今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ
「・・・小僧、いいか。世界にはずっと誰にも知られないままのことだってあるんだ。人の目が見たものが絶対とは限らない。」(p.19)
<<感想>>
珍しく引用、それも長いものからはじめてみたい。
一か月後の同じ日に、わたしは彼と初めて寝た。終わったあと急に、あったかい布にくるまれた赤ちゃんになったような気がして、うっかり眠ってしまいそうだった。でも、今日初めてして、いきなり自分だけの世界に閉じこもるのも勝手すぎる。わたしは半分眠ったまま、ぐずぐずと脚を動かして、彼のちょっと贅肉がつき始めたおなかに触れた。それからカラスはひとり浴室に行った。すると今度は眠気からすっかり覚めて、ぽつんとしたお墓の前で、降り始めの雨のなか立っているような感覚だけが残った。(p.72)
さて、これを書いた作家とは?
呉明益。・・・お見事!
それは当然である。だが、私のようにここで他の作家の名前を思い浮かべた方はいなかっただろうか?
私が思い浮かべたその作家の名前は、この引用箇所の1行前に明示的に書かれている。
彼が近づいてきて、わたしに話しかけた。ぼくの名前はカラス。ニカノール・パラの詩と村上春樹の小説が好きなんだ。(p.71)
少なくとも日本語で読む限り、私にはまるで村上春樹のパスティーシュをしているかのように読めた。
そしてこれを読んだ瞬間、ここまでの3篇を読み進めて感じていた違和感に全て合点が行く思いだった。
さて、これまでも当ブログで何度か表明してきたとおり、私は村上春樹が苦手*1である。アンチと言っても良い。
ただ、私の中の村上春樹には、カフカも居なければ騎士団長も居ない。私が彼の作品を読んでいたのは、彼の言葉がウィスキーになってしまい、なんとなくもう普通の長編小説は書かないのではないかと思われていた頃だ。
最初に読んだのは『ねじまき鳥クロニクル』だっただろうか?これが気に入らず、文学部ではアンチ村上派*2で売っていた。
「いやいや、『ねじまき~』で決めつけてはいけないよ、彼の代表作は『〇〇〇』なんだから。」
「な、なんだってー!」
以下、この繰り返しで、当時人気の高かった作品*3は一通り読み、そしていつしか私に彼の作品を勧める人がいなくなって以降、もう20年近く彼の作品は読んでいない。従って、私の中の村上作品は、遥か記憶の彼方の薄もやに包まれた印象としてしか残っていない。
このため、残念ながら今回は村上春樹作品と呉明益作品を比較して論じることはできない。ただ、どことなく本作に感じた拒絶感が、昔のそのトラウマを刺激したとだけ記しておきたい。
1.あらすじ
前回のアレクサンドル・ヘモン【過去記事】に引き続き、本作も連作短篇集である。しかし、ヘモンとは異なり、長編風ではなく王道的な連作短篇の形式になっている。
物語の舞台は台北市の中心部にかつて実在した「中華商場」。背が低く細長い、長屋状の三階建て建物8棟からなる大規模な商店街だ。タイトルになっている「歩道橋」とは、このうちの二棟を結ぶ歩道橋であり、往時はその歩道橋上にも物売りがひしめいていたという。
この商場と歩道橋、そして歩道橋でマジックを披露していた「魔術師」の思い出を巡る九篇の物語が展開される。
2.ノスタルジー
この九篇の物語は、全て別の語り手が、大人時代から子供時代(=商場時代)を回想する形式で綴られている。特段、プロット的な仕掛けが凝らされているわけでも、文体的な技巧が凝らされているわけでもないから、そこに描かれている情動が妙味の作品と言って良いのだろう。
その情動とは、主にノスタルジー、あるいは三丁目の夕日的なヤツである。この「三丁目の夕日的」という日本語の凄いところは、由来になった映画を見ていない私が使って、見ていないあなたに伝わるところである。そしてこの表現には、単にノスタルジーという意味だけではなく、「受け手のノスタルジーを刺激する典型的要素」とか、「体験してもいない事柄を懐かしく思う疑似的ノスタルジー」と言った批判的色彩が忍び込まされている。
当然、1962年から1991年にかけて台北市に存在していた中華商場に対して、私が直接的なノスタルジーを感じることはあり得ない。ところが、文章の端々に、読み手に対してノスタルジーを入れ込んでくる。
あのころまだ工事中だった河岸道路を走った。入り口にあった「進入禁止」の看板を見て見ぬふりをすれば、台北市内まで一〇分早くつける。排気ガスが充満した大通りから路地に入り、工事現場を過ぎて、ニセモノのように真っ平で、真っさらなアスファルト道路に出た。(p.75)
ふたりが映画を見終わるのを待った。苔だらけのドブから漂ってくる臭いが、まるで自分の心の底から湧いているように思えた。(p.103)
私としては、こうした共感は読み手の側が能動的に感じとるものでありたいと思っている。ここまで狙いが透けていると、まるで邦画によくある観客の感動を強制するような作品のように見えてくる。
3.性と死と
こうしたノスタルジーに重きを置く作品と思わせながら、意外にも本作には性と死とが横溢している。ただ、そこもどうにも私の趣味に合わない。
性描写はそれこそかつての村上春樹のようにあけすけである。そして、それが描写されている必然性あるいは必要性が見えてこない。もちろん、そこに普通に存在するものとして、神聖視も特別視も蔑視もせずに描写する、という考え方はありうるだろう。しかし、それにしては描写量の豊富さに説明が付かない。
死についても同様である。あまりに安っぽく乱発されると、古いアスキーアートを思い出してしまう。
_人人 人人_
>突然の死 <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄
極め付きは、同級生の女子の初潮の場面の描写である。スカートを汚したその子に、自分の上着を貸して腰に巻かせ・・・。ノスタルジー、性、死のテーマには持ってこいなのだろうが、ここに至っては、あざとさを通り越して俗悪ささえ感じる。
4.最後に
ついついここまで、どこが苦手*4かについてを中心に書いてしまったが、美点もある。
本作は、連作短篇集であるが、既に書いたとおり、語り手の位置に据えられる人物は毎回異なるし、私が読んだ限り、魔術師を除いて他の短篇に登場した人物が再登場することはない。しかし、それにもかかわらず、ある短篇に、別の短篇の登場人物の息吹を感じるのだ。
それはひとえに、物語の舞台という意味での世界観の構築が見事であることに尽きる。もちろん、この「商場」自体はかつて実在していたわけであるが、実在した舞台を描くことと、物語世界におけるその舞台の輪郭を際立たせることとでは、意味は全く異なる。
全ての短篇に登場する魔術師は、回想をする語り手の記憶の中では、まるで本当に魔術か使えるかのように描写される。この「魔術」を、マジックリアリズム風に作品世界内での真実と捉えることも、語り手たちの記憶に基づく主観的世界の記述と捉えることも可能であろう。
恐らく、本来的にはこの小説は、人物やその情動に注目すべきではなく、切り取られ、再現された揺らぎの中にある空間を楽しむ、鉄道模型のような小説なのではなかろうか。
お気に入り度:☆
人に勧める度:☆
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<<背景>>
2011年発表。作家は1971年生まれで、本作の舞台となった商場は1962年から1991年まで存在していたという。
日本統治が終了し、中華民国政府が成立したのが1949年、日台断交は作家の生まれた翌年、1972年のことであった。
なお、本作の発表までに公刊されていた村上春樹の小説は『1Q84』までである。
<<概要>>
全9篇と繰り返し書いたが、正確には全10篇である。ただ、この10篇目にあたる小品は、作家自身の手によるあとがきのように読める本作成立史に触れた物語である。
本体部分の9篇は、いずれも語り手が異なる。これも正確には、一人称の短篇もあれば、三人称の短篇もある。この一人称と三人称との間の揺らぎの読み味は独特である。
なお、どちらの人称の語りでも、突然二人称が使われる箇所がある。これは、もちろん語り手が作中人物に語り掛けているように読める一方で、読者に対して語り掛けているかのような効果を生んでいる。
語り手はいずれも元・商場の子どもであり、それぞれ、靴屋、餃子屋、鍵屋、時計職人、鞄屋、ワンタンメン屋、切手屋、洋服屋、筆屋の子どもである。
<<本のつくり>>
別に坊主憎けりゃ袈裟まで憎いわけではないが、訳文についても少し申したい。
全体として平易で読みやすく、こなれた日本語となっている。注も割注方式で読みやすい。
ただ、同化翻訳に針が振れている部分が多く、好みではない。毎度恒例で恐縮だが、次の箇所。
そもそも彼は毎晩、お隣さんと一杯やりながら将棋を指し、閉店前にはもう酔っぱらっていた。(p.102)
ここで指されているのは象棋(シャンチー)だろう。ここだけならまだ同化翻訳の一例として許容しうるが、いただけないのは同時に次の訳文が存在しているからだ。
・・・手が空いたときはぼくと兄を呼び、三人で中国将棋(象棋)をした。(p.88)
合理性のない表記揺れであるとしか思えない。
またもう一カ所、「のび太」という表現が登場する箇所がある。この箇所の原文は何なのだろうか?
一つ考えられるのは、現地で有名なアニメがあって、その登場人物を「のび太」で置き換えたというケースだ。これはこれで、やり過ぎの同化翻訳であり、いただけない。
あるいは、少なくとも現代では「ドラえもん」は台湾でも人気作であるため、原文そのまま「のび太」である可能性もあるだろう。ただ、そうであるならば、台湾を舞台にしたノスタルジックな作品の作中に突然「のび太」が登場してきたときに感じる、日本人読者の違和感を等閑視している。このケースなのであれば、割注でその旨を補って欲しかった。私としては、原語話者の体験をこそ翻訳して欲しいと思う。
本作は広く読者を獲得したようであり、2015年に発売されたエクス・リブリス版で6刷を重ねた上に、2021年に河出文庫版が発売されたようである(エクリブ版はステルス絶版)。
この著者の邦訳紹介は本作が最初であり、その陰には訳者の天野氏の尽力があった旨があとがきからもわかる。私としては、マイナーな言語・地域の作品を訳出する人が居て、そういう人の独力があって邦訳作品が読めること自体については大変喜ばしく思っている。
なお、天野氏はその後も『自転車泥棒』など、呉明益作品の紹介を続けてきたが、天野氏自ら本命視していた『複眼人』の訳出を待たずして、47歳の若さで早逝されてしまったそうだ。