生んでいる。これが正しい批評的態度と言えようか?
第三、引用・出典のほとんどがネット。国内の単著が引用されていることはあるものの、大真面目にhttp://・・・・と出典が書かれている。一定程度の永続性があるのかも不明、確認時期がいつなのかも書いていない。そもそも、作品の方に注が90個もついているのに、批評・解説の方に後注がないという謎の事態になっている。
末尾に、「読者のみなさんの判断」に任せたい旨記されていたが、無責任な一読者である私の感想としては、この書物が出版されたことが奇蹟であると思っている。