ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤全集を完走後、ゆっくり白水社エクス・リブリスの全巻読書をやってます。

040『神秘列車』甘耀明/白水紀子訳

見えない自由がほしくて

ただ一つの願いは、柩のそばに付き添って通夜をするときに、・・・みんなに来てもらって、たっぷり物語を話してほしいのさ。知っている話でもかまわないからね。そのあとは、火葬して、すっきり焼いておくれ。死とはこんなもの、重要なのはいかに時代を生き抜くかということ、そして物語はその唯一の足跡。人が生きたところには、必ず物語があるものだよ。(p.84-85)

<<感想>>

台湾の作家、甘耀明の手による短篇集である。

ただこの「短篇集」という言い方がなかなか厄介なので、最初にそのあたりの事情を説明しておいた方がよさそうだ。

この作品集には、6つの「短篇(?)」が収録されている。

最初の二つは、日本語版と同名の短篇集「神秘列車」を出典とする2作品だ。しかし、その作品集からの収録はこれでおしまい。つまり、日本語版作品集は現地版と異なるオリジナル編集ということになる。

続く三つは、連作短篇集「葬儀でのお話」から採られている。連作色の強い作品のため、他の短篇とはだいぶ趣がことなる。

最後の一つは、なんと長編「アミ族の娘」からの抜粋である。抜粋部分は短篇としても読むことも出来るが、これを短篇と言い切るのにはためらいがある。

このように、本作品集はそれぞれの作品の出自も毛色も大きく異なるキメラ的な作品集なのである。

ところで、台湾人作家というと、過去にも呉明益【過去記事】を取り上げたことがある。本作も彼の作品集と同様、ノスタルジックなテイストが混じるが、彼ほどは真顔でノスタルジーをやってないという印象だ。

さて、以下ではひとまずそれぞれを短篇として捉えた上で、個々に感想を付したい。なおいつも通り、気に入ったものには+印を付している。

+「神秘列車」

表題作に相応しい良作。前述のとおり、本国版の短篇集でも表題作だったようだ。

少年がこっそりと家を抜け出し、自転車で夜の町を疾走していく。その目的とは、鉄道に乗ること。ただ乗るだけではない。昔、祖父が実際に乗ったことがあるという、幻の「神秘列車」を探しに行く旅に出るのだ。

私に鉄道趣味はないが、旅情にあふれ、ディティールに凝った鉄道描写にはそそられる向きも多いのではないだろうか。

物語は大筋でファミリーヒストリーであるが、次第に大文字のヒストリー、即ち台湾の辿った歴史と交錯していく。家族を描きつつも、その背景に波乱の二十世紀史を書き込む筆致は、まるで東欧の作家のようだ。

そういえば、キシュ【過去記事】の作品でも、鉄道(時刻表)がモチーフの一つになっていた。

 

「伯公、妾を娶る」

先ほどとは打って変わってややコメディタッチの一作。

伯公とは、民間信仰を集める土着神のこと。この伯公を神として捉える町長と、世俗的な観光資源として捉えたい劉大福との対立劇だ。物語は三人称であるが、あくまで町長視点で進むため、どこか幻想的な雰囲気が漂い、本当にその伯公が実在かのように読めてしまうのが面白い。

ただ、地域文化に根差した描写に割かれる割合が多く、ストーリーとしても凡庸で、私の好みには合わなかった。

 

+「素麺婆ちゃんの映画館」

ここからの三作が、連作短篇集「葬儀でのお話」からの採録

「葬儀でのお話」は、『千夜一夜』の昔からみんなが大好き枠物語の形式だ。最初の「素麺婆ちゃんの映画館」は『千夜一夜』でいえばシェヘラザードがシャフリヤール王のもとへと来る、枠物語の枠の部分にあたる。

素麺婆ちゃんの「素麺」とは、客家語で(話が)くどいことを意味するそうだ。これは、素麺をすする際のズルズルズル・・・という音から来ているらしい。つまりはこの素麺婆ちゃん、相当の話好き、物語好きの変り者だという。

その素麺婆ちゃんの願いは、自身の葬儀が物語で満たされること。以降の各話は、素麵婆ちゃんの弔問客が語った、素麵婆ちゃんとその周辺の物語ということになる。

千夜一夜』、『デカメロン』、『カンタベリー物語』、あるいは『チェゲムのサンドロおじさん』【過去記事】など、ほんとこの手の話にはハズレがない。

代表してこの作品に+を付したが、3つまとめて+印というのが近いかもしれない。

 

「微笑む牛」

最初の「物語」は素麺婆ちゃんの長男から。

彼らの一家には農耕用の牛がおらず、農作業に苦労していた。そこで、一家は貯蓄に励み、虎の子の財産を抱えて、父が遠く市場まで牛を買いに行く。物語の必然として、当然ここでの買い物は成功しない。次々と失敗を重ねた挙句、情にほだされ、少年から年老いた雌牛を買ってしまうのだ。

連れて帰った雌牛は、当然農耕の役には立たず、父は笑いものにされる。

しかし、その牛が・・・

いやもう、絶対だれもがどこで読んだことあるパターンの展開なんだけど、こういうのが良いんだよねぇ。

 

「洗面器に素麺を盛る」

続いては、婆ちゃんの孫が語る、婆ちゃん夫妻の物語。

タイトルの素麺は婆ちゃんのこととして、洗面器は夫のことだ。夫は、洗面器でビーフンを作る婆ちゃんを見て恋に落ちる。その後、洗面器は夫の持ち物となるが、夫はその洗面器を背負っては酒を飲み歩く大酒飲みになってしまった。

この種の物語につきものの結婚譚、馴れ初め話といって良いだろう。展開としてはまぁベタな部類だが、やっぱこういう話はなんぼあっても良い。

 

「鹿を殺す」

様々な屋台が出る橋の周辺。そこに熊の毛皮の大男がやってきて、山で捉えた野生動物を売っている。野生動物は、食用の他、毛皮や漢方の原料など、様々な用途に用いられる。

そのそばで麺をすすっていたゴアッハと樵のパッシルは、子を宿した雌鹿に同情をしてしまう。熊男との間で価格交渉になるが、もちろんゴアッハに金のあてなどない。

ここからが作者の腕の見せ所。パッシルのホラ話で群衆の注意を惹きつけたまでは良かったが、物語はここで急にマジック・リアリズム的な解決へと旋回してしまう。

素麺婆ちゃんとの違いは、同じ大風呂敷でも、作中の語り手が広げればそれは楽しいホラ話だが、客観描写で下手にこれをやってしまうと、やや興ざめである。

ガルシア=マルケス過去記事】になるか、イサベル・アジェンデ過去記事】に堕してしまうか。マジック・リアリズムは取り扱い注意だ。

 

お気に入り度:☆☆(本のつくりがやや難)

人に勧める度:☆☆

 

・同郷の作家の作品

 

・異郷だけれど雰囲気が似る

 

<<背景>>

2003年、2011年、2015年の各作品より抜粋されている。

作者は1972年生まれ、前出の呉明益となんと1歳差である。

本書からは日本統治時代の残滓も香るが、日本統治は1895年~1945年のおよそ50年間のことであった。そして作者の生まれた1972年、日台は断交している。

感想で言及したキシュやアジェンデは戦前戦中の生まれである。

 

<<本のつくり>>

訳者氏はまるで白水で書くためにつけたペンネームおような御尊名だが、はくすい氏ではなく、しろうず氏とお読みするようだ。

冒頭で触れた本作のキメラ的構成だが、ちょっといただけない。恐らく、本邦初訳であり、お披露目な意味を込めていいとこどりをする必要があったのだろうが、総花的な構成になってしまった感は否めない。

私の趣味としては、「葬儀でのお話」の全訳か、せめて「神秘列車」の全訳でお願いしたかったと思う。

さらに輪をかけて、翻訳が好みではない。

私は基本的に、異化翻訳こそが正義だと常々思っていたが、物事には程度があると思い知らされた。狙いとしては、原語の持つニュアンスを残したかったのだろう、独特の翻訳が散見、いや、頻出する。

それは、漢語表記+和語orカタカナ語ルビという表記の仕方である。

例えば、巫女という単語に「シャーマン」というルビが振られている(p.122)。これなどは、台湾文学なのに「シャーマン」というカタカナ表記が来る違和感を払拭するためだろう。従って、このタイプで用いられる場合については納得感がある。

他方で、「●●子(●は日本語にない漢字)」(p.127)に「ややこ」というひらがなルビが振られる事例はどうだろう。日本語として一般的でない漢字が使われているため、読み手にとってはもはや漢字の表意性が失われてしまっている。このため、文中に突然キリル文字アラビア文字が登場したのと同等の違和感を覚える。こうした部分では、漢字表記を飛ばしてルビ部分から意味を取らざるを得ず、実に読みにくい。

なお、若干ネタっぽくなるが、いちばん驚いたのは次の箇所である。

祖母の頭は本当に魔法の「箪笥タンス」(洋服だんす)で、・・・(p.77,丸括弧内は訳注)

えーと、「箪笥」は多くの日本人が読めるし、少なくとも意味は知ってますよ(・・?