ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-01②『サルガッソーの広い海』ジーン・リース/小沢瑞穂訳

名前をつけてやる

「あれは白いゴキブリの歌。私のことよ。彼らがアフリカで身内から奴隷商人に売られてやってくる前からここにいた白人のことを、彼らはそう呼ぶの。イギリスの女たちも私たちのことを白い黒んぼって呼ぶんですってね。だから、あなたといると、私はだれで、私の国はどこで、私はどこに属しているのか、いったいなぜ生まれてきたのかいつも考えてしまうわ。(p.355)

<<感想>>

本作『サルガッソーの広い海』は、ブロンテの『ジェイン・エア』【過去記事】を、ジェインの婚約者であるロチェスター卿の"狂人と化した前妻"バーサの視点から読み替えた作品である。

こうした「読み替え」という手法には他にも例があり、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の中でも、『フライデーあるいは太平洋の冥界』は、『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】の読み替えを行っている。

 

本作が書かれたのは、『ジェイン・エア』の約120年後である。

本作を読み始めてまず感じるのは、この120年の間で起こった、文学手法の進歩もしくは変容である。

 

まず、『ジェイン・エア』が一人称回想体という(ある種安易な)視点で語られるのに対し、『サルガッソーの広い海』は、現在進行形の一人称視点で語られる。

 

また、『ジェイン・エア』は、王道ラブロマンスの物語であり、人物造形は常に一貫する。ジェインは、「意志の強い高潔な女性」の役柄を演じ切り、善良なフェアファクス夫人に裏表はない。悪役を振られるジェインの育て親や義兄弟たちには、いわば当然の報いとして、暗い運命が授けられる。しかし、ジーン・リースの世界では、ことはそう単純ではない。白人か黒人か、善か悪か、こうした二項対立では掬いきれない物語がそこにある。

 

最後に、手法というよりむしろ社会的制約という色彩が強いが、性愛というテーマが前景化している。

伝統的なラブロマンスでは、結婚こそ唯一にして最大のゴールでありフィナーレである。従って、性愛の問題が取り上げられることはなく、遥か後景にロチェスターの過去が見切れる程度である。

他方、20世紀の小説では、結婚は物語の一因子の一つに過ぎず、性愛の問題も正面から取り上げられる。

 

反面、この3つの変化の代償として、20世紀の文学は「読みやすさ」を失った。

そこで以下では、この3つのポイントに着目しつつ、本作を読解したい。

 

続きを読む

『ジェイン・エア』シャーロット・ブロンテ/河島弘美訳

残酷なブロンテのテーゼ

ジョージアナ、あなたみたいに虚栄心が強くて愚かな生き物が、この地上に存在するなんて許されないわね。生まれてくるべきじゃなかったのよ。人生を無駄にしているんですもの。」(下巻、p.39)

 <<感想>>

ジェイン・エア』は、多くの文学マニア・文学好きの「読まず嫌いリスト」に入っている。

それは、この作品が、①恋愛をテーマにした、②かつての被虐者が後に幸福を獲得するという意味のでシンデレラストーリーであり、③ロマン主義的傾向のある、④広く一般ウケする作品で(もしくはそうした先入観が)あるからだ。

これでは到底、文学オタク諸兄のスノビズムをくすぐることはできない。

だって、ヒースクリフがどうこう、ロチェスター様がどうこう言っているより、ウルフでも読んで、モダニズムどうこう、ブルームズベリー・グループどうこう言うほうが、なんかカッコイイでしょう?

 

冒頭から断言調で入ったが、とりわけスノッブな哲学科の同級生で、彼女らの作品を読んでいた友人はいなかったように思う。はたまた、知的な書評で知られるあのサイトやこのブログだって、『ジェイン・エア』をスルーしているところは多いでしょう? 

 

かくいう私も、これまで本書を手に取ろうとしたことはなく、ジーン・リースを読んでやろうというきっかけでもない限り、おそらく一生読む機会はなかっただろう。

 

ジェイン・エア(上) (岩波文庫)
 
続きを読む

『失われた時を求めて』第3篇「ゲルマントのほう」マルセル・プルースト/吉川一義訳

君は、刻の涙を見る

われわれは自分の人生を十全に活用することがなく、夏のたそがれや冬の早く訪れる夜のなかにいくばくかの安らぎや楽しみを含むかに見えたそんな時間を、未完のまま放置している。だがそんな時間は、完全に失われたわけではない。あらたな楽しい瞬間がそれなりの調べを奏でるとき、その瞬間も同じくか細い筋をひいて消えてゆくのだが、以前の時間はこのあらたな瞬間のもとに駆けつけ、オーケストラの奏でる豊饒な音楽の基礎、堅固な支えとなってくれるのだ。かくして失われた時は、たまにしか見出されなくとも存在しつづけている典型的な幸福のなかに伸び広がっている。 (第7巻、p.126)

<<感想>> 

本作『失われた時を求めて』については、どうすればこの大作を攻略することができるのか、という視点でこれまで記事を書いてきた。

今回の第3篇でも、書きたいことが多すぎて到底書ききれない感想は極力控えめにして、読みのポイントを紹介してみたい。

 

立教大学の坂本教授はセミナー【過去記事】の中で、第3篇「ゲルマントのほう」を「ゲルマントの壁」と称していた。

他方、コレージュ・ド・フランスのアントワーヌ・コンパニョン教授は、『プルーストと過ごす夏』の中で、次のようなエピソードを披露している。即ち、第1篇「スワン家のほうへ」では、買った人の半分が挫折をする。 第2篇「花咲く乙女たちのかげに」進んだ人も、その半分が挫折するが、第3篇「ゲルマントのほう」に辿り着いた人は、もう挫折しない、と(同書p.17)。

この相反する二つの評価には、それぞれ一面の真実があるように思う。

確かに、「ゲルマントのほう」では、いよいよプルーストの本領が発揮され、本作のメインテーマともいいうる「時」の主題が押し出される。従って、ここまでプルーストに付いて来た忠実な読者にとっては、いよいよ見どころがやってきたという気持ちがわいてくる。

しかし、「ゲルマントのほう」は、当否はさておいても冗長であることは間違いない。1篇に充てられた分量としては、全7篇のうちもっとも多い。その反面、先に挙げた『プルーストと過ごす夏』においても、「ゲルマントのほう」からの引用は、全7篇のうちでもっとも少ないように思える。

さながら、休憩所の少ない登山道のようなものだ。そこで以下では、長い道のりを過たず踏破できるよう、全体の地図をきっちり俯瞰した後、「ゲルマント山」に見られる絶景ポイントの幾つかをご紹介したい。

 

続きを読む

『ディフェンス』ウラジーミル・ナボコフ/若島正訳

ヘッセじゃないほうのクヌルプ

「唯一の出口だよ」と彼は言った。「ぼくはゲームを放棄する」(p.260)

<<感想>>

かまいたちの夜」というテレビゲームをご存知だろうか。

もとは確かスーパーファミコンのソフトとして発売されたのだと思う。

ゲームなど知らんという方のために説明すると、「かまいたちの夜」は、ミステリー小説をゲーム化したもの、いや、スーパーファミコンという機械で読むミステリー小説だったのだ。

次々と文章が画面に表示されていくのだが、テレビゲームだけあって、BGMや背景画像がある。そして、普通の小説との決定的な差異は選択肢が表示されることである。これもご存知の方は限られるかもしれないが、いわゆるゲームブックに似ている。プレイヤー(読者)が選択肢の中から主人公の行動や推理を選び取ることにより、物語は幾筋ものストーリーへと分岐をしていくのである。

ミステリー小説というくらいなのだから、当然殺人事件が起こり、犯人がいる。しかし、大抵のプレイヤーは、初回プレイ時(初読時)には、選択を誤り、犯人の凶行は止まず、ただただ呆然としているうちに、哀れ主人公は恋人もろとも無残にも犯人に殺されてゲームオーバーとなる。

かまいたちの夜」が面白いのはここからである。当然このゲームは再読されることを前提にしている。プレイヤー(読者)は再プレイ時(再読時)に、誤った選択肢を適切な選択肢に選び替え、少しずつ物語の真相に迫っていくのである。

 

前置きが長くなったが、ナボコフの読書は、この「かまいたちの夜」に似ている。もちろんナボコフの小説は王道ミステリではないし、作中に選択肢は登場しない。しかし、初読時に完全に置いて行かれること、再読時に初読時の記憶が活きること、これにより少しずつ真相に迫っていくという作業の快楽が、「かまいたちの夜」にそっくりなのである*1

 

本作『ディフェンス』も、初読時には全く歯が立たなかった。

この歯が立たなさの原因はおそらく二つある。

一つ目は、ミクロ的な部分。ナボコフの小説の多くに共通するところだが、初読時には意味が取りづらくなるように意図されて書かれている文章が多い。これは、特に各章の冒頭に散見される。

二つ目は、マクロ的な部分。何が書きたかったのか、何を目的として書かれたのか、どのように受け止めれば良いのか、これが全くわからない。『モンテ・クリスト伯』であれば、大掴みとしては「復讐譚」と要約すれば間違ではないだろう。『アンナ・カレーニナ』であれば、「不倫を軸としてさまざまな人間模様を描く」、と要約すれば及第点には達しそうだ。ところが、『ディフェンス』では、チェス小説?ツルゲーネフへのオマージュ?恋愛小説?などと、次々と疑わしい犯人に矛先を向けているうちに、物語はあらぬ方向へと彷徨し、あたかも読者が作者に殺されるが如く、読解に苦しむ幕切れで終わる。

以下では、この二つのわからなさについて、もう一歩踏み込んで考察してみたい。

 

ディフェンス

ディフェンス

 

 

*1:わかりやすいかと思って「かまいたちの夜」で例えたが、ようは死に覚えのゲームならなんにでも似ている。わかる人は、Nethackでも、La-mulanaでも、お好きな死に覚えゲームを思い浮かべて下さい。

続きを読む