ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-06②『見えない都市』イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳

ここではないどこかへ

物語を支配するものは声ではございません、耳でございます(p.309)

<<感想>>

いやー、まいった。この作品はまぁよくわからない。

「幻想的」な作品なら、残雪の『暗夜』【過去記事】があったし、「不条理」であれば、カフカの『失踪者』【過去記事】が近いかもしれない。

「前衛的」であればそう珍しくもなく、文学なんて『ドン・キホーテ』や『ガルガンチュア・パンタグリュエル』【過去記事】の昔からそうだ。

それに、別にわからないことも珍しいことでもない。ナボコフプルーストだって、読めば読むほど「わかった」という実感は遠ざかっていく。

たぶん、この『見えない都市』に一番ふさわしい形容詞は、「実験的」だ。読み進めれば読み進めるほど、わかったことが減っていく。あるいは、前提としていたものを奪われていく、そんな作品である。

本作の中身は、まるでトランプかタロットカードのように1枚1枚別の図柄が描かれた55片の都市の記述である。それぞれの記述には、「都市と空1」のように、題と数字が付されている。

その外側を彩るのは、『千一夜物語*1のようなオリエンタルな香り漂う箱物語である。シャフリヤールとシェヘラザードの役回りは、フビライ汗とマルコ・ポーロに置き換えられている。どうもマルコはフビライに対し、諸都市の様子を報告しているらしい・・・

最初に開かれるカード「都市と記憶1」は罠である。史実のマルコが持ち帰った虚飾のジパングのような絢爛な都市が描写され、清少納言風にその町の趣が語られる。

しかしこの都の特徴は、日足も短くなってゆく九月の夕べ、揚物屋の門先にいっせいに色とりどりの燈がともり、露台の上から女の、やれ、やれと叫ぶ声がする頃おいにこの都市にやってまいりますと、これと同様の夕暮を前にも過ごしたことがあったしあの頃は幸福だったなどと考える御仁たちが羨ましいという気を、ふと起こさせることなのでございます。(p.180)

本作が実験的なのは、ここまでの三段落で示された情報から読者が信頼する約束事を、丁寧に、一つずつ裏切っていくことである。

まず、早々に裏切られるのが、都市の実在性である。

しかしこの都市を訪れようと旅立ちましたのも無駄でございました。記憶し易いようにつねに変わらず、不動であることを強いられ、ツォーラはやつれはて、消耗し、消え去っておりました。地球はもはやツォーラを憶えてはおりません。(p.191)

さらに、時代背景という概念も早速放棄される。

高原の地平線に摩天楼の尖塔やレーダー用のアンテナが姿をのぞかせ・・・(強調は引用者、p.192)

こんなものはまだまだ序の口だ。まるでデカルトの方法論的懐疑のように、あらゆる了解は審査にかけられる。幕間で、マルコが当初フビライの言語を習得しておらず、身振り手振りでコミュニケーションを取っていたことが示されるのである。もちろん、都市の語りの時系列は明示されていないため、都市の語りはマルコが言語を習得した後との解釈も不可能ではないと思う。しかし、物語中での伝達行為が言語で行われたのでないとしたら、この都市の描写というテクストはどこに在ったのだろうか?

そもそも、言葉によって何かを伝えることなどできるのか?はたまた、マルコやフビライは存在していると言えるのか?

フビライ―朕もまたここにおるということが確かなこととは思えないのだ・・・(p.276)

こうして、すべての存在基盤を揺るがせたあと、ただ都市について夢幻的に語るパッセージだけが残される。冒頭の引用にも示されているとおり、カルヴィーノの方法論的懐疑によって残されるのは、恐らくは聞き手=読者の側に残る何かだけだ。

『見えない都市』というのだから、そうしたパッセージによって陰画として残される都市論こそが本作の主題という読みももちろんありだろう。

ただ私は、伝統的な小説という形式に備わる共通了解を奪い去った状態で何が残りうるのかを考えた、カルヴィーノの小説論・文学論であったものと読み取りたい。

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆

<<背景>>

1972年発表。

マルコポーロの旅及びいわゆる『東方見聞録』は13世紀出来事と考えられている。日本では鎌倉時代中期である。

ヨーロッパが『千一夜物語』を発見することとなったガラン版は18世紀初頭の出版である。

世界で最初にレーダーサイトが活躍した空戦が展開されたのは1940年、カルヴィーノ17歳のことである。なお、カルヴィーノファシストの徴兵を拒否し、終戦までパルチザンに加わっていたそうだ。

まったく余談だが、1985年にカルヴィーノが没したときに追悼文を寄せたアップダイク【過去記事】は、ナボコフにも名追悼文を寄せている。・・・森繁さん?

 

<<概要>>

9部構成。各部の前後には、幕間劇か箱物語のようにして、マルコ・フビライの対話が挿入される。9部構成なので、合計18回の計算だ。

部の下に章が置かれる。第1部と第9部は各10章、それ以外の第2部から第8部までは各5章が含まれる。10×2+5×7=55で、合計55章という計算だ。1章で1都市が紹介され、章題が付される。章題は11種類あり、各章題につき1から5の番号が振られる。このように、まるで織物のような構成になっている。

各章は1ページに満たないものから3ページ程度のものまでで、決して長いわけではない。冒頭から順に読むのではなく、章題の番号に沿って読む読み方も有りうるのかもしれない。

なお、各都市には一つ一つ名前があり、すべて女性の名前で統一されている。

 

<<本のつくり>>

しょっちゅうこの話題に触れている気がするが、およそ将棋ではないゲームを将棋と翻訳される違和感に耐えられない。訳注!訳注!

訳文は古く、1970年代の訳のようである。本全集お得意のリバイバル再録である。

訳者の「米川良夫」の文字を見たときは、なぜロシア文学の人がイタリア語?と思ったが、そっちは「米川正夫」である。私がロシアの有名どころを読んでいた頃、「旧訳」というとだいたい米川氏の訳業であった。興味本位で開いてみると、「結婚」を「華燭の典」と訳していたり、いわゆる格調の高いと言われる訳文という印象である。

良夫氏は正夫氏の五男だそうで、「りょうふ」の読みはトスルトイの「レフ」から来ているそうだ。

良夫氏訳の本作も、今日的な視点で見ると格調の高さが拭えない。本作の夢幻的な特徴がよく出ており、名訳という評価もありうるのだと思うが、私より若い読者には抵抗感があるかもしれない。

 

*1:アラビアンナイト表記より、この題がお好み