ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-09『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー/篠田一士訳

ディケンズ時々バルザック、そして

それが思い出というものの実体なのです―知覚、視覚、嗅覚、わたしたちが見たり聞いたり触れたりするときの筋肉―心でもない、思考でもないもの。どだい記憶などというものはありません。それらの筋肉が探りあてるものを脳髄が思いだすだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。そしてその結果はたいてい不正確でまちがっていて夢の名にしか値しません。

<<感想>>

本全集のうち数冊は、大人買いを敢行する以前から持っていた。そのうちの一冊が本作だ。正直私の好みの作品ではなかったが、フォークナークラスの大作家になると、書きたいことが山ほどでてくる。

ただ、あんまり長く書いても仕方がないので、(いつもどおり)文体と文学史に着目してみたい。 

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

 

 

ディケンズ

当ブログの短い歴史の中の、たかだか二十数冊の小さい書架の中でも、文学の歴史は谺している。

本作『アブサロム、アブサロム!』が、ディケンズの『大いなる遺産』の強い影響を受けているのは明らかだ。フォークナー読みには常識なのだろうか。

第一、本作に登場する"ミス"・コールドフィールドという"老"婦人は、『大いなる遺産』に登場する"ミス"・ハヴィシャムという"老"婦人を下敷きにしている。どちらも婚約直後に婚約が破談になり、相手の男性を恨み続けて独身のまま余生を送っている。かたや破談後は同じ喪服を着続け、こなた破談後は朽ち果てたウェディング・ドレスを着続けている。閉めきった部屋で暮らしているという設定も同じだ。

そこで中に入ってみたら、そこはかなり大きな部屋で、いくつもの蝋燭が明々と照らしていた。陽の光はほんのかすかにも室内に射しこまないようになっていた。『大いなる遺産(上)』(p.125)

その薄暗い熱気のこもる風通しの悪い部屋は、彼女がまだ幼少のころ、だれいうともなく陽や風が当たると熱気が入るとか、暗いほうが涼しいとかいわれたので、四十三年間もブラインドを完全に閉めきったままになっていた。(p.5)

第二、大事なことは三回言う。

もし、ジョーがそのことを知ったら・・・。それから、もしジョーがそのことを知ったら、・・・。それと、もしジョーがそのことを知って、・・・。『大いなる遺産(上)』(p.94)

おそらく彼は、自分の妻子と比べて彼女のほうが二倍も重要だなどとは考えもしなかったのだ―・・・。・・・将来は父親とならぶほどの背丈が予想されるヘンリーと比べて、二倍も重要だとは。・・・ジューディスやヘンリー(・・・)の外気に触れた顔と比べて二倍も重要だとは思いもしなかったのだ。(p.72)

ディケンズもフォークナーも、この三回一セットを作中で何度も使う。それぞれ二回や三回ではない。十回、いや二十回は登場するだろうか。

第三、『大いなる遺産』の感想で論じたように、フォークナーも、同じ単語を同じ場所や時間と結び付けて繰り返すことにより、そのイメージを読者に植え付ける。1909年のジェファソンは、二度咲き、ウィスタリア*1、葉巻、紫煙、匂い、ヴェランダ、夏の午後、蛍といった語のイメージで彩られる。

 

プルースト

フォークナーの文体の特質として外せないのが、とにかく一文が長く、ピリオドまでの距離が遠い点である。それにしても長い。逐一チェックをしていたわけではないが、私が気づいた限りで一番長いものは、1行44字*2の本書にあって実に23行である。8行、9行ピリオドなしの文章はザラに登場する。この点はテンポよく、比較的読みやすい部類に入るディケンズ作品とは大違いだ。

これは果たしてフォークナー固有の作法なのだろうか。あるいは、やはりこれにも誰か先達があるのだろうか。もしご存知の方がいれば教えていただきたい。

 

ピリオドが遥か向こうにあるのを見て私が思い出すのは(チェッカーズではなく)プルーストである。冒頭に引用した一文も、仄かにプルーストの、もっと言えばコンブレーの香りがしたために引用をした。しかし、本作の文体はプルーストの文体とは明らかに違う。プルーストのように澄んで穏やかな流れではなく、胃もたれがしそうなくらいに濃い文章だ。

 

「濃さ」、これもフォークナーを語る上での一つのキーワードかもしれない。巻末や挟み込みの解説をはじめ、本作に対する書評では彼の作品はしばしば「濃い」と評される。

ドストエフスキーの作品もよく「濃い」と言われ、登場人物がとにかく喋りまくる点も似ているが、ドストエフスキーの「濃さ」は人物の論ずる思想の「濃さ」だ。

 

これに対してフォークナーの「濃さ」は、文章を極端に厚塗りしている点に求められると思う。たとえば、次の8行からなる文章(便宜的にその前の文章も併せて引用する。)。

そのときは、病気あがりの男のように見えたので年齢の見当がつかなったのだ。おとなしく病床に臥せっていて回復してからはもうおさらばとばかり思いこんでいたこの世におっかなびっくり出てきて男、といったような感じではなく、単に熱病にかかったという以上のなにか孤独な地獄の苦しみをなめてきたような男、たとえば探検家のように、所期の目的を達するためには当然ふりかかる苦難に立ち向かわねばならなかったばかりではなく、予想もしなかった熱病という悪条件まで重なって、それを切り抜けるために肉体的というよりは精神的に多大の犠牲をしいられ、たったひとりで協力者もないままに、なんとしても生きのびようというのではなくそもそも自分が手を染めるきっかけとなった一攫千金の夢をなんとしてもつなごうという本能的な意力をふりしもって闘い抜いてきた、そんな男のようであった。(強調は引用者による)

この文章などは比喩の四度塗りだ。普通は、「Bのような男」この一度塗りで足りるはずだ。これにわざわざ否定形をくっつけ、「Aのようではなく、Bのような男」とまず二度塗りをする。さらに、「Aのようではなく、Bのような男、たとえば・・・」と繋げて二度塗りの比喩を更にたとえて説明する文章を付加する。かくして、「Aのようではなく、Bのような男、たとえば、Cという状況下で、Dせず、Eした、そんな男」という「濃い」文章が出来上がる。

 

ナボコフ

当ブログの小さな書架には、もう一冊本作との比較に適した作品がある。それはナボコフ先生の『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】だ。

両者とも「モダニズム文学」に分類され、多層的な語りの構造を有している*3。両作品とも、主人公と目される人物の一代記であり、そうであるが故に両主人公とも直接的にはほとんど作中に登場しない。同じ英語で書かれた作品だし、発表年は4年しか違わない。そしてどちらも相当程度に晦渋だ。

 

当のウラジーミル本人は、フォークナー嫌いだったらしい。

池澤夏樹氏はその理由を、ナボコフが都会人だったから、と評している(『文学講義 上』河出文庫版解説より)。しかし、私はこの文体の差にこそその理由を求めたい*4

ナボコフの文体は、彼の愛した鱗翅類のように、羽化する前の幼生のグロテスクさと軽やかに空に舞う姿の美しさを兼ね備えている。

かたやフォークナーの文体は、原生林が鬱蒼と生茂る湿地帯のように、肺にまで入り込んでむせ返るような濃さを 持っている。

 

文学の世界は実に多様だ。 

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆


・フォークナーの影響を受けたメキシコの作家

<<背景>>

1936年完成。作品の舞台はアメリカ南部、ミシシッピ州の架空の町であるヨクナパトーファ群ジェファソンである。

物語の現在時は1909年若しくは1910年で、この時点で1838-1869年頃の出来事が登場人物によって語られ、或いは回想される。中心になるのは1861-1865年の南北戦争の時代である。

バルザックの『ゴリオ爺さん』は1835年、ディケンズの『大いなる遺産』は1860-61年発表。ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』は1940年の作品だ。

<<概要>>

全9章構成。各章に題は付されない。

フォークナーを語る上で避けては通れないのが、彼の各作品は彼の大きな物語―ヨクナパトーファサーガと呼ばれる―の一つの断章に過ぎないことである。すなわち、各作品はその架空の舞台や、舞台上の登場人物を共有する。古くはバルザックに見られる「人物再登場」の手法の発展である。

この手法は、文学よりも、ファンタジーやSFと親和的であり、スター・システムシェアード・ワールドといわれるものと同種だ。

 

せっかくだから本作をまだ読まれていない方のために攻略法を少し。

本作は大筋ではトマス・サトペンという男の一代記だ。この男について、今読んでいる章でいつ・どこで・誰が語っているのか、語られているのはいつのことなのかを落とさないようにするのがポイントだ。(私は書き込みをしながら読んだ―いつものことだが。)

また、「南部」というのは外せないキーワードだ。日本人からするとすぐにピンと来るものではないが、ようはざっくり「田舎」だと捉えると非常に合点が行く。その閉鎖性、土地の呪縛、血縁の因習など、私は横溝正史の世界だと思って読んだ。

最後に指摘したいのが、フォークナー自身は南北戦争なぞ知らない世代であるということだ。1936年から見た1864年は、ちょうど2017年から見た1945年だ。つまり、フォークナーは今の我々が思うWWIIと同様、体験しない過去の戦争としての南北戦争を描いている。作品の現在時は1909年だから、2017年から見た1990年に設定したわけだ。バブル崩壊の頃である。2017年に描かれた、バブル崩壊の頃20歳そこそこの若者が見聞きするWWII前後の物語、このように考えればわかりやすい。

<<本の作り>> 

原著者作成の年譜・系譜・地図まで採録されているところは嬉しいところ。

豊富とまでは言えないが脚注や割注もかゆいところに手が届く。文章が難解なのは決して翻訳のせいではないだろう。

しかし、本作の出版からわずか数年で、別の訳者の手による新訳が岩波文庫採録されている。そして悲しいのは、その岩波版の評判がどうやら高そうだということである。

6色ある本全集のカバー色の中で、本作に藤色が宛がわれたのは実に正しい。しかし、帯絵にウィスタリアも、ヴェランダも、葉巻の煙も描かれなかったのは少し残念だ。

 

*1:藤の花だ。

*2:最近の岩波文庫は1行41字だ。

*3:VNについていえば、後記作品はポストモダニズム文学ともいわれるが、いずれにせよ分類なぞ不毛だ

*4:ボヴァリー夫人』のヨンヴィルは間違いなく田舎町だ。