ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

3-03『ロード・ジム』ジョゼフ・コンラッド/柴田元幸訳

HEART燃えているなら 後悔しない

「・・・嘘ではない、けれど真実でもない。何というか・・・。真っ赤な嘘だったらすぐわかりますよね。この事件、正しいことと間違ったことの間には、紙一枚の幅もなかったんです」(p.143)

<<感想>>

私以外にもそういう人はいくらもいると思うが、そもそもコンラッドに関する最初の知識は、「チアヌ・アチェベにバチクソ批判された作家」というものだ。

だからといって予断をもって読み始めたわけでもないが、正直この『ロード・ジム』は肌には合わなかった。いやしかし、つまらなかった作品を堂々とつまらなかったと書けるのは素人ブロガー十五の歓びの一つでもある。

ただここからがくせ者だ。さぁでは何がどうしてどういう理由でつまらなかったのか、これを書くのは意外と難しい。読みにくいから?プロットの引きが弱いから?いやいや、その条件に該当するお気に入り作品なんてゴマンとある。

このようにして、私の好きなアイツと好きになれなかったコイツの違いを探していくのも、素人ブロガー十五の歓びに数えて良いだろう。

あまり大事なポイントではないが、礼儀として一応のあらすじを書こう。

まず本作は海洋(冒険)小説として紹介されることもあるが、それは誤りである。確かに、海と船とが登場する物語であるが、主人公であるジムは船で冒険をしない。それどころか、800人もの乗客を見捨て、沈没しかけの船「パトナ号」*1からボートで脱走するのである。

そのため、この物語はジムがなぜそういう行いをし、その後どう暮らしたかを巡って展開される。

 

・文体の耐えられない重さ

さて、まずは本作の文体、あるいは筆致について考えてみたい。ぐーぐる検索して本書の感想なんかを見てみると、やはり「読みにくい」という意見が目に付く。あるいは、原文についても、重厚、骨太などと評される。

しかし、「読みにくい」だけであれば、例えば池澤全集の中でも『カッサンドラ』【過去記事】なんかは相当に読みにくいが、私は嫌いではない。あるいは、「重い」のであれば、『鉄の時代』【過去記事】なんかもは相当に重たいが、こちらは書かれている内容の重たさだ。

私が読んでいて一番近いなと感じたのは、フォークナー【過去記事】の文体だ。

余談だが、どうやらフォークナーはコンラッドの影響を受けたようである。更に余談だが、私はそのフォークナーの文章もイマイチ好きになれない。

フォークナーの記事の中では、その文体の特徴は「厚塗り」であると書いた。コンラッドも、「厚塗り」と言えなくともないが、フォークナーで感じた「厚塗り」とは少し感じが違う。感覚的な問題なので伝えにくいが、どちらかというと「蛇足型」のような印象がある。

例えば、次の文章はどうだろう。

それでも、距離は保っていた――距離は保っていたのだ。距離は保ったこと、彼と四人との・・・あいだには何も共通するところはなかったこと、それを彼は私に向かって強調した。まったく何もなかったんです、と。きっと彼は、自分は彼らから、横断不可能な空間によって、克服不可能な空間によって、克服不能な生涯によって、底なしの深い溝によって切り離されていると思っていたのだ。自分は可能な限りに、船の幅いっぱいほどもあいつらから隔たっているのだ、と。(p.115、強調は引用者)

これはジムがパトナ号からボートに移った直後の場面。ジムの自意識としては、進んで逃げ出したその他四名と自分は違うんだと主張したい。

そのジムの自意識を表現する狙いは、「まったく何もなかったんです、と。」までで十分に読み取れる。ところが、そのあとに、この強調した四行が続いてしまうのだ。ここに私はパンケーキの上にアイスクリームの上にメイプルシロップまでかかっているしつこさを感じてしまうのだ。

 

次はこんな場面。

次の一分間は――ジムが船上で過ごした最後の一分だ――・・・(p.120)

これだけ煽っておいて、このあとその一分の描写にたっぷり4ページが割かれる。

もうね、鷲頭麻雀かフリーザ篇(アニメ)か、『トリストラム・シャンディ』かと。

 

特徴的な表現、頻出するタイプの表現もある。

人によっては果てしなく広いと感じ、また逆に芥子の種より小さいと見たがる人もいるこの丸い地球にあって、そのどこにも、彼が思いのままに・・・引きこもれる場所はなかったのだ。(p.186、強調は引用者)

どっちやん!?この記事の冒頭の引用も含めこの、どっちも取れるような表現がまぁ頻出する。これも読んでいて鬱陶しくはあるのだが、これは恐らく本作の狙いとも密接に関係していると思われる。

 

・テーマ

さて、本作の見かけ上のテーマは、言ってみれば名誉感情の問題である。ジムは、船員としての義務を怠った犯罪者である。しかし、ジムは自身が卑劣漢であることを受け入れることができない。地の文や作中人物の語りでは、ジムが本来は勇敢で義理堅い好青年であることが仄めかされ、まずはジムの葛藤の物語として捉えたくなる

しかし、こう捉えると、ますます本作を壁に放り投げたくなる。それというのも、このジムという人物の葛藤に、全く共感も同情も覚えないからだ。ジムの犯した行為自体は、積極的に逃亡を試みた他の四名と何ら変わりない。むしろ、自身の行為を卑劣な行為であると認識しているだけ、ジムよりマシなくらいである。商売柄、まさに盗品を窃取している瞬間を収めた防犯カメラ映像を見せられてなお、窃取行為の記憶がないと強弁する犯罪者を見ることもあるが、ジムは彼らと同類だ。如何に葛藤していようが、社会的に見れば、罪と向き合って反省することも出来ない、より厄介なタイプの犯罪者に過ぎない。

 

・語りの位相

ところが、上述のような読解は、実は論点先取的に著者によってけむに巻かれてしまう

それというのも、この作品、語りの位相が実に複雑なのである。まず、基本的には三人称の小説である。1章~4章までは神視点と言っても良い。しかし、その先の5章からは、マーロウという作中人物が長大な語りを始めるのである。マーロウは、ジム自身やジムと関わった人々から聞いた話をもとに、その語りを行っている、という建付けなのだ。

従って、読者が知るジムに関する情報というのは、客観描写でもたらされるのではない。むしろ、「ジム自身の自己評価」や、「他人から見たジム」を、「マーロウの視点で再構成されたもの」を聞かされているのである。

従って、私が読んだように、ジムは厄介な犯罪者なのかもしれないし、実はそうではないのかもしれない。いや、むしろ、私のそのジム評価さえ、マーロウに情報を提供した作中人物のように、ジムを見るための一つのアスペクトを提供しているのにさえ過ぎないのかもしれない。

こうした不定性は、先の文体の部分で指摘した二重性のある文章と共鳴して、いよいよ増幅される。

こうした語りの位相も踏まえると、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】のように、むしろ語ることそれ自体をテーマと考える読みも生まれてくるかもしれない*2。ただ、コンラッド自体がどれほど意識的だったかは不明だし、それならセバスチャンを読んだ方が面白いとも思ってしまうのである。

<自分用メモ>

アルゴ船と金羊毛の引用。オリエンタリズムの源泉はビブリオテーケーかと読み込んでみたくもなる。

<追記>

コンラッドは既成の英語にかけては私よりも扱い方をよく知っていた。しかし他のものなら私のほうがよく知っている。コンラッドは私のような文法違反の深みに沈むことはないが、私の言葉の高みにまで達することもまたないのだ。(『ナボコフ・ウィルソン往復書簡集』p.352、ナボコフからウィルソンへの書簡)

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆

 

・こっちのが面白い。

・文体が似ています。

 

<<背景>>

1899年執筆開始、1900年刊行。1899年といえば、我らがナボコフ先生の生まれ年である。

1900年といえばニーチェの没年であり、訳者解説にあるような、神なき時代の物語といった読み込みをしたい気持ちも理解できる。

コンラッドをバチクソ批判したチアヌ・アチェベは1930年に生まれ、1958年に『崩れゆく絆』を書いている。

これも訳者解説によると、コンラッドに影響を受けた作家は多いようで、フィッツジェラルド(1896生)、ヘミングウェイ(1899年生)、フォークナー(1897年)などが挙げられている。だがむしろ、この3人に影響を与えました!と喧伝するようでは、この3人の方がビッグネームであることを認めているようでもある。

まったく余談だが、私はわずかにフィッツジェラルドがアレなくらいで、見事に全員好みでない(笑)

なお、作中の引用は少ないが、まるで義務であるかのようにシェイクスピアギリシャ神話*3の引用がされている。

<<概要>>

全45章構成。章の上下の区切りはない。

しかし、本作は大要3つ(あるいは4つ)のまとまりに分けることが出来る。

第一、1章~17章まで。これが「パトナ号」篇で、ジムの裁判が終わり、新しい仕事へ旅立つまでだ。このうち4章までが客観描写なので、そこを区切る手もある。

第二、18章~35章まで。これが「パトゥザン」篇で、新しい仕事に旅立ってから、ジムが「ロード・ジム」と呼ばれる落ち着き先を見つけるところまでだ。

第三、36章~45章まで。これが「落日」篇で、その後のジムの半生を追う。

また、本書の成立については、連載小説であったことを見逃すわけにはいかないだろう。連載小説にも名作は多く、プロット面でいえば『モンテクリスト伯』【過去記事】が代表選手だ。また、『アンナ・カレーニナ』【過去記事】のように、あらゆる面から見て完成度の高い作品も存在する。

ところが、本作は連載小説であったことがマイナスに働いているように思う。各章の区切りごとの締めの文章がただでさえ重い文体を加重しているように感じるのだ。また、プロット面でも、まるでひと昔前の少年漫画のように、序盤と中盤とでだいぶお話の色彩が変わってきているのもしっくりこない*4

<<本のつくり>>

まずはやっぱり選書の謎について触れたい。なぜこれを採録した?

本書には、選書のセンスが光る作品もある反面、『悲しみよこんにちは』【過去記事】に代表されるように、なぜ採録されたのかわからない作品も多い。本作もその一つだ。

一作だけ19世紀の作品。既訳も多い。好評につき追加された6冊は、どれもなるほどのセレクトだが、本書だけは一向に謎である。

訳者解説は分量も多く、作家論・作品論含め優れた読解が披瀝されている。

訳者は多産でファンも多い柴田元幸氏だ。本作の文体の重さは恐らくコンラッドの責任だろうが、どうも前から私は柴田氏の訳文が好みだと思ったことがない。どこがどうしてと説明する力量はもちろんないが一カ所だけ。

もう今後二度と、あんなに寒い思いをすることはないでしょう。(p.130、強調は引用者)

この「よ」、要ります?うっかり茨城方言かと思ってしまった。

ところで、池澤全集は各巻の帯絵も魅力の一つだが、本作のそれは特に素晴らしい。まるでレンブラントの「イサクの犠牲」のように、決定的な瞬間が動的に画面に描かれている。

*1:竹中平蔵は乗ってない。

*2:特に、書かれた時期が1899-1900年を踏まえると、プレモダン-モダン-ポストモダンみたいに切って見たくなる気持ちはわかる。

*3:アルゴ船の挿話

*4:実際予定枚数を3倍くらい超過したことが解説で説明されている。