あのひとのママに会うために
「田舎の店って、ただの配給センターなの?」と母はわめいた。「それなら社会主義のほうがましね。ポーランドやハンガリーみたいに国営店のほうが」ピーターは眉をひそめた。鉄のカーテンの向こう側で演奏して以来、母は共産主義に対して寛大になっているらしい。政治の問題では、ピーターは、今でも反共産主義左派を支持している父を手本にしていた。(p.85)
<<感想>>
実はかなり前から気づいてはいたのだが、池澤夏樹氏とはどうもあまり趣味があわないらしい。
最初に疑いを持ったのは、もう最初も最初、『オン・ザ・ロード』【過去記事】を読んだ時だ。当時の感想を読み返すと、そこには「こうした価値観は、古臭い、ともするとイケてないものに映る」と書いてある。これは、いわゆるビート・ジェネレーションについて言及したものだが、本作にも同じような印象を抱いた。
本作は、1965年、アメリカによる北ベトナムへの爆撃、いわゆる北爆が開始された当時に19歳を迎えた青年ピーター・リーヴァイ君を主人公とする。古びたカテゴライズではあるけれど、おおむねビルドゥングスロマンのような物語形式である。
ただこのピーター君、王道的なビルドゥングスロマンの主人公とは異なり、積極的に街へ出て経験を積んでいくタイプではなく、内向的な思索にふけるタイプである。このため、読み味としては、一人称で延々うじうじやっている『軽蔑』【過去記事】に近づく。
さて、ではなぜこんなにも本作は「古臭い」のだろうか。考えてもみれば、別にトルストイがいくら農奴解放についてアツく思索を巡らせたところで、我々は「古臭い」とは思わない。
恐らく、これはピーター君の思索が、農奴解放ほどには現在の我々から遠くなく、むしろ現在の我々と地続きであることから来るように思う。
私の計算に誤りがなければ、ピーター君は1945年か46年の生まれ、とうに死んだ私の父と1つか2つ違いのはずだ。生きていれば2022年現在77歳くらい。私が学生だった頃に、引退間近だった教授陣の世代と言い換えてもいい。
ベトナム反戦、自然環境が侵食されることへの憤り、資本主義によって失われ行く伝統的暮らしへの愛着、カウンターとしての社会主義への憧憬・・・。ピーター君の思索は、私にとっては、引退間近の戦後左派知識人たちによる何周か前、いや、最初の1周の議論そのもののように映る。
都市が広がるにつれて、渡り鳥はますます街のなかに立ち寄るようになり、今朝だけでも、パリでは五十年間観察されていない種類の鳥が見つかった。ピーターはそういう意見にほのかな希望の光を見た。巨大都市の副次的な利点は、たとえば長く生きていれば、ロックフェラー・センターのクリスマスツリーにイヴニング・グロスビーク(キビタイシメ)の群れが飛んでくるのを見られるといったことかもしれない。(p.205)
ピーター君には知る由もないが、その後実際にロックフェラーの建てたビルに飛んできたのは、鳥たちの群れではなく、ハイジャック犯に乗っ取られた旅客機の群れである。
既にそれを知ってしまった私たちが、ピーター君と同じフレームワークで物事を眺めることはどうしてもできない。もちろん、私が引退世代になった頃には、未だにオウム事件や9.11で世界を語る古い世代、とみなされるのであろう。
そしてその頃には、ピーター君の思索も農奴解放と同じくらい地平線に向こう側に行っているのかもしれない。
もうひとつ、池澤氏に反旗を翻したい点がある。
氏は、本書挟み込みの小冊子の中で、ピーター君を「親しい友人みたいに思う」として、共感や親しみを表明している。これにもどうも賛同しかねる。何もカント派とかニーチェ派とか、右派とか左派とか思想的な話がしたいわけではない。
今日はたくさん反感を買いそうだが、私は昔から、何なら小学生の頃からジブリの映画が嫌いだった。それはひとえに、人物造形が気持ち悪かったからだ。もちろん、その頃に明確に言語化する能力はなかったけれど、小学生の頃の私の感性は、大人の理想が詰め込まれたかのような少女像に拒否反応を示していたのである。もう少し年齢を重ねてからは、中年男性の妄想が詰め込まれたような少女像がキモチワルイ、と思っていた。
何も精神分析的解釈をしたいわけではないが、リーヴァイ君の人物像は、どうしても、中年女性の息子に対する理想・妄想が受肉したもののように読めて仕方ない。程よくマザコンで、女の影は薄く、悪い遊びも知らない。こんなクソ野郎は、友人としては願い下げである。悪ガキのまま成長した人間とも付き合いたくないが、悪ガキだったことのない人間ともなかなか友達にはなれそうにない。
というわけで、徹頭徹尾、内容面に違和感が拭えない読書だったが、そうかといって直ちに本書が駄作であると切り捨てることはできない。
なぜなら、このマッカーシーさん、実に表現が上手いのである。
表現の上手さにもいろいろあるが、ナボコフみたいに晦渋な奴とも、プルーストみたいにのたくった奴とも違う。思いついた中で近いのは、ジョージ・エリオット【過去記事】やヴァージニア・ウルフ【過去記事】だろうか。人間観察の妙という才能に基づき、わかりやすく、小気味のいい感じの文章を、自然に繰り出してくるタイプである。
例えば、二番目の夫と離婚した母に対する、リーヴァイ君(最初の夫の子)のコメントは・・・、
母はハンスに、天使が去っていったと思われたいのだろう。つまり、ハンスに、まだ自分に心を寄せていてほしいと思っているのだ。本当に自分のことを忘れてほしいなら、最もいやな面を見せるべきなのに。(p.28)
アメリカ人のふるまいについては・・・、
たとえば舟の食堂でピーターと同じテーブルに着いた客は、いつも、ケチャップをくれと叫んだり、ステーキがちゃんと焼けてないんじゃないかと疑ったりしていた。・・・食べようとしている牛肉が「極上」ではなく「上」でしかないと知ったとき、まるで苦労を耐え忍ぶ殉教者のようにふるまったりした。(p.130)
ただ、残念なのは、どう読解しても、著者の主力商品なのは、こうした小気味のいい文章ではなく、ピーター君そのものという点である。
お気に入り度:☆☆
人に勧める度:☆☆
<<背景>>
1971年発表。
テト攻勢が1968年。この年、作者は北ベトナムに取材に出かけているらしい。
『オン・ザ・ロード』が1957年の発表で舞台が1940年代であるから、世代的には次の世代と言って良いだろう。
ところで、当ブログ的には、今回もう少しこの作品背景に言及しないわけにはいかない。
なぜなら、作者メアリー・マッカーシーと、我らがウラジーミルは、まさに家族ぐるみの付き合いがあったからだ。マッカーシーの二番目の夫、エドマンド・ウィルソンと、ナボコフが友人関係にあったためである。このウィルソンという男も、結婚と離婚をだいぶ繰り返した人物で、まるで我が国の某音楽プロデューサーのように、芸術的才能に愛情を刺激される人物だったらしい。
(テケテテン)おーふくしょかんしゅー*1
研究者以外にとってはほぼ鈍器でお馴染みの『ナボコフ=ウィルソン往復書簡集』*2にも、メアリーはたびたび顔を出している。ナボコフ作品もだいぶ読んでいる様子で、本作にもちらりと言及がある。
そういえば『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートも教授だったっけ。(p.340)
しかし、メアリーもウィルソンも『ロリータ』の真価を見抜くことはできなかったようで、書簡集の中ではナボコフに対して厳しい意見を寄せている*3。それに対して、メアリーは『淡い焔』を高く評価し、賞賛の旗振り役を務めている様子であったという。
私に言わせれば、『ロリータ』も『淡い焔』も、性的少数者をダシに文体の冒険を重ねた挙句、表現行為それ自体をテーマにした非常によく似た作品だ。それにもかかわらず相反した評価を与えている点で、メアリーが文体よりも表面的な思想性を重視しているのが窺い知れる。
<<概要>>
10章構成。ただし、x章のように数は付されず、章題のみが付される。
章の下に区切りはないが、ところどころに行アキを置くことで若干の区切りが入っている。私の読解に誤りがなければ、冒頭の2章までが回想で、3章で現在時点に追いつく構成だ。
感想でも触れたとおり、まるで一人称小説のような読み味だが、文体自体はあくまで三人称で書かれている。カメラがピーター君サイドに固定されているかのような読み味だ。この視点の問題も、キモチワルイという感覚に影響しているのかもしれない。
<<本のつくり>>
翻訳も明快で、文章は平易であり、本全集の中ではどちらかというと読みやすい部類だろう。訳注はやや多め、インテリ女史の作品だけあって、聖書や古典からの引用、同時代の政治情勢への言及が多く、そこに注が付される。
解説は挟み込みと同じく池澤氏が担当しているが、せっかくなら別人の視点ということで、訳者解説が読みたかった。