ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-05『クーデタ』ジョン・アップダイク/池澤夏樹訳

Imagine there's no countries

おまえはエクソンによって抹消され、ガルフに巻き込まれ、アメリカによって押しつぶされ、フランスによって公民権を剥奪される。(p.264)

“You will be Xed out by Exxon,engulfed by Gulf,crushed by the U.S.,disenfranchised by France”(強調は引用者)

<<感想>>

アップダイクは初めてだった。

私の印象では、しばらく前に少し流行った作家、といったイメージだった。古くて一過性で少ししかウケなかったようにも聞こえて三重に失礼なようだが、代表作とされる『走れウサギ』もHSJMで、いま普通に手に入る邦訳作品が本作だけとなると、そう的外れでもないだろう。

こないだの左派ドゥングスロマンに引き続いて苦手なアメリカ文学で、少し身構えながらの読書だった。しかし期待はよい方向へ裏切られた。

 

はっきりとしたプロットのない作品が続いたからだろうか、本作では、素直に話の展開に興味をもって読み進めることができた。

この物語は、架空のアフリカの国「クシュ」を舞台にしたある種の政治劇だ。主人公ハキム・フェリクス・アル=ビニあるいはエレルー大統領は、このイスラム社会主義国家の独裁者である。タイトルにあるとおり、物語はクーデタに向かって収束していく。それを彩るのが、主人公の四人の妻(と一人の愛人)、そして二度の国内視察の旅路である。

第一夫人はエレルーと同部族出身で、伝統に従って結婚した年上の妻。

第二夫人は、エレルーのアメリカ留学時代の恋人で、白人の妻。

第三夫人は、アフリカ人であるが、部族の首長の娘であり、アメリカ留学経験がある。

第四夫人は、部族社会から切り離された「クシュ人」である若い妻。

この四人の妻との繋がり、あるいは距離感が、その鏡像としてのエレルーのアイデンティティを規定していく。

こうして書くと、『ハワーズエンド』【過去記事】のように、寓意的な記号に満ちた小説と思われるかもしれない。しかし、本作はあとがきで池澤氏も指摘するとおり、全体が細部を統制して出来ているような作品ではない。むしろ、気の利いた細部、書きたいシーン、撮りたいカットを、小説家としての腕力で一つの全体にまとめ上げたような作品だ。

従って、この作品の本当の魅力は、優れたその細部にある。

この著者の文体的な特質は3つくらい指摘できそうだ。

まず、比喩が多層的に用いられる息の長い描写が随所に用いられる。

少し長いが次の引用のような具合だ。

無数のしわがきざまれて、剛い白髪にかこまれた、色でいえば乾したいちじくのようなくすんだ黒色の王の顔や、微妙にバランスをとって軸受けに取り付けられているのように限りなくうなずき続ける頭、華奢な箱を足で踏みつぶす音にも似た陽気で貪欲な雌鶏めいた笑い声、めったやたらに宝石で飾られ労働によって厚味を増すということがほとんどなくて二次元的に見える王の手と、舞いあがる埃のように希望とは無縁の、陽気さと悲しさの風の中でひらひらと軽く動くその手の動き、などを思い出す。(p.14、強調は引用者)

彼の才能がもっと魅力的に輝くのは、短くて小気味のいい気の利いた文章を創造するときだ。

ラクと呼ばれる地域の広さはほぼフランスに匹敵し、アルザス=ロレーヌを永久にドイツに譲って、そのかわりに同じ条約でベルギーを併合すれば、ぴったり同じ広さになる。(p.150)

親愛なるジブズ夫人、父なき息子たちの母よ、スーパーマーケットの無限の通路の踏破者にして、ミルクとガソリンのガルガンチュア的消費者よ、わたしはあなたの顔にズームアップしよう。(p.244)

なお、冒頭で引用したように、言葉遊びも嫌いなほうではないらしい。

そして最後に重要なのが、語の持つイメージの想起力を操っている点だ。

架空の国クシュでは、もう5年も旱魃が続いている。

一番グロテスクな事実は、静かな怒りをたたえた雄弁家のように、太陽が毎日これらの光景を論難し、しかも彼は自分の言っていることが前日の演説の内容と一字一句違わないことには気づいていないということだ。(p.36)

このため、上記の引用部分のように、太陽、熱、暑さ、渇き、枯死などの言葉・イメージが頻出する。ところが、これに敢えてぶつけるように、回想の中で、あるいは空想の中で、喉を潤すイメージの単語が頻出するのである。オレンジ、ソーダ・ファウンテン、7-up、カンパリソーダ・・・。読者の欲望の刺激とその充足とを繰り返すような、面白い仕掛けである。

 

ちなみに、こうした細部を統合するために、筆者は影で魔法を使っている。例えば、独裁者であるはずの主人公は穏健で慈悲のある殺人しか行わない。また、たった二人の護衛しか連れずに敵地に乗り込んだりする。あるいは、井戸掘り人夫の愛人は、わずか一年足らずで凄腕の外交官となる。

プロット的な細部に目を凝らすと、悪く言えばご都合主義が潜んでおり、よく言えば小さなマジックリアリズムを多用している。

 

ところで、この物語は舞台こそアフリカであるが、そのテーマはアメリである。

オン・ザ・ロード』【過去記事】といい、『アメリカの鳥』【過去記事】といい、アメリカ人はアメリカ以外に書くことはないのかと思うが、やっぱりテーマはアメリカだ。

とはいえ、『アメリカの鳥』に比べれば、そのやり方はだいぶ新しい。なぜなら、冒頭でも紹介したとおり、アフリカ人・イスラム教徒・黒人・独裁者を主人公に据え、その物語の鏡像としてアメリカを映し出しているからだ。

しかし、『アメリカの鳥』のときにも書いたように、その新しさが失われていないがゆえに、そうしたやり方のヤバさが際立って見えるように思う。もし、この作品の執筆が今日であったのなら、アメリカ人・キリスト教徒・白人が、さも自分のことのように彼を表現したことが問題視され、その資格を厳しく問われるはずだ。

もちろん、かくいう私にもアップダイクにその資格を問う資格はない。しかし、彼の第二夫人に対する描写と第四夫人に対するそれとでは、解像度が明らかに違うことは容易に見て取れる。自国民に対する批判的な視点が大きく相殺しているとはいえ、第一夫人に対する眼差しに侮蔑が含まれてはいないだろうか。コーラの実を口に突っ込まれ、殆ど白痴同然に描写されている第四夫人は、悪しきステレオタイプに陥っていないだろうか。

何も私は文学にポリコレを求めたいわけではない。ただ、法廷モノの作品で行われる裁判手続きがリーガルでなければならないのと同程度には、選定したテーマに責任を持ってほしいというだけだ。

叶うならば私は、アフリカ人・イスラム教徒・黒人の描く『クーデタ』を読んでみたい。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆

 

<<背景>>

1978年発表。作中年代は1973-74年である。

いわゆる「アフリカの年」は1960年。作中国家のクシュは、1968年に社会主義革命によって誕生したとされる。

アメリカの鳥』が1971年発表だから、本作そのたった7年後にかかれた作品だ。テト攻勢が1968年だから、作中年代にほぼ差はないが、『クーデタ』の方が随分新しく感じる。

なお全くの余談だが、作者は我らがウラジーミルの大ファンでも知られる。この前年、VNが亡くなったときに寄せた追悼文は名文との評判である。また、かの『文学講義』の前文もアップダイクが書いている。何より羨ましいのは、彼の妻は実際に「文学講義」を受講した一人であったという。

 

<<概要>>

全7部構成。部の下に章はなく、題もない。

場面転換の区切りとして、行アキが多用されている。

主人公がアメリカで過ごした経験を持っているため、アメリカ時代の回想シーンが何度となく差しはさまれる。

乾燥地帯とアメリカとが交互に差し挟まれる4部、5部はテーマ的にもプロット的にもヤマ場である。

本作は、作中人物のエレルー自身が三人称視点で物語を書いた、という体裁をとっている。このため、ご都合に応じて三人称と一人称を行き来して、良いとこどりをしている。ところどころ、エレルーには観察できなかったはずの場面に描写が及ぶが、そこは作者の魔法ということにして大目に見るのがよさそうだ。

なお、作中国家クシュは、地域的にはスーダンに近く、フランスを旧宗主国とする点ではチャドに近く、国旗のデザインはリビアそのものである。クシュの前身は、1956年に誕生した立憲君主制国家ノワールであり、フランスの傀儡国家だったという設定だ。

多くの日本人がそうだと思うが、アフリカの地理に馴染みが薄いと、実在の地名なのか架空の地名なのかの区別がつかない。作中に出てくるイッピ地溝帯は恐らく架空だと思うが、現実のグレートリフトバレーが参照されているのだろう。

 

<<本のつくり>>

一つ目。

我々は誰の将棋の駒でもない。(p.95)

アフリカに将棋があったのだろうか?確認はしていないが、恐らく原文ではチェスなど、チャトランガ系列のゲーム名が記載されていたのだろう。そうであるなら、カタカナ転写で訳出して、注を付すことも出来たはずだ。

二つ目。そもそも、ほとんど訳注がない。文化的に考えても、訳注の必要性がないほど平易とも言いにくく、不親切という他ない。

三つ目。息の長い描写が頻出するが、どうも訳出のリズムが肌に合わない。そもそも、1981年に訳されたのを、せっかくの新しい試みの全集にそのまま採録するとはどういうことか。

池澤氏にはもう少し頑張って欲しかった。