Take Me Home, Country Roads
外では、
時として銃声。
時として祈り。
時として静寂。(p.119-120)
<<感想>>
入院の経験はおありだろうか?
ベットから動くことができず、さりとてすることもなく、リノリウムの廊下に響く看護師の足音だけが妙に際立って聴こえてくる。
あるいは、小学生の時分、発熱で学校を休んだことは?
同級生の子どもらが下校していく喧騒。あるいは、リビングから聞こえる相撲中継の実況音。
研ぎ澄まされるのは聴覚だけではない。見慣れたカーテンの模様は何か不思議な生き物のように見え、天井の石膏ボードの目地はまるであみだくじのようだ。
本作は、まるで病人のように移動の自由を制限された語り手による、研ぎ澄まされた聴覚、そして視覚の記録である。
そこに見えるのはまるで死んだように意識を失っている男。
そして、明らかに語り掛けられているのにも関わらず、決して人に聴かれてはならない、女の秘密の告白である。
物語の舞台は、イスラム圏のどこか、恐らくはアフガニスタンであろう国だ。
家の外では、コーランの読誦と銃声、そして時には砲撃の音が飛び交っている。
家の中には、昏睡状態となっている男。どうやら傷痍軍人らしい。そして、その男の看病を続ける妻。
女は少しずつ、少しずつその生活に耐えられなくなっていき、そしてその昏睡状態の夫に対し、少しずつ、少しずつ呪詛の言葉を吐きつつ、過去の秘密を明らかにしていく。
本作の原題は「サンゲ・サブール」。直訳すると「忍耐の石」。ペルシアの神話では、この石に悲しみや苦悩を打ち明けると、石がそれらを吸い取り、やがて打ち砕けたときに、話者は悲しみや苦悩から解放されるという。
「知ってるかしら、その石を自分の前において、その前で、自分に起きた不幸とか、苦しみとか、つらさとか、悲惨なこととかを話すの。その石に、心にしまっていたこと、他の人に言えないことをすべて告白するの・・・」(p.81)
女は、昏睡状態の夫をこの「サンゲ・サブール」に見立てているのだ。
短い小説でもあるので、あらすじの説明はこのくらいにして、以下では何故この偉大な傑作がかくも優れているのかを、少し考えてみたい。
1.視点の固定
冒頭紹介したとおり、本作では三人称の語り手の視点が移動せず、常に固定されている。物語の舞台は常に夫妻の住む家の、それも男が寝かされている部屋で、そこから動くことは一切ない。女が出かけてしまえば、一人残された男と、その周囲で起こったことが描写されることになるのである。
まるで読み手が人口的な金縛りにあったかのような塩梅だ。これが、演劇を鑑賞しているような独特な作品空間を創出している。読み味としては、ベケットやロブ=グリエに近いものを感じる。
そして中盤以降、物語の力点が女の秘密の暴露に移ってくると、この作劇手法と設定とが相まって独特の効果を生んでくる。ムスリムの物語の喩えには相応しくないかもしれないが、まるで告解を聴く司祭にでもなったかのように・・・
発話されている時点で、内的独白とは明らかに違う。語り掛けられている点で、演劇的な独白ともやはり異なる。それでいて、話されている内容は、明らかに他人に聴かれることを想定していない話なのだ。
2.聴覚と視覚
こうした舞台設定のため、否が応でも読者の視覚と聴覚、特に聴覚が鋭敏になる。
いや、聴覚が鋭敏になったかのように読者に錯覚させるように、丁寧に丁寧に音の描写が重ねられていく。
コーランと銃。あまりにもステレオタイプなこの国に対する見方だが、恐らくはこれが真実なのだろう。ただ、ここでコーランが「読誦すべきもの」という原義を持つことを思い出さなくてはならない。
銃撃の止んだ日。ムッラー(イスラム聖職者)の説教が、水売りの呼び声が、遊ぶ子どもらの声が、戦禍の苦しみに発狂する老婆の呻きが聞こえてくる。
描写が室内に制約され、聴覚に力点を置いた描き方は、プルーストの「囚われの女」【過去記事】を彷彿とさせるが、本作の試みはそれ以上だ。
視覚描写の用いられ方も面白い。時折部屋へとやってくる、蜘蛛や蝿などの闖入者たち。この些細な登場人物達の細かい描写が、かえって女が不在の部屋の静寂を際立たせる。
この音の世界と、静かな視覚の世界のスイッチングが見事である。
3.静と動
このスイッチングが、読み味にまた一つ別の効果を付加している。
それは物語の緩急、静と動との切り替えである。これは、女の出入りによって生じる各場面の転換点でもそうだし、物語全体としても、静かに始まり、そして怒涛の展開へと至る構成を支えている。
同様に、この緩急を際立たせているのは、繰り返しの多い特徴的な文体だ。
本作では、繰り返しがかなり多い。女の過ごす代わり映えのしない看病生活を象徴するように、繰り返し点滴のバッグが取り替えられ、繰り返し女は男に目薬を点眼する。
点滴バッグに点滴液を注ぎ足し、男の側、いつもの場所に座って目薬の残りを注す。一滴。女は待つ。二滴。そこで止める。目薬はもうない。女は部屋を出る。(p.44)
また、研ぎ澄まされた文体も特徴として挙げるべきだろう。装飾性は排され、少ない語彙で淡々と描出される世界が、作品全体が持つ緊迫感を支えている。
4.性的タブー
短い作品のため、あまり女性が吐露する「秘密」の中身には触れてこなかったが、作品全体のテーマにも関わるため、少しだけこの話をしてみたい。
イスラム世界、女性、告白と来て想像がつく通り、本作では女性の抑圧が主たるテーマとなっている。
ところで、イスラム世界の規範はなぜかくも過剰に性的な要素に敏感なのだろうか?
いや、この問いはもしかすると愚問かもしれない。なぜなら、この問いかけはまさに我々の側の国において、性的対象化を問題視する人々に対して、それを笑う人たちが投げかける言葉と同じだからだ。
社会における性規範と、自身の性的道徳感情との相克。
これは恐らく、バランスしているポイントが異なるだけで、我々が人間として生きている以上、凡そ様々な社会で人々が直面する問題なのだろう。
物語の核心に触れるのを避けるため敢えて抽象的に書くが、この問いに本作が与えた解決は心強い。
一つには、女性が単なる被抑圧者としてだけでなく、規範とぶつかって自律的に行動する主体として描かれていることだ。これは、『カッサンドラ』【過去記事】で描かれていたような、性的自己決定権の奪還という主題にも近しい。
もう一つは、性規範が時として引き起こす軋轢が、女性に対してだけでなく、男性に対しても負の影響を及ぼすことを描いている点だ。もっとわかりやすく言おう。本作で描かれているのは、女性と同じくらい、男性も不幸になっている(イスラム世界の)様相である。
「ああ、サンゲ・サブール、女であるのがつらいとき、男であるのも同じようにつらくなるのよ」(p.146)
かように、本作は、特色のある小説的技巧を用いて、イスラム世界という非日常的な舞台の上に、普遍的なテーマを簡潔明瞭に描ききった傑作である。
お気に入り度:☆☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆(性描写強め、フランス文学臭強め)
・こちらも強め性規範に直面する、アイルランドのお話
・隣国イランでの女性解放運動
<<背景>>
2008年発表。同年、ゴンクール賞を受賞した。
著者は1962年生まれ。ゴンクール賞を受賞しているからにはフランス語作品であり、著者は1984年にフランスに亡命をしたという。本作は著者はじめてのフランス語作品だったそうだ。
本作を読んでから聞くとなるほど納得であるが、著者はヌーヴェル・ヴァーグの映画に相当な影響を受けたようで、小説以外にも映画監督として活躍しているそうだ。
他には、マルグリット・デュラス【過去記事】からの影響を認めている。
<<概要>>
文体といい、設定といい、ひとめでわかるほどのゴリゴリのフランス文学。著者のバイオグラフィーと、明らかにアフガニスタンを思わせる舞台設定がなければ、まるでフランス人が書いたもののようだ。
感想でも触れたとおり、作品は三人称で展開するが、視点が動くことがない。
節や章などの区別は一切ないが、改行は多く、特に物語中では行アキが多用される。この行アキが、時間経過を示すと同時に、独特のリズムを形作っている。
<<本のつくり>>
まずはこの素晴らしいタイトルを賞賛しなければいけない。
カタカナ語の『サンゲ・サブール』でもなく、直訳の『忍耐の石』でもない。作中の重要な要素である「聴くこと」を盛り込みつつ、詩的美しく、意味も写し取られている。
こんな完璧な題名の付け方があるだろうか。
なるほど訳者氏は詩人でもあるそうで、簡潔明瞭で澄んだワードセンスが、本作の緊迫とした雰囲気に合致している。
ですます調で書かれた訳者解説も、作品解説と著者のバイオグラフィーが過不足無く書かれており、満足な内容だった。