行儀よくまじめなんて出来やしなかった
かりに私が・・・私の統治する王国をえらぶことをゆるされたとしたら、・・・私は心から笑う国民たちの国をえらびましょう。・・・私がもう一つ私の祈願に加えたいのは――神がわが統治する国民たちに、陽気であると同時に賢明でもあるだけの恵みを与え給わんように、ということです。(中巻、p.137)
<<感想>>
今回は書き出しに悩んだので、どうぞ次の3つのうち、お好きな書き出しからお読みください。
1.人気翻訳者でもある研究者の木原善彦氏に『実験する小説たち』という著作がある。タイトルのとおり、「実験小説」について論じる作品だが、この作品で最初に紹介されるのが、『トリストラム・シャンディ』である。
2.『トリストラム・シャンディ』という作品を簡単に説明してみよう。スペイン語には『ドン・キホーテ』が、フランス語には『ガルガンチュア・パンタグリュエル』が、そして英語には『トリストラム・シャンディ』がある。
3.光あるところに影があり、神の概念が誕生と同時に不信心者の概念を産んだように、小説という形式があるところには常に反小説的な作品が存在する。『トリストラム・シャンディ』は、そうした反小説的な作品の一つだ。
どれか決まった?
じゃあ、そのまま続けて次を読んでみよう。ところで、こういう自分が書いた文章に自分でツッコミを入れるようなやり方のことを、「メタフィクション」って言うんだって。
1.あらすじ?
さて、それではまずこの作品のあらすじから紹介したい。この作品の正式なタイトルは、「紳士トリストラム・シャンディ氏の生涯と意見」である。従って、主人公であるトリストラムの生涯が・・・、とはならない。
そもそも、あらすじなどいったストーリー性にまず冷や水がぶっかけられる。あるいは、当時既に存在した、英国伝統の主人公の名前を冠する小説*1のパロディなのだ。
試みに、本作の原題と、先行する二作品の題を並べてみよう。
The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman・・・本作
The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe・・・『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】
The History of Tom Jones, a Foundling・・・『トム・ジョウンズ』
ね、わかります?
ところで、トリストラム・シャンディの場合、トリストラム氏が主人公かさえ疑わしい。これを論じるのであれば、主人公の定義の確認が必要となってきてしまいそうだ。
ただ、少なくとも作中の語り手はトリストラム氏であるということになっている。そして物語は、トリストラム氏の出生に遡って始まるのであるが、なんと冒頭の一章は両親の子作りシーンである。しかも、その真っ最中に、母親が父親に対し、「時計の針を巻きなおしたか?」等と問いかけたせいで子どもに悪影響が及んだ、などという馬鹿話まで付いてくる。
それに引き続く章は、これまた驚きの精子の物語だ。このように、物語の冒頭は、この「主人公であるはずのトリストラム氏がなかなか生まれないギャグ」が延々と第4巻まで続く。しかも、その話も、脱線に次ぐ脱線が引き起こされる。
脱線は、争う余地もなく、日光です。――読書の生命、神髄は脱線です。――たとえばこの私の書物から脱線を取り去ってごらんなさい――それならいっそ、ついでに書物ごとどこかに持ち去られるほうがよろしい・・・(上巻、p.131)
つまり、「トリストラム氏の生涯」は物語の本筋ではなく、実際の主人公はトリストラム氏の父と、その弟トウビーであると言ってよい。また、物語の主題も、王道的小説のパロディや戯画化や、脱線先の挿話で繰り広げられるコメディにあるといえる。
2.実験小説
さて、この記事のふざけた書き出しの一つで、「実験小説」であると書いたように、この書物でも、この記事のふざけた書き出しのようなおふざけが繰り返し行われている。あるいは、20世紀以降の様々な小説で試みられたおふざけの元祖がここにあると言ってもよいだろう。
ちょっとネタバレ的ではあるものの、以下ではこの作品で行われた主なおふざけを10個列挙してみたい。
1.献辞ギャグ
ちゃんと小説の冒頭にスターンが書いた献辞があるにもかかわらず、作中の第一巻9章で、今度はトリストラム氏が書いた献辞が登場する。
「閣下、
以上は私としては献辞のつもりであります。もっとも、内容、形式、位置という献辞の三大要件の、いずれの点からもはなはだ異例のものであることは認めますが。・・・(上巻、p.51)
2.真っ黒なページ
これはそのまんま。たぶん本作で最も有名なおふざけであろう。突然、2ページにわたり真っ黒に塗りつぶされているのである。一応、その真っ黒の目的は、作中人物の死を悼むため、である。岩波文庫版では、ご丁寧にページ数の表記までない(p77-78)。
3.序文ギャグ
献辞ギャグとやや被るが、作者の自序もハンパな位置に置かれている。第三巻20章の途中である。(上巻、p.303)
4.絵画?の利用
・・・つけ焼刃の読書くらいでは、というのは申すまでもなくつけ焼刃の知識ではという意味ですが、この次に出て来る墨流し模様のページの教える教訓など、とてもあなたにわかるものじゃありませんからね(このページこそ、私のこの著作のゴチャゴチャした象徴なんですがね!)。(上巻、p.356)
で、この次のページとさらにその次のページは、本当に謎の墨流し模様が掲載されている。岩波文庫版では作中は白黒の墨流し模様である。何刷目からかついたカバーでは、カラー版の墨流し模様が採用されている。
5.作中作
第四巻の冒頭は「スラウケンベルギウスの物語」という、架空の著者の架空の物語から始まる。後述の通り、本作では実在の著者の実在の文章からの引用も多い中、架空を混ぜてくる変化球である。しかも、原文ではわざわざラテン語で書かれ、対訳の英語が書かれているという手の込みようだ*2。
6.章の欠落
――その通りです、旦那――たしかにここの所にまるまる一章抜けています・・・この一章がないほうが、あった場合にくらべて、この書物の完全さ完璧さを増大させているのです。(中巻、p.97)
ここまでくると、これはまぁやりそうなおふざけ。第5巻第24章が丸ごと削除されている。
7.お絵描き欄
トウビーが恋に落ちたとされる「ウォドマンの後家」を、読者が描くためのお絵描き欄が用意されている。岩波文庫版では、ほぼ丸1ページ白紙である。そのあとに続く文章もヒドい。
――やっ!自然界にかくも甘美なものがあろうか!かくも美しいものが!(中巻、p.346)
8.謎の線形
これも有名な箇所。ここまでたどった物語を示すとして、ぐちゃぐちゃに曲がった線が表示される。
これがこの本の第一巻、第二巻、第三巻、第四巻でそれぞれ私が動いてきた線でした。――第五巻はたいへんうまく行って、あそこで私がたどった線は、まさに次のようなものでした。(中巻、p.349)
9.書き込み欄
こちらはお絵描き欄のバリエーション。
ここは空白のままあけておきますから、読者は何なりと一番使いなれていらっしゃる罵り文句をここに吐き捨てて下さい・・・(下巻、p.93)
10.作中作・・・がはじまらない
トウビーの召使トリムが、「ボヘミア王とその七つの城の話」というのを語り始めるシーンがある・・・のだが、1行語られたあたりで中断が入り、なかなか始まらない。また話始めるとまた中断が入り・・・、四回繰り返し、ついぞ語られずに終わる。(下巻、p.151)
3.引用の織物
ここまで紹介したように、本編はおふざけ満載のコメディタッチの小説である。
しかし、それと同時に、それまでに刊行された多数の書物からの引用によって織り成されている書物でもある。この中で、特に多数回用いられるのが、シェイクスピアとラブレー、セルバンテスからの引用だ。
特にこの一文は、本書の立ち位置についての作者の自認をよく示している。
また、イギリスが誇る哲学者ジョン・ロックからの引用が多いのも面白い*3。
余りに細かい話だが、岩波文庫版の訳注は『人間知性論』*4からの引用について詳しい。しかし、なぜか『統治二論』*5はまるで知らないかのようだ。
上巻97頁の訳注はフィルマーについて、ホッブズの論敵として紹介するが、これはむしろ『統治二論』の第一篇を念頭に置いていると思われる。また、第三巻第34章(上巻、p.349-)は、全体が丸ごと『統治二論』の第二篇第五章*6(特に27-28節)のパロディであることは一目瞭然なのに、訳注で何も触れられていない。
4.現代文学の祖として
本作はどうしてもそのキャッチーさから、ここまで示したような実験要素、コメディ的な内容、膨大な引用に目が行きがちである。
しかし、①語りの時的因子の複雑性や、②視点位置の複雑性、②言葉遊びの点も見逃せない。
本作は基本的には一人称回想体である。しかし例えば第七巻第28章(下巻、p.70)の叙述は、語り手トリストラムの近過去であるフランス旅行を語りつつ、その挿話として物語の本筋であったはずの幼少期シャンディ一家のフランス旅行を取りあげ、さらにそこの語り手の現在時(=執筆時)がオーバーラップするという極めて複雑なものだ。
また、視点位置の取り方も実に複雑で面白い。例えば、次の一文などはどうだろうか。元祖「意識の流れ」と言っても言い過ぎではなかろう。これが思ったほど読みづらくないのは、落語の噺に登場する「くまさんの語り、八っつぁんの語り、落語家自身の語り」をスムーズに切り替えて聞けるのと同様である。
一体これほどまでに人間が、なあトウビーよ、私の父が片肘をついて身を起し、ベッドの反対側の、叔父トウビーが松葉杖の上にあごをのせてへり飾りつきの古い椅子の上に腰をおろしているほうにからだをむけなおしながら、さけびました――あわれな不幸な人間が、一体これほどまでに、なあトウビー、父がさけびました、痛い目にあわされたためしがあるだろうか?(中巻、p.50)
そして、原書が確認できないので原文の引用は出来ないが、本作では随所で言葉遊びが行われており、下記のように訳文の工夫からもそれは窺い知れる。
説教の支度もできれば――咳をなおしたくなったらそれもできる、――自然の要求でそうしたくなれば、ゆっくりと居眠りを楽しむことも自由だ・・・(上巻、p.58、強調は原文では傍点による)
最後に、何より注目したいのは、読者の反応を強く意識している点だ。読者の読解行為があって初めて作品が成立することに意識的だともいえる。もちろん、ほとんどの作者が読者の自作に対する反応を気にかけていること間違いないだろう。ただ、スターンの場合は一文ごと、あるいは一語ごとに、読者がどういう観念を想起し、何を連想するかを強く意識して筆を進めていることがわかる。
つい一週間ほど前の話ですが、私のかわいいかわいいジェニーは、一ヤール二十五シリングの絹布を値切っていて、・・・(上巻、p.93、強調は引用者)
この章を終わる前に、御免をこうむって女性の読者のお胸に、警告を一つ申入れねばなりません。――それというのは、私がこの章の中で不用意な一、二の言葉を洩らしたからといって、私が既婚者であるなどと、当然のことのように受取っていただいては困るということです。(上巻、p.99)
こうしてみると、『トリストラム・シャンディ』の本質的な要素は、現代文学と何ら遜色がないといえる。
また、個人的に面白かったのは、やはりナボコフとの関係である。ナボコフはセルバンテス、ラブレーに加え、スターンについても自作への引用を行っている。ただ、引用されるのは『センチメンタル・ジャーニー』の方で、『トリストラム・シャンディ』の引用を見た記憶はない*7。しかし、読者の反応を想起し、それを操作しようという意思を感じる点で、セルバンテスやラブレーよりも、むしろスターンの方こそ、ナボコフの精神的始祖であるように感じた。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆(品切れ注意)
・ラブレーはこちら
・真実か疑わしいのに「真実の生涯」というギャグはこちら
<<背景>>
1759-1767年に順次刊行。
パロディ元の一つと思われるフィールディングの『トム・ジョウンズ』が1749年、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は1719-20年の作品だ。
影響を受けた作品に関しては、『ガル・パン』が1532-1552年、『ドン・キホーテ』が1605/1615年の作品である。なお、感想でも触れたジョン・ロック(1632-1704)の主著は晩年に集中している。
後世に与えた影響も多大なものであると思われるが、ここでは一作だけ、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(1923-24)を挙げたい。作中の主要人物(?)と思われるHCEは同時にトリストラム卿*8でもあるが、この「トリストラム」には本作のトリストラムへの仄めかしもあるという。
<<概要>>
全9巻構成。各巻40章程度で構成されているが、章の長さは短いもので2行、長いものでは10ページ超に及ぶ。スターンの生前、毎年2巻ごとの計画で刊行されていたという。スターンの病気により刊行頻度は落ち、最後は9巻だけ単独で刊行されたそうだ。岩波文庫版では、上中下の3冊に分かれ、各冊に3巻ずつが採録されている。
この点は『ガル・パン』も『ドン・キホーテ』も同様だが、好評につき続刊が出されるのは良いが、続刊ごとにクオリティが下がっている感がある。また、特にフランス旅行が描かれる7巻など、まるで昔の少年〇ャンプの漫画のように、著者のその執筆時の関心が物語に色濃く反映している。物語の進行としては歪んでいるともいえ、その点はプリミティブ感が拭えない。
全く余談だが、『ガル・パン』も古書店で良く見かけるのは第1の書、第2の書で、その先が欠けていることが多い。読者も良くわかっているということか、挫折者が多いということか。
なお、感想でも書いたとおり、全編を通じてコメディタッチであるが、そのネタは股間に関するものが多く、下ネタ中心である。この点もまるで昔の少年ジャ〇プ(というより、マ〇ジンかボ〇ボンか??)のようである。
さて、今回はもう少し、登場人物についても若干の梗概を付したい。
・父
知的な人物であるが、書物マニアであり、関心を持った事項を調べ尽くした挙句、トンチンカンな自説を作り出す。トリストラムの育児にあたっても、「トリストラピーディア」の執筆を始めるが、執筆中にどんどんトリストラムが成長してしまうというオチが付く。百科全書派的*9な理性偏重を風刺する意図があるものと思われる。
・叔父トウビー
退役軍人の元大尉。無類の包囲戦(攻城戦)マニアであり、トリム伍長と共に、邸のそばの土地に城砦を再現しては包囲戦ごっこを繰り返し、物事を包囲戦の比喩で捉えようとする。父と叔父トウビー両名とで、「ドン・キホーテ」的なキャラを担っている。
・トリム伍長
トウビーが連れ帰った部下。トウビーの召使をしている。良識派の人物ではあるが、叔父トウビーに心酔している。「サンチョ」的なキャラを担っている。
・スロップ医師(産科医)
近所の医師。トリストラムを取り上げる際に、ご自慢の鉗子を用いるが、誤って鼻を潰してしまう。父が、逆子こそ正常な分娩の在り方だという珍説を唱えたのに対し、もしトリストラムが逆子だったら、誤って大変なところを潰してしまっていた、というオチが付く。
・牧師ヨリック
教区の牧師。由来はもちろん、『ハムレット』に(頭蓋骨として)登場する宮廷道化師である。作者スターン自身牧師であり、またヨリックを自称したこともあるそうで、作者の分身の一人という位置づけでもある。医者と牧師というコメディに典型的な人物が配されている。
<<本のつくり>>
この訳者の本は初めて読んだが、どうも調べると東大の偉い先生だったようだ。
訳文は1960年代のもので古いものだが、これが古さを感じさせない読みやすさだ。この頃まで見られた訳者解説が前書きにあるパターンだが、まずもってこの前書きから、内容充実でかつ文章のテンポが良くて小気味良いのである。もちろん、使われている日本語自体は古めかしさは否めないが、それこそまるで落語を聞いているかのように、違和感なく読み進めることができる。以前にラブレーの感想を書いたときに、落語調までではないが、講談調くらいにはなっていると評した。その対比のとおり、ラブレーよりも大分読みやすい印象だ。『ドン・キホーテ』も決して読みにくくはないものの、本作よりも大分長く、この3作では『トリストラム・シャンディ』が最も読みやすいと思われる。
例えば、下記の部分などは、落語どころかまるで綾小路きみまろである。
そういえば、ご親父さま、ご母堂さまからはおたよりがおありで?
――お妹さま、叔母御さま、叔父御さま、従兄弟の方々、みなおさわりございませんか?
――みなさん、それぞれ、風邪やら咳やら淋病やら、歯痛やら熱やら尿通困難症やら坐骨神経痛やら、はれものやら眼病やらにお悩みでしたが、もうすっかりおよろしいでしょうな?(下巻、p.116)
また、「恋」について、アルファベット順の頭文字の言葉で形容していく箇所(下巻、p.133)を、いろはにほへとの頭文字で訳出するという曲芸もみせている。
なお、普段はお手軽書影情報としてアマゾンリンクを貼っているが、今回は撮影したものを使用した。これは本作が大分長いこと品切れており、リンクを踏んだ方がうっかり高い古書を買わないようにと考えたためである。手元のものは2006年重版のもの、最後に重版されたのは2009年であろうか。ただ、2023年現在、古書価はさほど高くなく、流通数も多いので、手に入れるのは難しくないと思われる。
ところで、作中、差別的な表現を用いて訳出している部分が何か所かある。原文に差別的な表現があり、これをそのまま訳したというよくあるパターンではない。敢えて原文とは異なるであろう日本語の差別的な表現を用いて訳出している、ということだ。別にこれにどうこういうつもりはないのだが、もしかして本書の重版がされにくい理由になったりはしないか、心配である。
馬鹿でも阿呆でもちょんでもかまわない――あの子に鼻だけつけてもらえるなら(中巻、p.88)