ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-04①『太平洋の防波堤』マルグリット・デュラス/田中倫郎訳

オイディプス女王

≪感想≫

ソフト帽は映画からそのまま脱け出たみたいだ―女の件で気がむしゃくしゃするから、財産を半分賭けに、四十馬力の車に乗ってロンシャン競馬場へ行く前に無造作にかぶるような帽子である。(p.32)

清々しいほどつまらなかった。

あまり酷評すると、馬鹿なんじゃなかろうかと思われるきらいもあろうが、少なくとも私にはまったく向いていない。

デュラスという作家は、おそらく本全集に入っていないければ、一生読む機会はなかっただろうと思う。かろうじて、著名らしい映画「ラマン」*1の作者らしいという程度の前情報しかなかった。

なぜつまらないか、というのは悪魔の証明チックで難しい。一点の疑義も許されない自然科学的証明はできっこないが、名作に備わる要素の不在を一つ一つ確認したい。

 

 

まず、主題なりモチーフなりが弱い。

第一部では、女性版オイディプス王*2な主題が取り上げられる。すなわち、父(本作では主人公の女性の「兄」で代替される。)を愛する母、ひいては自身から父(兄)を取り上げる母との対立と、父(兄)への倒錯的な愛情といった主題である。

第二部では、非人間的な植民地主義、いや、本作が否定しているのはイズムではないだろうから、非人間的な植民地の様相というべきか、その主題が加わる。

これが弱いと感じるのは、必ずしも私が男性であり、共感しづらいためではなかろう。また、著者がそうした主題を最前面に押し出さず、抑えた文体で表現しているからでもなかろう。本作を読んでいると、どうにも思いっきり生電話とか、女のリポートとか、発言小町とか、その手のモノと同じ空気を感じる。ようは、畢竟本作は悪しき私小説の域を出ず、新しいモラリティの提示でもなければ、読者に対する問いかけでもなく、読者の共感を求める主題に過ぎないのである。

 

次に、プロットが凡庸である。

第一部の主題を汲み取った時点で、母が死んで、父(兄)と一発やって終わるんだろうと思ってたら、何らの意外性もなくその通り(正確には、主人公が兄の面影を見る相手だったけど)に終わった。愛人(ラマン)の注を読んで知ったけれど、作者はフロイトに影響を受けているらしい。なーんだ・・・。

 

最後に、文体が稚拙である。

唯一、本当にただ一文、本作の炭鉱の中にあったダイアモンドが、冒頭に掲げた引用の一文である。この一文だけ本作中で極めて異質だ。ムッシュウ・ジョーという登場人物を描写する場面で、当人が紹介されるより先に、当人の被っている帽子を描写する中で、空想上の人物がひょいと登場するのである。しかも、三人称の語りではあるものの、ほとんど主人公の少女シュザンヌの視点で進行する物語の中、シュザンヌが見たことのあるはずのない、従ってはっきり作者の視点だとわかる、ロンシャン競馬場に向かう男が登場するのだ。この部分だけゴーゴリ的な面白さがある。

この文章は物語の序盤で登場するのだが、作者はこの一回でこの試みをやめてしまった(あるいは、神は二度と舞い降りてこなかった)ようだ。

本作より、バーナーという名の男が、改造した自分の車のトランクを見せびらかす場面。こんなオイシイ場面でも、著者は拾い食いをせずに流していく。

赤塗りの二人乗りの車だが、後部の荷物入れが、引出しつきの一種の大きな箱に変形されており、引出しの中にバーナーは 綿糸の見本を入れていた。引出しは、黄、青、緑、その他、中身の糸とそっくり同じ色に塗られている。箱全体に仕込まれた後開きの引出しはかれこれ三十ぐらいもあり、箱の中にさしこんで鍵をちょっとまわすだけで、引出しは自動的に錠が開閉される仕掛けになっている。こんな車は世界じゅうに二台となく、しかもこうした改良はまったく自分一人で思いついたものなのだとバーナーは説明した。(p.189)

他方、ゴーゴリ作『死せる魂』の主人公、チチコフの手箱の説明の場面。本筋そっちのけで手箱の描写に夢中になり、このモチーフは後に反復される。

さてそこで内部の仕組だが、まず、いちばん真ん中に石鹸箱があって、その向こうに剃刀を入れる狭い仕切りが六つ七つある。それから、砂箱とインク壺を入れる正方形の枡穴があって、その二つの枡穴の中間には、鵞ペンや封蝋などといった細長いものを入れる長方形の溝がえりぬいてある。それからまた、小物をいれる、蓋のあるのや蓋のない、いろんな仕切りがあって、訪問用や弔問用の名刺や芝居の切符などが、ちゃんと心覚えにしまってある。このいろんな仕切りのついた上箱をそっくり取りのけると、その下には半切の用紙がぎっしり詰まっており、手箱の横腹には金子を入れておく、小さな秘密の引き出しがついている。それはいつも、引き出すと同時に大急ぎで押しこまれてしまうため、一体どのくらいのお金が納めてあるのか、確かなことはわからなかった。(岩波文庫版、p.102-)

このように、よくも悪くも著者の文章には引っ掛かりがなく、ただ場面が流れ去っていくばかりである。ナボコフドストエフスキーをして、劇作家になるべきであったと論じた。私は、この意味でデュラスは映画監督か脚本家になるべきであった思う。 

お気に入り度:☆

人に勧める度:☆

≪背景≫

1950年発表。サガンの『悲しみよ、こんにちわ』が1954年発表である。年齢はサガンのが16歳下である。後世の小説家のやる気を奪った『失われた時を求めて』が1913-1927年、この頃のフランス文化史を語るに外せない、サルトルの「実存主義ヒューマニズムであるか」が1945年である。著者はヌーヴォー・ロマンやその周辺の小説家として分類されることが多い。

作中の年月の特定は困難であるが、日本進駐前のフランス領インドシナが舞台と推定されるから、おおよそ1930年代~1940年代であろうか。

舞台はフランス領インドシナのうち、もっぱら現在のカンボジアが所在するところである。主人公の家はや「防波堤」の所在地は、タイトルに反して太平洋ではなく、シャム湾、即ち現在のタイランド湾に面した地域である。物語にはプノンペンや"カム"、"ラム"といった町が登場する。"カム"は"カムポ"のことである旨の注釈があるが、これは"カンポット"のことを指すのであろうか。

≪概要≫

主人公のシュザンヌ、その兄ジョゼフ、そして母親の3人家族の物語である。

時系列に沿って進行し、少しずつ家族関係に変化が訪れていく。

構成は2部構成。章立てはなされていないが、場面の切り替わりで改ページが行われ、実質的に章を構成している。章番が付されていないのは、物語の流れを損なわないための配慮だろうか?第1部は短いが、1章あたりのページ数は多い。反対に第2部は長いが、1章あたりのページ数は少ない。第2部の方が場面転換が多いためであろう。

第1部:実質8章、p.6-153 

第2部:実質22章、p.156-337

≪本の作り≫

本作で一番の不満点がここである。

まず、注釈の数は少なく不十分である。たとえば、主人公たちが居住する家屋は「バンガロー」とされるが、これは果たして木造平屋建ての比較的大ぶりの家屋を指すのか、それとも日本の山中によくあるような小屋を指すのか、どういう趣旨で訳出したのか不明瞭である。基本脚注なのに、一か所(p.157)だけ割注で統一性を書く。

また、訳者解説は解説になっていない。概要で指摘したとおり、章と思しき改ページが頻回されている。そして、ところどころ空行が挟まるのも特徴的だ。しかし、これに対する説明や、原テクストとの関係(踏襲したのか、日本版独自なのか?)も一切触れられない。本作の解説は、ニーチェアフォリズムのような文章がいくつか書かれ、アスタリスクで区切られ、またアフォリズムが始まるといった、極めて独りよがりのものだ。

更に、訳文も酷い。

・・・そういう扱いにはすでに馴れきったご本尊馬耳東風とそれを受け流す。(p.89)

 

・・・「ぼくのことはカルメンから聞いていられることと思います。フランス語で言う、待てば海路の日和あり、ってわけですよ」(p.196)

私はフランス語の一語も知らないが断固不適切な翻訳だ。

 

*1:伊集院光がよく愛人のことを「ラマン」というのは、この映画の影響だろうし、私がこの映画を知っていたのは伊集院光の影響だ

*2:フロイト的な意味ではないので、女性版エディプス・コンプレックスといいたいのではない