ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『クレールとの夕べ/アレクサンドル・ヴォルフの亡霊』ガイト・ガズダーノフ/望月恒子訳

ふたりでひとつになれちゃうことを

<<感想>>

ガズダーノフって誰?

本書はこの作家の本邦初の翻訳作品であるため、この記事を書くのにこの話題から始めないわけにはいかないだろう。

ガイト・ガズダーノフは、オセット人*1の両親のもと、1903年にペテルブルグに生まれ、ロシア的な教育を受けた。父の死後、現・ウクライナに転居、その後ロシア革命(内戦)の際、白軍に参加し、白軍の敗走とともにフランスに亡命している。

作家デビューはそのフランスにおいてであり、いわゆる亡命作家である。ナボコフとは違い、終生ロシア語で創作を行った。このため、ソ連崩壊まで歴史の波に飲み込まれて忘れかけられていた作家であったようだ。

さぁさぁ、お手並み拝見。一作ずつ読んでいこう。

『クレールとの夕べ』(1930)

『生きろ、ビーフステーキを食え、恋人に口づけしろ、女たちの心変わりを悲しめ、そして幸福でいろ。そして、何のためにこんなことをするのかという問いから、神様がおまえを守ってくださいますように』ってね。でも、あいつは私の言うことを信じなかった。ピストル自殺しちまった。今度はおまえが私に生きる意味を問う。(p.118)

冒頭、語り手はクレールという名の人妻(からかい上手の思わせぶりなお姉さん)*2と10年越しに結ばれる。そして、そのクレールのベッドで繰り広げられる語り手の長い長い回想が本作の物語だ。回想は主人公の幼年時代にまで遡り、客観描写が排され、語り手の当時の印象が、記憶の断片が、意識の流れ的なリズムで書き連ねられて行く。

ってそれプルーストの『失われた時を求めて過去記事】じゃね?

その通り。物語の前半部分はまるでプルーストの焼き直しそのものである。ところが、後半に入ると、語りの形式はそのままに、物語はあらぬ方向へと彷徨していく。語り手が白軍に参加し、舞台は戦地へと移っていくのだ。

ここで、本作読解の手がかりとして、補助線を一本引いてみたい。それは、ダニロ・キシュの『庭、灰』【過去記事】である。同作と本作とは、亡命作家の手によるもの*3、『失われた時を求めて』の強い影響が感じられる作品、歴史的事件を描いているなど、共通点が多い。

ではなぜ、ユダヤ人の虐殺や白軍の敗北を描くのに、貴族とブルジョワのサロンの世界を描いた作品が必要となってくるのだろうか。それはもちろん、彼らがそうした歴史的事件を描くのに際し、プルースト的な文体がもっとも相応しかったからに他ならない。逆にいえば、彼らは歴史的事件を客観的に描きうる立場になかったのだ。『庭、灰』で描かれるポグロムは完全に被害者の立場であるし、語り手≒作者の幼少期の記憶に過ぎない。『クレールとの夕べ』の語り手≒作者は、一応自分の意思で従軍している。しかし、従軍の動機に思想的な裏付けはない。むしろ、大きな歴史のうねりに飲み込まれたいち少年の視点として作品は描かれている。すなわち、文体が一つの歴史認識に対する態度の在り方の表明になっているのだ。

ぼくは戦争とは何なのかを知りたかったのだ。これは、ぼくがいつも経験してきた、新しい未知のものへの志向だった。ぼくが白軍に入ろうと思ったのは、そのとき自分が白軍のテリトリーにいて、そうするのが自然だったからだ。(p.109)

物語はこの戦争を描く後半になっていくと、抜群に面白くなってくる。単に戦争のおかげで物語が動くからではなく、文体にガズダーノフの独自色が増してくるからだ。もちろん、客観的な戦況の推移が語られるわけではない。その代わりにガズダーノフは、使い捨て感覚で次々と登場人物を描き出し、その登場人物の描写、その人物に対する語り手の感覚などを積み重ねていくのである。この部分には、トルストイめいた人生訓的表現も多く登場し、まるでフランスの文体の上でロシア文学が載っているかのような不思議な感覚がしてくる。

当時の自分はあのつつましい幸福をわかっていなかった、あの生活はすばらしくて快いものだったと、彼女たちは思う。ところが、回想の技術をもち合わせていないので、常に全員が同じ言葉で、復活祭の前夜には火をつけた蝋燭を持って歩いたとか、教会の鐘が鳴っていたとか語るのだ。(p.151)

 

アレクサンドル・ヴォルフの亡霊(1947-1948)

「私はいつも思うんですよ、人生は汽車の旅に似たところがあるって—個人という存在が疾走する外の動きの中に閉じ込められて、ゆっくりと進むこととか、見かけの安全性、ずっと続くという幻想とかね。その後で、ある予期せぬ瞬間に—橋が崩壊するとかレールのねじが緩むとか、我々が死と呼んでいる、あのリズムの停止が起こるんです。」(p.296)

デビュー作であった『クレールとの夕べ』からぐっと飛んで17年後の作品。作者の作家としての力量もぐっと上がった感がある。ナボコフアメリカに渡ってから恐らくは意図的にリーダビリティを上げているけども、『クレール』と比較した本作もまさにそんな感じ。若い頃は文学的に好きなことを好きにやったけど、大人になってちょっと妥協して折り合いを付ける心の余裕が生まれました感。

何せ、エピグラフがポーなのである。正確には、物語の冒頭に登場する作中作のエピグラフがポーの『鋸山奇譚』なのである。ほら、この「作中作のエピグラフ」っていうあたりの凝り方がもうなんかこなれ感を醸し出しているでしょう。私は『セバスチャンナイトの真実の生涯』【過去記事】を想起した。

さて、本作は『セバスチャンナイト』よろしく、冒頭で謎の人物として、「アレクサンドル・ヴォルフ」が提示される。語り手は、ロシア内戦に白軍側で参戦した元少年。内戦時に白兵戦で敵兵を銃殺したトラウマに悩む。ところがある日手に取った短編集に、まさに自分が殺したはずの人物が語り手となって、殺されかけた出来事が描写される記述を見つける。その作品の作者こそアレクサンドル・ヴォルフである。物語は、このヴォルフの謎を追いかける話と、語り手がアンニュイで思わせぶりな未亡人と恋に落ちる話が平行して展開される。

このように、本作はポー的なリーダビリティの高いストーリーラインを基盤にしている。そして特筆すべきは、その上にもやはりロシア文学らしいフレーバーが載っているところである。それは死生観や道徳観に関する言及である。特に殺人の経験を持つ元兵士が、常識的な道徳の通用する一般社会で正常に暮らせるのか?といった問題意識が垣間見え、さながらドストエフスキーの小説のようである。

ぼくは自分自身の経験や多くの仲間たちの例から、戦争への参加がほとんどすべての人に回復不能な破壊的作用を及ぼすことを知っていた。・・・基本的な道徳の原則・・・の必要性のついての人間らしい認識はすべて、戦争の後では・・・以前の確信は失われて、たんに理論的なモラルおシステム、すなわちその相対的な正しさや必然性に関して、自分が原則的に賛成せざるを得ないものにすぎなくなっていた。(p.278)

作中では、戦間期フランスにおける消費社会の勃興が巧妙に活写されている。これが先の元兵士の取り残され感を見事に強調する効果を生んでいる。

なお、モルヒネのモチーフや、二重の死のモチーフなど、かなりの点で本作は『鋸山奇譚』を意識している。短い作品なので、併せて参照するのがオススメである。

 

さて、ここまで二作品の概要を紹介してきたが、そこに共通する要素は、①ヨーロッパ文学の伝統の上にロシア文学の伝統が展開される、ハイブリッドな小説になっていること、②ロシア内戦を庶民・一般兵の視点から描いていること、③魅力的なお姉さん(人妻or未亡人)とデキちゃう展開がお上手なことが挙げられる。

ナボコフがあまりに異端で適切なサンプルではないとすると、もし不幸にも東西が分断されていなければ、20世紀のロシア文学はこのように進化していたのだろうか。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 

ソ連崩壊後に発掘(?)された非亡命作家の作品

・20世紀ロシア文学詰め合わせ

 

<<背景>>

1930年発表及び1947-48年発表。

失われた時を求めて』のゴンクール賞受賞が1918年、最終巻刊行が1927年であるから、受容のタイミングとしてはかなり早い。同じくプルーストを意識した作品としては、ナボコフの『賜物』【過去記事】が1938年、本文で取り上げたキシュの『庭、灰』が1965年の作品だ。他方、ポーの『鋸山奇譚』は1844年の作品である。

なお、亡命後、作者ガズダーノフはタクシー運転手などをして生計を立てていたそうだ。フランス、亡命ロシア人、タクシー運転手。それって『ロリータ』【過去記事】に出てくるタクソヴィチ氏じゃん!!当時、亡命ロシア人にとって人気の職業だったようである。

<<概要>>

『クレール』には、部や章の区切りはない。途中、物語のちょうど半分くらいのあたりで、3行アキ+真ん中に縦線*4で区切りが入る。

さらに、その前半部においてもちょうど真ん中あたりで行アキが一度差し挟まれる。切れ目が少ないため、ページ数以上に長い物語に感じる。なお、同作は本文で指摘したとおり、一人称回想体である。なお、プルーストと異なり、語り手の名前は明かされる。ところが、この明かされ方が面白く、愛称形→父称→苗字の順で次第に明らかになるように作られている。また、感想本文からは省いたが、「燃え尽きた石炭の匂い」(p.142)でマドレーヌしたりするのも面白い。

作中年代は、ロシア内戦終結から10年後との言及がある。このため、作中の現在時は1930年と推定される。回想冒頭の年齢が8歳でとされるため、回想冒頭は1912年頃と推定するべきか。

『ヴォルフ』にも、部や章の区切りはない。しかし、文中アスタリスク3つの区切りが度々挟まり、この点をとっても『クレール』より読みやすくなっている。アスタリスク区切りを章と数えると全10章構成となる。各章の分量は大きくブレ、最初の章が結構長い。『クレール』同様一人称小説であるが、時系列は素直に進行する。こちらは作中年代の特定に足る要素が少ないが、1930年代と思われる。

<<本の作り>>

最新の翻訳だけあって、訳文は平易で読みやすい。唯一、「羹に懲りて膾を吹く」との表現にだけ疑問が残った。解説は訳者の手によるもので、作家の生涯に詳しい反面、作品論は少な目。

白水社が新たに刊行を開始した「ロシア語文学のミノタウロスたち」の記念すべき一作目にあたる。当ブログもこれを記念して「ロシア語文学のミノタウロスたち」タグを作った。カヴァーを剥くと、恐らくはミノタウロスからとったであろう角のデザインとキリル文字がとてもカッコ良い。

第二作としてプラトーノフの『幸福なモスクワ』が予定されているようで、こちらも非常に楽しみである。

*1:現・ジョージアとロシアの国境周辺地域であるオセット地方の山岳民族

*2:このクレールの描写がなかなか秀逸である。物語中でもクレールの部屋の中にある物品がライトモチーフとして強調されている。その中に、レダと白鳥の絵がある。特定は困難であるし、水彩という指定からは外れるが、ブラックスワンにも見える、マニエリスム的という指定からは、ミケランジェロのもの【参考リンク】が近いと思われる。ほかの白鳥とレダの絵も検索していただきたいが、若い女性の部屋に飾られるには凡そふさわしくない官能的な主題の絵である。さらに指摘すると、『失われた時を求めて』の中で、語り手がアルベルチーヌをレダとして想起するシーンも思い出される。(岩波文庫版12巻、p247)

*3:ただし、キシュの亡命は『庭、灰』の執筆後

*4:アレ専門的にはなんていうんでしょ?