好きなの?って訊けたらいいのにね
すぐれた芸術家というものは、お嬢さま、みなさんにはどうしてもお分かりいただけないものを持っているのです(p.91)
<<感想>>
だいぶ前に『アフリカの日々』を読んでお気に入りだったディーネセン。
このブログにも何度か書いているとおり、私はあまり映画を見ないし、見た経験も少ない。若島正氏のような、文学と映画の二刀流の人が羨ましく思うことはあるけれども、短い可処分時間の中では、文学だけでも手が回りそうもない。
そんな私でさえ、この『バベットの晩餐会』の映画が大変好評だということは知っていた。一度、妻と何か映画でも見ようという話になったときにも、選択肢に上がったことがある。ただ、その時に見た本作の予告編で、ウミガメちゃんが料理されてしまうのを見て、我が家では永久封印とあいなった。
そして今回、原作小説なら大丈夫だろうということで、本作を手に取ったのだ。
ところで、『アフリカの日々』の感想の中で、「酷い映画化をされるという被害に遭った」という書き方をした。
どうやら、その事情は本作でも同じようだ。いやいや、映画は見ていないのだから、映画自体が酷いかどうかはもちろん知らない。ただ、少なくとも予告編を見た限り、原作の雰囲気と映画版の雰囲気とは大きく異なり、映画「化」の手続きは酷そうだ。
そこで今回、その小説版の雰囲気というやつを書いてみたいのだが、実はあまり自信がない。ディネセンのスタンド*1が、聖書・ギリシャ神話に代表される西欧的教養であることは知っていた。ただ、今作では、そのスタンドの発現が振り切っているため、理解が追いついていないように思われるのだ。
ざっくりとあらすじを書くと次のようになる。
舞台はノルウェーのド田舎の集落。集厳格な宗教指導者の死後、その二人の娘マチーヌとフィリッパとは集落の精神的支柱として、慎ましく暮らしている。その家には、14年前、パリ・コミューンのどさくさから亡命してきた女性バベットが暮らしている。集落では、最近、小さな諍いが絶えなくなっている。そんなある日、バベットが宝くじをあてる。バベットは実は元腕利きの料理人。当選金を原資に、宗教指導者の生誕100年を祝う晩餐の準備を申し出るのであった。
こうしたストーリーに、マチーヌとフィリッパそれぞれの若かりし頃の恋物語が重ね合わされる。つまり、表面上の物語としては、各種の対立(村人の諍い、プロテスタント/カトリック、貧/富、田舎(ノルウェー)/都会(パリ)・・・)が、素敵な晩餐によってアウフヘーベンされて良かったね、という『美味しんぼ』で10000回くらい読んだタイプのストーリーとして展開される。
ところが、細部やモチーフに注意して読んでみると、怪奇小説のような異様な物語が浮かび上がってくる。
1.監督牧師・・・?
上のあらすじで「宗教指導者」と書いたのは、訳文では「監督牧師」となっている。これを敢えて「宗教指導者」と書いたのは、だいぶ異端な分派であることが仄めかされいるからだ。
ふたりの父は教区内のこの地区の監督牧師で予言者、ある敬虔で強力な宗派の創始者で・・・、その宗派の信者たちは、この世の快楽を悪とみなして断っていた。・・・
信者たちは・・・、おたがいを兄弟、姉妹と呼び合っていた。(p.8)
うん、だからこれ、具体的な名前は書きにくいけど、雰囲気はいわゆるカルト村なんですよね。
そして次のポイントは、ふたりの娘の母。これが物語に一切登場しない。
プロテスタント系だから、牧師の妻帯は許されるはず。だが、「この世の快楽を悪と」みなすようなストイシズムの割には、娘が二人いるという謎が残る。
2.黄色い家・・・?
この二人の娘とバベットが住む家は、「黄色い家」と称される。
はい、当然連想するのはゴッホの「黄色い家」で、即ち「芸術家の家」であり、かつ「狂気の家」である。
3.姉の求婚者、妖精の血・・・?
お次は若き日の姉マチーヌの恋物語から。恋物語なのだが、なぜか章題は「求婚者」である。そしてここも謎だらけである。
まず、カルトの教義から。
世俗の愛と結婚生活は、監督牧師の信者たちには、あまり重要な意味はないもの、人間のもつ幻想だと考えられていた。・・・
ふたり[マチーヌとフィリッパ]にとってこの世の炎は、あってはならないものだった・・・。(p.11)
で、この「求婚者」氏は、近傍の名家に住む婦人の甥である青年将校だ。
カルトの教義的には、未婚・美貌のうら若き娘に、カルトパパがこの青年将校を近づけようはずがない。それにも関わらず、なぜかカルトパパはこの青年をマチーヌにけしかける。
「正義と幸福はおたがいに口づけをすることになるのです」(p.14)
ここは正直なところちゃんと読めておらず、何か気づいていないモチーフがあるのだと思うのだが、この青年将校の家は、200年前の祖先が妖精と交わったとかで、時折子孫に透視能力が出るのだという。
ところで、よくよく読んでみると、透視能力があるように読めるのは、この青年将校氏ではな、むしろマチーヌの方だ*2(p.24など)。
あれ?
さらにいえば、この青年将校氏の伯母は、カルトパパに帰依した一番早い信者の一人、(p.54)だったという。・・・あれ?
4.妹の求婚者・・・ドン・ジョバンニ?
続いては妹の求婚者。こちらはパリから公演のついでに来たオペラ歌手の40男である。
カトリック男性を初めて見たカルトパパ氏は、彼に抵抗感を示す。しかし、フィリッパの歌の才能を見抜き、レッスンをしたいという申出を受けると、やはり彼を娘にけしかける。
娘にはこういい聞かせた。「神の道は海原の波を越え、雪に覆われた山々を越え、人の目にはその跡もみえぬ」と。(p.21)
まるで、見て見ぬふりをするからヨロシクやってこいと言っているようだ。
さて、重要なのはこのあと、実際にオペラ歌手氏がフィリッパにレッスンをするシーンだ。このときに使用するのが、なんとモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」なのである。「ドン・ジョバンニ」の筋をご存知ないかたは適宜ぐぐっていただくとして、少なくとも相当にキツい性的な仄めかしがあるとご理解いただきたい。そして、オペラの筋書きに従って、フィリッパにキスをしてしまうのだ。
こちらは姉篇と違って読解を間違えてはいないと思うのだが、もう一つ暗に仄めかされている話がある。それは、「サロメ」*3である。
「サロメ」は、大略、娘サロメが投獄されていた預言者ヨハネを欲し、拒まれると父に迫ってその首を刎ねさせ、その首に接吻する物語である。
さてまずここで「ヨハネ」のイタリア読みは、「ジョバンニ」である。そして、このキス騒動のあと、フィリッパはカルトパパに、オペラ歌手氏をクビにするように求める。カルトパパ氏はこれを拒み、娘を諫めるのだが、結局次の行でオペラ歌手氏はクビになったことがわかるのだ。
極め付きは次の引用箇所である。
たったいちどの口づけとひきかえに、自分の人生をこうしてふいにしてしまったというのに、あの口づけのことをまるでなに一つ覚えていないとは。(p.24、強調は引用者)
口づけのことを覚えていないという言葉で(=口づけをしたときには首を刎ねられていた)、このサロメの暗示が裏書されているように思われる。
ちなみに、このエピソードの後、オペラ歌手氏はバベットの身柄を引き取って欲しい旨、フィリッパたち宛てに手紙を書く。この手紙が傑作である。
それにしても、わたくしが失ったツェルリーナ[ドン・ジョバンニの役名、娘の役]、雪のように白い、歌う白鳥の君。このように書いていると、墓がすべての終わりではないにちがいないという気が、心からしてきます。天国で、わたくしはふたたびあなたの声を聞くことになるでしょう。(p.29、強調は引用者)
なぜなら、オペラの中のドン・ジョバンニは、結局最後には素行が祟って地獄に落ちることになっているからである。
5.バベットさん、ご信仰は・・・?
続いてようやく主人公のご登場、バベットである。まずこのバベット、「浅黒くて寡黙な外国女」とか、「征服者の趣」などと描写される。これは、姉妹をいわゆる焦点人物とした描写であるから、姉妹とバベットとの距離感や二項対立を演出するための上手い描写と捉えることも出来る。
問題はそのあとだ。バベットは、「カーバ神殿の黒い石と関わりがある」とされたり、デルポイの巫女に擬えられたりする。バベットさん、あなた何教徒なんですか・・・?
あるいは、謎の黒い祈祷書のような本を読んでいるシーンも登場するが、バベットの信仰が明示されるシーンはない。映画の予告編で、十字架を付けた白人女性として描かれるのとはえらい違いである。
6.ただならぬ晩餐会・・・?
いよいよ物語のクライマックス、晩餐会のシーンである。クライマックスだけあって、かなりのイメージが盛られている。
まず、明示のイメージとして、聖書より「カナの婚宴」が用いられる。そして、客が12人で、うち最後の一人だけカルト村の外の人である点で、いわゆる「最後の晩餐」もイメージされている。
そして恐らく、これとは対照的なサバト*4のイメージも付け加えられている。例えば、
・・・父の家を魔女の饗宴に明け渡そうとしているように感じた。(p.51)
あるいは、パリ時代のバベットを知る人物の言葉として・・・
実はその女性はね、・・・ディナーをなんというか一種の情事に、崇高でロマンチックな恋愛関係とでもいったものに変えようとしているのさ。(p.74)
笑えるのは、晩餐会の中で思い出されるカルトパパの訓戒である。
ある老婆は頬に涙を流しながら、「子供たちよ、愛し合いなさい」という、監督牧師の口癖だった訓戒を繰り返した。(p70)
ところで、サバトは古く「シナゴーグ」と呼んだそうだ。さらには、最後の晩餐は、もとは過越しの祭りであったと言われる。あれ・・・、もしかしてバベットさんのご信仰は・・・?
7.結論めいたもの・・・?
さて、ここまでで少なくとも私が読み取れた範囲では、本作は恐らく、敬虔・倫理・信仰の物語の背後に、性的放蕩のイメージを二重写しにしている。
一応、物語の結末では芸術(=芸術的な料理)の勝利が謳われて終わるのであるが、このときのバベットさんがちょっと怖い。パリ・コミューンの殺戮者たちでさえ芸術の前に平伏すと言ってみたり、料理を作ったのは姉妹の為ではなく芸術のためだと言ってみたり、狂信的と言っても良い。
従って、『美味しんぼ』的な和解の物語は実は仮の姿に過ぎない。むしろ、聖と俗との混交を芸術によって明らかにしようとすることこそ、本作の狙いなのではなかろうか。
お気に入り度:☆☆☆(読解に自信がない)
人に勧める度:☆☆(新訳がまたれる)
・著者の代表作はこちら
<<背景>>
1950年初出。映画は1987年の作品のようだ。
物語の現在時は1885年。登場するワインの中で最高級の赤ワインであるClos de Vougeotは1846年ヴィンテージ。ということは39年熟成という計算になる。いかに最高級といえど、当時の醸造技術を前提とすると、ピノ・ノワールの熟成の限界を超えているようにも思われる。
今回ここに書くことがあまり無いので、もう少し書くと、同ワインは1936年のAOC法制定により認定されたブルゴーニュ地方の特級ワインの一つである。コート・ド・ニュイ地区の23種の特級赤ワイン畑の中でも最も広く、約50ヘクタールある。中でも、標高の高い区画で採れた葡萄によるものが高級とされる。
その中で最上の区画ともいわれるLe Grand Maupertuiは、実は私の思い出のワインの一つでもある。現在実勢価格5万円ほど。
その前に供された"レモネード"こと"クリコ"はVeuve Clicquotのことだ。レモネードのようにスッキリとした辛口のシャンパンである。モエ・エ・シャンドンと並ぶ高い知名度のシャンパンであり、ルイヴィトンでお馴染みのLVMH社傘下のブランド。酒類に力を入れているスーパーでも見かけることがある。こちらは7000円ほどで手に入る。
食前酒で供されたアモンティリャードは、シェリー酒の一種である。シェリー酒とは、酒精強化ワイン、即ち、アルコール添加をすることにより糖類の化学変化を止めた酒。ようは甘みが残った酒である。味わいとしては、伝統的な製法で作られたみりんに似る。ちなみに、本物のみりんは飲んでも美味い。この手のシェリーであれば、品によるが、5000円でおつりがくるだろう。
バベットが働いていたとされるレストラン「カフェ・アングレ」は当時実在。現在東京にもある「トゥールダルジャン」の前身となった高級店だ。
この「カフェ・アングレ」は『失われた時を求めて』にも登場する。料理上手で毒舌の召使フランソワーズが唯一高評価を与えるレストランであり*5、スワンがオデットを探しに行った店の一つでもある。なお、食事に性的なニュアンスが仄めかされる例は割と定番。『失われた時を求めて』の同じ巻に登場するジルベルトのケーキなどもそのように解釈されることが多い。
<<概要>>
全12章構成。各章には章題が付される。
今回はだいぶ細かく論じたが、全体で90頁足らずしかない短めの中編である。
語りは三人称視点によるもの。本文でも触れたとおり、焦点人物のスイッチングが見事である。特に主人公であるはずのバベットが謎で異質な人物であることを上手く際立たせている。
<<本のつくり>>
恐らく映画の人気にあやかりたかったのだろう。表紙が映画の1シーンからの切り抜きである。文庫版が1992年発売、私が手に取ったもので2022年18刷であるから、その狙いは見事にあたっていると思われる。
底本はデンマーク語版に拠っているようだ。
ところで、著者ディーネセンはデンマーク人であるが、この頃創作は英語で行っていた。つまり、デンマーク語版はナボコフ流の自家翻訳版なのである。従って、この訳本はある種の重訳版であるといえる。なお、ナボコフ同様、原版と自家翻訳版との異同は多いそうだ。
訳者はデンマーク語版を贔屓する。しかし、ナボコフの場合がそうであるように、こうした隠喩満載の作品については、その意図を汲むためにも、極力初出の言語(か、その翻訳)で読みたいと考える。場合によっては、両言語の対照を行った上で、その異同の理由についてまで踏まえて訳出されることが望まれる。
訳者あとがきに、煩瑣を避けるため注はいっさい付けなかった、等と書かれているが、私に言わせれば怠慢という他ない。これでは私を含めほとんどの日本の読者は作意をほとんど読み取れていないのではないだろうか。
なお、この文庫には同じ著者による『エーレンガート』という中篇も採録されているが、ここまで6000字オーバー。今回は表題作のみの感想とした。