ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-03②『軽蔑』アルベルト・モラヴィア/大久保昭男訳

振り返れば奴がいる

「だけど、昨日きみはこの住居が好きだって言ったじゃないか」

「あなたを喜ばすために言っただけよ・・・。あなたこそこの家に執着していると思ったから・・・。」(p.302)

<<感想>>

既婚男性にはツラい小説である。

それは本作が、妻に軽蔑をされた男を主人公とした小説であるからというだけではない。冒頭から、かなりの長さと濃厚さを伴って、主人公の妻に対する不信と煩悶のモノローグが繰り広げられる。

私は既婚者であるが、決して妻との仲に何か問題を抱えているわけではない。いや、こんなことにわざわざこのブログで言及するほど、何か思うところがあるわけでもない。でも、哀れな主人公リッカルド・モルテーニ君だって、最初は妻との完全な関係を構築していたではないか・・・

などなどと、読み進めていくと、主人公の懊悩が読者の読解行為とシンクロして、考えんでもいい迷妄に突き落とされそうになるのである。

 

このツラいだけの読書から解放されるのは、我らが救世主ラインゴルト君が物語に登場するあたりからである。

ラインゴルト君の出現は、作品に二つのきっかけをもたらしてくれる。

 

一つ目は形式面。作者に仕組まれた人物の登場は、まず物語の舞台に変化を与える。都市の室内だけを舞台にしていた物語は刺激を与えられ、舞台はテレニア海に浮かぶカプリ島へと移り変わろうとする。この変化によって、刺激を受けるのは文体である。

延々と続くモノローグは一度後景へ引っ込み、豊かな情景描写によって、適切な濃度調整が行われる。

筆者によって意識的に文章の濃度や、物語の速度が調整されているのは明らかであり、このあたりの筆運びは見事である。

 

二つ目は内容面。モルテーニ君はシナリオライターで、ラインゴルト君は映画監督である。この二人が、プロデューサーのバッティスタのもと、『オデュッセイア』の映画化を企てる。

面白いのは、この『オデュッセイア』に対する三者の解釈の違い、特に『オデュッセイア』の解釈にウィーンの代表団*1を招く部分である。ラインゴルト君は、『オデュッセイア』を妻に愛されなかった夫の帰宅拒否の物語に再構成する。これが、モルテーニ君の夫婦関係に関する懊悩と、読者の読解に波紋を投げかけるのである。

 

ここで、本作の優れたところを明らかにするために、他の二つの作品との比較をしてみたい。

一つ目は、『アルトゥーロの島』である。実は、同作の作者エルサ・モランテは、『軽蔑』の著者アルベルト・モラヴィアの妻である。

私は、かつて『アルトゥーロの島』の感想の中で、「フロイトの作った物語・神話のヴァリエーションを読まされるのはもういい加減ウンザリ、飽き飽き」と書いた【過去記事】。

これに比較して、本作でのフロイト物語の扱い方は実に上手い。フロイト物語を一旦消化した上で、その適用を作中人物にやらせたうえで、さらにこれを主人公自身が置かれた環境と対比して見せるのである。しかも、主人公自身はそのフロイト的物語解釈に反対をしているというおまけつきだ。

フロイト物語を、こうした対立構造の中に投げ込むことによって、モルテーニ君が投げ込まれた一人称視点という牢獄の様子をより際立たせるているのである。

 

二つ目は、本作と同じ巻本に登載されている『マイトレイ』との比較である。

同作の感想を書いたとき、まだ本作を読んでいなかったが、私は期せずして「一人称視点でマイトレイがアランを深く愛していた、と表現するのでは、せっかく苦心して閉じた蓋の中から、無意識下の傲慢の臭いが漂ってくる。」という感想を書いていた【過去記事】。

本作はこれと全く逆に、常に主人公が「ああ、彼女は私をなぜ愛さなくなったのか?」という問いかけを行っており、まさに一人称視点の特質を最大限引き出しだ表現がなされているのである。

無論、読者は常に自由なのであり、妻の軽蔑の理由を見出すことも、反対に、問題があったのは妻の方だと考えるのも自由である。しかし、その解釈の結論は永遠につかず、「志村うしろー!」と叫ぶことは読者には許されていない。

読者には最後まで志村と同じ視点しか与えられていないのである。

 

正直、本作が面白いかと問われれば、終始妻の不信に振り回される男が見いだされるだけで、面白いという読後感ではない。しかし、一人称小説という形式の持つ表現可能性を引き出している点で、一読の価値がありそうだ。

 

自分用メモ:登場人物の「視線」と、その視線を主人公が勝手に解釈していく部分にも興味をそそられたが、特に言及しなかった。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

 

<<背景>>

1954年発表。

作中年代を特定する情報に乏しいが、ネオ・リアリズムはもう飽きられているという趣旨の映画に関する言及(p.282)があるため、発表年と同時代の1950年代と推定するのが適当であろう。

フロイトの『夢判断』は1900年、『精神分析入門』が1917年の作品である。

『アルトゥーロの島』は、本作よりやや遅れて1957年刊行。ひょっとすると、作者は妻がこの手の作品を書いているのを知っていて、あえてラインゴルト君を創造している可能性までありそうだ。

 

<<概要>>

全23章構成。章の上下の区切りは存在しない。

本文でも言及したとおり、一人称小説である。

ラインゴルト君が登場するのは8章。ここまでは耐える読書である。

カプリ島へと向かい、ようやくまとまった情景描写が出てくるのは12章である。

 

<<本のつくり>>

文章自体は平易であり、男女の愛(の失敗)という普遍的なテーマであるため、読者を選ばない。2022年の価値観で1954年の男女観を裁く気はないが、やはり女性一般に対する表現のトゲは少し気になった。

訳者=解説者は、物語の結末部における妻の死を、モランテに対するあてつけとする読みも可能というが、私にはいわゆる機能的な死、すなわち、物語を終わらせるための方途としての死に読める。

 

*1:いわずと知れたジークムント・フロイト先生を指す。