余りの暑さに目を醒まし
日常で少しよごしを入れて、そして絵の具の上からニスを塗るように、ちょっとした俗悪を表面に塗って—これはなしにすませる訳にはいかないのだし。最後に、哲学めかしたところを二、三加えて、そして—(p.141)
<<感想>>
今回取り上げるのも、プラトーノフ、ガズダーノフ、バーベリに引き続き、20世紀前半のロシアの作家である。
その名もクルジジャノフスキイ。舌を噛みそうな名前だが、キエフ生まれのポーランド貴族だそうだ。1887年生まれなので、先に挙げた3名よりおおよそ一回り年上。ロシア革命の頃には既にバリバリの働き盛りだった世代だ。
ロシア文学は昔(19世紀)から面白かったけど、今もとても面白い。
よく、日本には明治維新の頃、シェイクスピアもセルバンテスもトルストイも一斉に入って来たなんて言われる。ロシア文学が今面白いのは、この事態の輸出版が起きているからだ。長いソビエト時代が終わり、ソビエト時代に抑圧されていた作品が解放されると同時に、ペレストロイカ後の新しい文学が次々と生まれる。そうした作品群が国外でも翻訳・受容され、流通の波になる。こうした経緯で、21世紀に入ってから新旧一体となって次々と面白いロシア文学が読めるようになっている。
で、今回取り上げるクルジジャノフスキイ、これがまたすごく面白かった。
この作品、副題に「クルジジャノフスキイ作品集」と付いており、表題作である「瞳孔の中」を含む5つの短中編が採録されている。主としてモスクワを舞台とした、幻想的な物語である。
ちょっと待った!この「幻想的」という言葉、あまり使いたくない。これ、「非現実的な何かが登場します」という程度で、およそ何の説明にもなっていない。ポーもカフカもボルヘスも「幻想的」っていうんじゃあまりに酷い。
例えばポーよりはだいぶ現代的でスタイリッシュ。カフカほどは重い雰囲気があるわけえはないが、星新一というのでは軽すぎる。そこはかとなく哲学臭が漂ってくるところと、インテリ臭い表現からは、安部公房に似ているが、公房ほど長い作品ではない。
カント、スピノザ、パスカルなどからの引用が見られることと、どうも音楽一家だったらしく、音楽用語の表現が多いのが特徴的だ。
このあと、ストゥリンをとうとう眠りからたたきだしたものすごいフォルティッシシモが続いたのだった。(p.12)*1
全体としては、「インテリのためのおとぎ話」と言った風合いだ。ただ、この表現の力点は後段にある。従って、本質的には巧みなストーリーテリングがこの作家の核心なのだと思う。
・クヴァドラトゥリン
20頁ほどの小編。クルジジャノフスキイの「クヴァドラトゥリン」ってもう謎の早口言葉みたいになっている。「クヴァドラトゥリン」のリンは、薬剤とか化学物質を示す接尾辞。で、カタカナルビによると「クヴァドラート」で「平方」といった意味のようだから、ようは「平方剤」といった程度の意味の薬剤にまつわるお話。
部屋の狭さに悩んでいた男が、ある日、部屋を拡張するというフレコミの「クヴァドラトゥリン」を渡されて・・・。ノリは完全に「笑ゥせぇるすまん」である。
実はこの作品、出版社の公式noteで無料公開されていて、下記で読むことができる。
・しおり
60頁超の長めの短編。
昔馴染みの「しおり」を見つけた語り手が、そのしおりに相応しい本を探すが、見つからない。語り手は夕方の散歩に出かけてるが、そこで「テーマ捕り」の男と邂逅する。「テーマ捕り」は、その場で目にするあらゆるもの、ビルのでっぱりや、飛んできた鉋くずを直ちにテーマ化して、即興の語りを始める・・・
というような、箱物語的、あるいはメタフィクショナルな作品。ポイントは、そのテーマ捕りが語り出す一つ一つの小話がまぁ面白い。恐らくはテーマ捕りは作者本人の投影なのだろうが、この人、ほんと世が世なら漫画や映画等、ポップカルチャーの優れた担い手になりえたのだろう。
・瞳孔の中
瞳孔の小人とは短篇には悪くないテーマで、ここで、今、時間のあるときに考えてみたっていいだろう、とりあえず大筋だけでも。(p.93)
男はあるとき、恋人の瞳の中に小人を見つける。その小人は、小さな自分自身だ。
あーこれわかった、なんか哲学的でムツカシイやつ!と思いきや全然違った。少し読み進めると、なんとビックリ、視点人物がその小人に移る。そして、実はこれ、ストーリーとしては男女の恋愛に主眼があるお話に遷移していく。これおもしろいわー。
「しおり」と「瞳孔の中」、いずれ甲乙つけがたい。
・支線
「恐れいりますが、夢を拝見」(p.146)
5作の中で少しだけ毛色の違う作品。
鉄道に乗っていた男が、夢の世界へと迷い込む『不思議の国のアリス』調の物語。そのせいか、他の4作よりも幻想度が強いのが一つ目の特徴。
また、他の4作が会話や語りの比重が強いのに対して、この作品は描写の比重が強いのが二つ目の特徴。
訳者解説でカフカやポーと並んでナボコフの名前にも言及されていた。ナボコフに言及されている他のほとんどの作品と同様、「うそやん!」と思ったが、この作品の地の文はほんのりナボコフがかおる。
枝を黒いはりつけ台のように広げ、光から身を隠している松林の猫背の輪郭が、夜に倒れこんでいく。(p.145)
こういう無生物を主語にした凝った比喩、ナボコフっぽくありません?
・嚙めない肘
これもまた面白い。「肘は近いが嚙めない」というのは、不可能なことを示すロシア語の定型句だそう。ほら、これを読んでいる方も試しに・・・、できないよね?
で、この作品の主役は、肘を嚙むことを人生の目標に据える男。男はひょんなことから有名となり、サーカス団に招請され、だんだん話が大きくなってきて・・・という物語。
遠景にほんのり社会風刺も効いている、この作家らしい良作。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆(オススメしやすい良作!)
・同じキエフ出身者の作品
・こちらはオデッサ出身作家の同時期の作品
<<背景>>
1926-1928作、ただし、作品がおおやけにされるのはペレストロイカ期の1989年を待たなくてはならなかったそうだ。
作者の生前に作品が公刊されることはなく、作者は作家というより、演劇、舞台芸術、映画などの分野で活躍していたそうだ。
世界史的には第一次五か年計画の頃、つまり、レーニンが死に、ネップが終わり、スターリンが権力を掌握した時期の作品といえる。
文学史的にいえば、『巨匠とマルガリータ』【過去記事】や『チェヴェングール』【過去記事】より少し早く、バーベリの短編群【過去記事】と概ね同時期といえる。この時期の作品はいずれも後年になって発表されたものが多いが、生きるに難しい混沌とした時代が如何に優れた文学を生み出す豊かな土壌になったかと思わされる。
なお、生年の近いカフカ(1883-1924)との関係も気になるところだが、訳者解説によると、作家のカフカ受容は1930年代のことであり、20年代の作品はカフカの影響はなく書かれているようだ。
<<本のつくり>>
共訳であり、「しおり」「瞳孔の中」「嚙めない肘」を上田氏が、残りを秋草氏が担当している。上田氏は博士論文でクルジジャノフスキイを取り上げているそうで、クルジジャノフスキイの専門家だ。対して、秋草氏は他にもクルジジャノフスキイの『未来の回想』を翻訳されている。
訳者解説は上田氏による。さすが博論で取り上げられただけあって、作家論・作品論ともの詳細かつボリューミーで、とても参考になる。ただ、読解の内容は高度で、こう、なんというか、もっとストレートに面白いぞー!というアピールも出してもらわないと、解説だけでは晦渋な作品に思えてしまいそうなきらいがある。
ところで、密かな注目は訳者解説のさらにあとにある、秋草氏の「訳者紹介」欄だ。
〇〇大学終了、~が専門。現在、無職。
出版当時事実だったものと思われるが*2、歯に衣着せないというか、正面突破をしていくスタイル。このたった五文字に単著のスタイルが滲み出ていて、シビれます。
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