ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-04『アメリカの鳥』メアリー・マッカーシー/中野恵津子訳

あのひとのママに会うために

「田舎の店って、ただの配給センターなの?」と母はわめいた。「それなら社会主義のほうがましね。ポーランドハンガリーみたいに国営店のほうが」ピーターは眉をひそめた。鉄のカーテンの向こう側で演奏して以来、母は共産主義に対して寛大になっているらしい。政治の問題では、ピーターは、今でも反共産主義左派を支持している父を手本にしていた。(p.85)

<<感想>>

実はかなり前から気づいてはいたのだが、池澤夏樹氏とはどうもあまり趣味があわないらしい。

最初に疑いを持ったのは、もう最初も最初、『オン・ザ・ロード』【過去記事】を読んだ時だ。当時の感想を読み返すと、そこには「こうした価値観は、古臭い、ともするとイケてないものに映る」と書いてある。これは、いわゆるビート・ジェネレーションについて言及したものだが、本作にも同じような印象を抱いた。

 

本作は、1965年、アメリカによる北ベトナムへの爆撃、いわゆる北爆が開始された当時に19歳を迎えた青年ピーター・リーヴァイ君を主人公とする。古びたカテゴライズではあるけれど、おおむねビルドゥングスロマンのような物語形式である。

ただこのピーター君、王道的なビルドゥングスロマンの主人公とは異なり、積極的に街へ出て経験を積んでいくタイプではなく、内向的な思索にふけるタイプである。このため、読み味としては、一人称で延々うじうじやっている『軽蔑』【過去記事】に近づく。

 

さて、ではなぜこんなにも本作は「古臭い」のだろうか。考えてもみれば、別にトルストイがいくら農奴解放についてアツく思索を巡らせたところで、我々は「古臭い」とは思わない。

恐らく、これはピーター君の思索が、農奴解放ほどには現在の我々から遠くなく、むしろ現在の我々と地続きであることから来るように思う。

私の計算に誤りがなければ、ピーター君は1945年か46年の生まれ、とうに死んだ私の父と1つか2つ違いのはずだ。生きていれば2022年現在77歳くらい。私が学生だった頃に、引退間近だった教授陣の世代と言い換えてもいい。

ベトナム反戦、自然環境が侵食されることへの憤り、資本主義によって失われ行く伝統的暮らしへの愛着、カウンターとしての社会主義への憧憬・・・。ピーター君の思索は、私にとっては、引退間近の戦後左派知識人たちによる何周か前、いや、最初の1周の議論そのもののように映る。

都市が広がるにつれて、渡り鳥はますます街のなかに立ち寄るようになり、今朝だけでも、パリでは五十年間観察されていない種類の鳥が見つかった。ピーターはそういう意見にほのかな希望の光を見た。巨大都市の副次的な利点は、たとえば長く生きていれば、ロックフェラー・センターのクリスマスツリーにイヴニング・グロスビーク(キビタイシメ)の群れが飛んでくるのを見られるといったことかもしれない。(p.205)

ピーター君には知る由もないが、その後実際にロックフェラーの建てたビルに飛んできたのは、鳥たちの群れではなく、ハイジャック犯に乗っ取られた旅客機の群れである。

既にそれを知ってしまった私たちが、ピーター君と同じフレームワークで物事を眺めることはどうしてもできない。もちろん、私が引退世代になった頃には、未だにオウム事件や9.11で世界を語る古い世代、とみなされるのであろう。

そしてその頃には、ピーター君の思索も農奴解放と同じくらい地平線に向こう側に行っているのかもしれない。

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『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール/芳川泰久訳

ようやく、愛妻、某ジャクソン夫人

一度、昼のさなかに、野原の真ん中で、日射しがもっともきつく古びた銀メッキの角灯に当たっていたときに、小さな黄色い布の窓掛けの下から、一つの手がにゅっと出て、破いた紙切れを投げ捨て、それが風に乗ってずっと遠くの花ざかりの赤いクローバーの野原に落ちかかり、さながら白い蝶のようだった。(p.443)

<<感想>>

思い返せばこのブログを始めたきっかけは、『ボヴァリー夫人』を再読したことにある。『ボヴァリー夫人』があまりに素晴らしく、様々な思考が去来する中、指と指の隙間から零れ落ちようとするそれらを書き留めたくて始めたのだった。

このブログの一番最初の記事(参考リンク)にも、そんな爪痕が残っている。

 

さてでは、なぜ今日に至るまでその感想を書き記してこなかったのか。それは端的にいうと、馬鹿にされるのが怖かったからである。

ボヴァリー夫人』はもうかれこれ数世紀にわたり褒めつくされて来ている。さして詳しくもない別のジャンルで例えると、まるで落語の演目の「子ほめ」(参考リンク)のごとく、「ボヴァリ褒め」は一つの芸なのである。この芸を十八番にしている名人としては、例えば富野由悠季みたいな顔したオジサンが挙げられる*1。そしてまた、「子ほめ」のごとく、前座の芸の腕前はかるにゃもってこいと、こういうわけなのである。

 

そして今、改めてこれを書く気になったのは、先日*2珍しく人と文学の話をした際に、「『ボヴァリー夫人』は何がすごいんですか?」という問いかけに上手に答えられなかったのが悔しかったからである。

そこで今日は、頑張ってこの「ボヴァリ褒め」の演目に挑んでみたい。

*1:お二人ともキレ芸も大層達者なようで

*2:この下書きを書いてから2年ほど更新を放置していたため、全然先日ではなくなってしまった

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2-03②『軽蔑』アルベルト・モラヴィア/大久保昭男訳

振り返れば奴がいる

「だけど、昨日きみはこの住居が好きだって言ったじゃないか」

「あなたを喜ばすために言っただけよ・・・。あなたこそこの家に執着していると思ったから・・・。」(p.302)

<<感想>>

既婚男性にはツラい小説である。

それは本作が、妻に軽蔑をされた男を主人公とした小説であるからというだけではない。冒頭から、かなりの長さと濃厚さを伴って、主人公の妻に対する不信と煩悶のモノローグが繰り広げられる。

私は既婚者であるが、決して妻との仲に何か問題を抱えているわけではない。いや、こんなことにわざわざこのブログで言及するほど、何か思うところがあるわけでもない。でも、哀れな主人公リッカルド・モルテーニ君だって、最初は妻との完全な関係を構築していたではないか・・・

などなどと、読み進めていくと、主人公の懊悩が読者の読解行為とシンクロして、考えんでもいい迷妄に突き落とされそうになるのである。

 

このツラいだけの読書から解放されるのは、我らが救世主ラインゴルト君が物語に登場するあたりからである。

ラインゴルト君の出現は、作品に二つのきっかけをもたらしてくれる。

 

一つ目は形式面。作者に仕組まれた人物の登場は、まず物語の舞台に変化を与える。都市の室内だけを舞台にしていた物語は刺激を与えられ、舞台はテレニア海に浮かぶカプリ島へと移り変わろうとする。この変化によって、刺激を受けるのは文体である。

延々と続くモノローグは一度後景へ引っ込み、豊かな情景描写によって、適切な濃度調整が行われる。

筆者によって意識的に文章の濃度や、物語の速度が調整されているのは明らかであり、このあたりの筆運びは見事である。

 

二つ目は内容面。モルテーニ君はシナリオライターで、ラインゴルト君は映画監督である。この二人が、プロデューサーのバッティスタのもと、『オデュッセイア』の映画化を企てる。

面白いのは、この『オデュッセイア』に対する三者の解釈の違い、特に『オデュッセイア』の解釈にウィーンの代表団*1を招く部分である。ラインゴルト君は、『オデュッセイア』を妻に愛されなかった夫の帰宅拒否の物語に再構成する。これが、モルテーニ君の夫婦関係に関する懊悩と、読者の読解に波紋を投げかけるのである。

 

*1:いわずと知れたジークムント・フロイト先生を指す。

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『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』奈倉有里著

ロシア的倒置法

ペテルブルグのエレーナ先生の授業で詩を教わってから、詩は私にとってずっとエレーナ先生がくれた魔法の続きだった。(p.122)

<<感想>>

SLAM DUNK』という漫画がある。

何も今更説明するのもなんだが、ジャンプでバスケな国民的漫画作品である。多くのバスケ少年は我もと志し、多くのバスケ中年は、過去の追憶を重ね合わせた。そして多くの未経験者にバスケットボールの魅力を教えた作品であり、スポーツ漫画の金字塔といってもよい。漫画の分野では、『SLAM DUNK』に限らず、様々な競技を題材にしたビルドゥングスロマン(?)の名作が存在する。

 

今日紹介する本書は、言ってみればこうした王道スポーツ漫画の露文版である。

自分で書いていて、書いてることの意味がわからなくてくらくらしてくるが、たぶん間違っていない。

つまり、物語の主人公は、ひょんなことから露文に憧れて露文の本場ロシアに飛び込み、露文を通じて友人を作り、露文を通じて良き師と巡り合う、そんなお話なのだ。

そして、既に露文中年となり果てた私は、すっかり美化された文学部の学生だった過去の思い出を重ね合わせるのである。

というわけで、露文少年・少女や露文中年はもちろん、露文未経験者にもうってつけの露文ロマンが本作なのである。

 

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