ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

072『スモモの木の啓示』ショクーフェ・アーザル/堤幸訳

ほんの一夜の物語を行こう!

「すでに記されていて、書き換えることのできないものに乾杯!」(p.18)

<<感想>>

イラン文学、である。

しかし、この物語をイラン文学と規定するのは、同じくイランに出自を持つ『千一夜物語』をイラン文学と規定するのと同じだけの躊躇いがある。

夙に指摘をされているとおり、文学作品を考える上では、作品の外的な要素、即ち生成・流通・受容の諸側面を含めて考察するのも重要だ。『千一夜物語』も、イランで「千の物語」として生まれたあと、当時の中東のヘゲモニー言語であったアラビア語に翻訳された。その後、フランス人であるアントワーヌ・ガランが西欧圏に紹介をし、英題である「アラビアンナイト」(既にペルシアン・ナイトではない!)を付されるなどして、爆発的に世界に広がって今に至る。アリババもシンドバッドもアラジンも、ヨーロッパ人が付け加えたアラビアの物語であるが、現在これを抜きに『千一夜物語』を語ることはできないだろう。

本作で考慮に入れておく必要があるのは、英語圏に亡命したイラン人によってペルシア語で書かれた作品であるが、英訳されたことによっていわゆる西側諸国で普及した、という事実である。

1.内容

内容を手短に説明すると、革命後の現代イランを舞台とするマジックリアリズム作品、となるだろうか。作中にガルシア=マルケス百年の孤独』が複数回登場し、著者自身この作品を意識していることは明らかである。

孤独なレベッカは悲鳴を上げ、アウレリャノ・ブエンディア大佐はうんざりしたようにウルスラに向かって「私は圧政の中でもこんなことはしなかった」と抗議していた。(p.101)

ただ、全体として『百年の孤独』よりもリアリズム色が強く、また物語が終盤に差し掛かるにつれて現実政治が牙を剥くあたり、マジック度の点では『精霊たちの家』【過去記事】のほうに近しいかもしれない。

物語は、小エピソードが連綿と綴られていく形式で、主役格の5人家族のエピソードの他にも、彼らとは関係の薄いエピソードも多く登場する。この点は『千一夜物語』を意識したものだろう。

さて、本作は、抜きん出て良い部分と抜きん出て悪い部分とが混在した作品だった。良かった部分は細部であり、悪かった部分は全体の基調だ。各論賛成、総論反対。

以下、順に記していく。

2.惚れ惚れする細部

・構造の統御

今回、いつにもましてあらすじの記述を薄くしたのには理由がある。大まかなストーリーラインや、基本的な人物相関を理解するという作業を、本作を読む方には是非自分で味わってみて欲しいからだ。*1

以前に、ジェイン・オースティンについて書いた記事【過去記事】で、三人称小説を書く上での彼女の構成力の見事さに触れたことがある。本作はその一人称小説版だ。

一人称小説である以上、読者は語り手が誰であるのかを客観的に確認することができない。語り手が別の登場人物に呼びかけられて初めて名前を確認することができる。あるいは、「ビーター」などと人物名で呼ばれる場合には、関係が明示される文章が出るまで、読者は想像力を駆使して手探りで読み進めていくことになる。

この作者は、例えばこうした情報の管理や、提供順序の操作が抜群に上手いのである。

この他にも、小エピソード同士の繋げ方/切り方、一人称視点と三人称視点とのスイッチングなどが実に見事で、余程構成を練ったのか、あるいは天性の才能のなせる業だと思われる。

・魅力的な挿話

そしてこれ、もう本作はこれに尽きる。前述の見事な構成の上に、次々と魅力的な小エピソードが繰り出されていくのだ。

従って、本作の魅力はリアリズムの部分というよりもマジックの部分にあり、やはり『千一夜物語』の魅力にとても近い。

こうした小エピソードは、後述する部分を除きどれもとても楽しい。百七十七日降り続ける雪の話*2、人魚に変身する話、宝探しに行く三兄弟の話などもとても良いが、一番のお気に入りは、死神を乗せたタクシー運転手のお話だ。

・ブッキッシュなディティー

書籍名のリストがずらずら書かれる、本好きみんなが大好きな定番シーン。以前にも『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】の記事で、セバスチャンの本棚が描写されるシーンを引用したことがある。

本作ではなんと三回*3もこの「ずらずら」が行われるが、全部引用することはできないので、一回目の焚書の場面から。なんとここでは、燃えていく本たちが描写されている。

私の目の前では炎が広がり、次々に絡み合う恋人たちを吞み込んだ。ピエールとナターシャ、ヒースクリフとキャサリン・アーンショー、スカーレット・オハラとレット・バトラー、エリザベスとダーシー、アベラールとエロイーズ、トリスタンとイゾルデ、サラマンとアブサル、ヴィースとラーミーン、ヴァーメグとアズラー、ゾフレとマヌーチェフェル、シーリーンとファルハード、ライラとマジュヌーン、アーサーとジェマ、薔薇と星の王子さま。みんな最後にもう一度相手の匂いを嗅いだり、別れのキスをしたり、「愛している」とささやいたりする間もなく燃えた。(p.100)

まるで、いくつ分かった?って作者に問いかけられているかのよう。最後が薔薇と星の王子さまなのも良いでしょう?

ちなみに、別のずらずらの箇所では、エリアーデやデュラス、ブコウスキーカズオ・イシグロまで挙げられている。

ブッキッシュポイントはずらずらばかりではない。ここぞというポイントでイカしたパロディをぶちかましてくる。場面は、とある幽霊が述懐するシーン。

私は他の幽霊たちと一緒に樹上小屋からラーザーンの村人たちを眺めながら、「私たち死者はみんな同じように幸せなのに、生きている人たちはそれぞれに違う形で不幸なんだ」と思った。(p.198、強調は引用者)

敢えていうまでもなく、トルストイアンナ・カレーニナ』【過去記事】の有名な書き出しのパロディだが、こんな使い方ってあります?14章のこの箇所に続く数ページは、印象的な挿話というのとは違うが、作品全体の中でも特に素晴らしい箇所である。

3.いただけない全体

さて、問題なのはここからだ。ここまで書いてこなかったが、作品全体としては、イラン・イスラーム革命とその後の政権に対する強い批判の書となっている。

このブログでも何度か書いているとおり、私は思想性・政治色の強い文学作品はあまり好みではない。ただ、それだけで強い抵抗感を示すほど狭量ではないし、文学作品の書かれる意図・読まれる意図も様々であることも理解はしている。

しかし、本作の場合は、そこが欠点となってしまっているように思える。

・残念な挿話

一つ目の問題点は、いわゆるイスラム共和制体への批判をしたいがために、物語がつまらなくなっている部分だ。先に挙げた小エピソードの中に、ルーホッラー・ホメイニを焦点人物とした箇所や、女性の性的自己決定(不倫や自慰など)の場面が登場する。いずれの箇所も、敢えて政体にチャレンジすることが自己目的化してしまっており、物語としてイマイチだ。

・単純な思想と複雑な気持ち

イスラム共和制体を批判するとして、表面上、著者がこれに対置するのは「古き良き」イラン文化だ。例えば具体的には、イスラム化前(ササン朝ペルシアなのでなんと7世紀!)のイラン文化であるゾロアスター教やパフラヴィー語であったり*4イスラム化後のものでは『精神的マフラヴィー』のような神秘主義詩(思想)や詩作などだ。こうした二項対立は徹底しており、主人公サイドの人物名は、バハール、ソフラーブ、フーシャング、イーサー*5など、イスラム的な名前が避けられている。他方、迫害側には、「ホサイン」*6に改名した等のエピソードまで付されている。

ところで、そうしてイラン文化への追憶を馳せる主人公一家が、良家・金持ち(ブルジョワ)・インテリであることに注意をしなければならない。果たして、パーレビ王朝*7時代でも識字率の低かったと言われるイランで、そうした価値観がどれほど受け入れられる余地があったのだろうか?むしろ、都市(テヘラン)から未開の土地ラーザーンへ引っ込んでゾロアスター教を発見するエピソードなどには、ある種のオリエンタリズムさえ見て取れる。

もちろん私だって、表現の自由と信教の自由、そして民主主義を支持するし、あらゆる独裁と全体主義には反対だ。また、イラン革命によって生じた弾圧は、被害者にとって極めて重大な悲劇だろう。しかし、かくも自分たちの特権的地位にあまりに無自覚的に書かれてしまうと、たんに西側的価値観を特権維持のための方便として使用しているようにしか思えなくなってしまう。いわゆる白色革命のどこに問題があり、それがどうイラン革命につながったのかの考察くらいは、日本語版のwikipediaにだって書いてある。

そんなところにまで著者に責任はないのだが、南米大陸などの多くの国で親米政権が国家運営に失敗し、現在既に民主主義国家が少数派となり、米国でさえ民主主義が揺らいでいるのは、こうしたハイクラス・エスタブリッシュメント達の無自覚と無関係ではないように思われる。

せっかく文学みたいな七面倒臭い方法で政治思想的な表現をするのであれば、「猫の首を刎ねる」【過去記事】のように、微妙な揺れをこそ表現して欲しいし、それがまだしも相互理解の道に繋がるようにも思う。

・細部への反映

長々と書いてきたが、これはただ一つの単語への疑問に端を発し、そしてそれに集約される。

場面は、革命後すぐの時代、主人公一家のうち母と父が車で走っている際に、検問所で止められるところ。革命防衛隊と、その傘下の民兵に、禁制品を持っていないか検閲をされる。車中で『百年の孤独』が見つかり、これが禁制品かどうかに首をひねる規制側にクスッとした後だ。

きれいなビーターの前で力を見せつける口実を失った民兵の少年は、彼女が座っている席の窓ガラスにひまわりの種をつばと一緒に飛ばし、虫歯を見せてにやりと笑った。(p.56、強調は引用者)

この民兵の少年は、14歳ということになっている。さて、著者はなぜ彼を虫歯にしてしまったのだろう?

にやりと笑って見えるくらいの虫歯なのだから、それなりに酷い虫歯だろう。ここで敢えてこの虫歯を描写したということは、この少年の低い教育水準と、もしかすると低い生活水準をも示しているのだろう。

彼はこの場面だけに見切れる端役中の端役だ。従って、虫歯であるという以上の人物描写はない。逆にいえば、本来、虫歯であるという描写をする必要さえなかったはずだ。そこに敢えて彼のプアーな出自を示したところに、私は著者の無意識的な嘲りの感覚をを感じざるを得ない

13歳で革命の被虐者となった語り手のエピソードは確かに悲劇だろう。しかし、14歳で武器を携帯して検閲の手伝いをしている少年兵も、同じだけ革命の被虐者なのではないだろうか。この少年兵を単なる弾圧者として描くのではなく、語り手に対するのと同じだけのエンパシーを向けて欲しかった。

 

本作は著者のデビュー作だそうだ。「デビュー当時の作品に色濃かった自身の体験に根差すテーマが、作品を経るごとに後景化・抽象化し、作品としての純度・完成度が上がっていった」などと評される偉大な作家も多い。

私としては、是非この著者の魅惑的なエピソードが沢山つまった次回作を読んでみたい。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

 

・おまけ

父さんは毎日新聞を買った。(p.216)

毎日と新聞の間に読点を打ちたくなるのをぐっと我慢。ここはイラン。

あと、作中に何度も登場するゴルメサブズィは美味しいよ!

 

・明日もう一度来てください、本当の政治風刺をお見せしますよ

・圧制を後景化している傑作

<<背景>>

2017年英訳版初出。ペルシア語版の刊行がいつなのかはわからなかった。

作品の舞台は1978年頃~で、スマホSNSなどへの言及もあることから、おおよそ現代までといって良いだろう。

ペルシア/イラン文学の背景を語るにも、『千一夜物語』と『テヘランでロリータを読む』くらいしか読んだことない。訳者あとがきによれば、同じエクス・リブリスに入っている『私はゼブラ』(イラン系アメリカ人著者)はじめ、翻訳が出てるものが何冊もあるようだ。

ただ、感想で引用した「ずらずら」を見てもわかるとおり、世界中どこの国の作家が書いた作品でも、相当程度の部分は世界文学のライブラリが参照されているため、敢えてペルシア/イラン文学の背景を探る必要も乏しいかもしれない。

なお、「テヘロリ」の著者ナフィーシーも名門の出自で、アメリカに移民して英語で作品を描いた。こちらの作品は本作以上にヘゲモニーよりの使者臭がして好みではなかった。

<<概要>>

全19章構成。章題はなく、章の上の区切りはない。章の途中で行アキが挟まることがあり、ここでガラっと場面が転換することもある。章ごとの分量には大きな揺れがあり、後半の数章は特に短い。

語りの位相は複雑で、一人称の語りでありながら、時折三人称との区別がつかなくなる部分があり、このあたりの腕前は見事だ。

<<本のつくり>>

訳文自体極めて読みやすいものであるし、馴染みの薄いイラン文化についても、原注・訳注で豊富に補われているため、スムーズに読み進めることができる。

ところで、本書は英語版からの重訳版である。重訳よりは原語版からの訳が望ましいのであろうが、本書の場合いろいろな問題がありそうだ。

そもそも、英語版が評判となったために翻訳出版が決まった事実上の英語文学という側面もあるだろうし、ペルシア語からの翻訳を誰が行うのかという問題もありそうだ。

英語からの翻訳よりも圧倒的に候補者が少ないだろうし、何より悪魔の詩事件の記憶もチラつく。なお、ペルシア語から英語に翻訳した訳者は、氏名を公開していないようだ。本作の堤幸氏も、ペンネームなのだろうか。翻訳が出るような作品だと、先行して日本語の論文が出ていることも多いが、本作の場合そうした関連文献も一切見つからない。

こうしたものの翻訳が読める幸せを噛みしめ、訳者氏に敬意を表したい。

*1:この点、某談社文芸文庫のように、本文に入る前に整理整頓された登場人物一覧を用意されるのは最悪である。某文社古典新訳文庫については、読者の裾野を広げることに意義がありそうなので不問ということで。

*2:これも『百年の孤独』に登場する「四年十一か月と二日」降り続ける雨の話のパロディだろうか。

*3:p.100-102,p182-185,p.190

*4:原『千一夜物語』はパフラヴィー語作品だ。

*5:イエス・キリストのイエスと同名

*6:イスラム的な名前

*7:パフラヴィー朝イラン帝国