ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ/木村浩訳

一物四価

アンナはショールを取り、帽子を脱ごうとしたが、そのひょうしに、カールしている黒髪の一束に帽子をひっかけ、頭を振って、髪を放した。(上巻、p.141)*1

<<感想>>

この記事を書いている現在、当ブログでは20世紀の作品ばかりを紹介している。

そのため、ロシア文学のカテゴリをクリックしても、そこには『罪と罰』もなければ、『外套』もない。

これではせっかくこんなインターネットの辺境の地を訪ねてくれたお客様に失礼だ。

そこで、これから少しずつ、過去に読んだ傑作群の感想も書き綴っていきたいと思う。

その第一弾として取り上げたいのは、『アンナ・カレーニナ』だ。

 

さて、当ブログでは敢えて、紹介している各作品の優れている点を捉えて、「プロット」「思想」「文体」の3つのカテゴリに分類している。

分類の趣旨については、過去の記事で触れた。そして、本作『アンナ・カレーニナ』をどのカテゴリに放り込むかは、そのとき以来からの宿題となっていた。

 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

 

*1:過去何人かの映画監督と、何万人かの読者に忘れ去られているが、アンナは、黒髪で、巻き毛だ。

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1-12①『アルトゥーロの島』エルサ・モランテ/中山エツコ訳

Oh Freud nicht diese töne!

少なくとも、その当時夢に彼女があらわれたことはぼくの記憶にない。

そのころぼくは、『千夜一夜物語』のような夢を見ていた。空を飛ぶ夢!何千もの硬貨を群衆に投げる気前のよい紳士になった夢!(p.251)

<<感想>>

今回は他の作品の引用から。

いつもと同じように、言っておきたい、いつもと同じように、ウィーンの代表団は招待されていないと。((『キング、クイーン、ジャック』「英語版への序文」より、新潮社版p.429))

いっそのことこの引用だけで今回の感想は終わりにしようかとも思った。

 

ナボコフのいう「ウィーンの代表団」とは、もちろんフロイト(派)のことを指す。

毛嫌いしていたのは、作品を精神分析的に批評する行為なり、作家を精神分析する行為ゆえだろう。

これは、私が本作との関係で「招待していない」と思うのとは少し違う。

 

私が言いたいのは、フロイトの作った物語・神話のヴァリエーションを読まされるのはもういい加減ウンザリ、飽き飽きだということだ。

 

昔、心理学の授業で習ったところによると、フロイトの業績に関しては、心理学の世界の内部でも、功罪の「罪」の部分にスポットが当てられることもあるようだ*1

しかし、私に言わせれば、フロイトが殺したのは父親ではなく、後の物語解釈の独創性と物語創作の独創性であり、それ故に罪を負うべきだ。

 

今日、"フロイト"という単語を出さずに、ソポクレスを批評することが果たして可能だろうか。「フロイトをいったん忘れて読みましょう」という言及も含めて考えれば、これは実に不可能に近い*2

 

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)

 

*1:『抑圧された記憶の神話』という書籍が課題図書だった。この本に対する反批判もあるようだが、これは私の関心とは異なる。

*2:たとえば、有名な千夜千冊は、まさにこの形式でフロイトに言及している。参照先リンク

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『キング、クイーン、ジャック』ウラジーミル・ナボコフ/諫早勇一訳

探し物は何ですか 

だから実際には、あの朝フランツはホテルのベッドで本当は目を覚まさずに、新しい夢の層に移っただけだったのかもしれない。(p.178)

<<感想>> 

もし、ナボコフという作家に興味を持って、読んでみようかな、と思っている方がこの記事をご覧になっているのであれば、今日の記事はそんな気持ちを萎えさせること請け合いだ。

 

ナボコフを読むのは本当に苦労をさせられる。

よく引用されるように、ナボコフ自身、「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ」*1と主張して、読者に再読を要求している。

 

本作も、初読のときはまるでひたすら相手のサーブが返せないテニスをしているような気持ちになった。だが、ただ黙ってベースラインに立っていたわけではない。初読の読書は、再読に備え、相手の球筋をじっくりと見極めるときだ。

初読のときに気になったナボコフの球筋を挙げると、ざっと次のとおりだ。

 

まずはボヴァリー夫人アンナ・カレーニナだ。

主人公の一人、二十歳の若者フランツは、母の従兄である経営者ドライヤーを頼って上京する。ドライヤーの年下の妻、三十四歳になるマルタは、愛に飢え、やがてフランツと不倫関係になり、ドライヤーの殺害を画策する。

こんなプロットの本作からは、当然この二作品が想起される。

 

お次は、「鍵」のイメージだ。

13章構成の本作において、「鍵」という単語がやたらと登場する。それも、特定の鍵ではなく、さまざまな場面でさまざまな「鍵」が、物理的な対象として、あるいは比喩として登場する。

ナボコフで「鍵」といえば、センチメンタル・ジャーニーあたりがヒントだろうか・・・。

 

当然、「トランプ」のイメージも忘れられない。

表題からして『キング、クイーン、ジャック』だし、本文中にもトランプの比喩は数回登場する。ロシア文学でトランプといえば、当然スペードの女王を読み返さなくてはなるまい。

 

スペードの女王だけでなく、『青銅の騎士』もお招きしよう。

ドライヤーとマルタの家のライティングデスクの上には、ちゃっかりとそのものずばり青銅の騎士の像が置かれている(本作には二回登場する。)

 

商品や衣類が擬人化されて動きだしているかのように描写されるシーンは、『鼻』『外套』からの着想だろうか?このあたりもチェックが必要だ。

 

この他にも、本作品には頻出するライトモチーフが色々とある。首と胴体が切り離されるイメージ、タバコ・葉巻・その煙、時計、霧(とくにマルタに帰せられる)などがそうだ。

 

さて、ここまで確認して、さぁ再読!というわけにはまだいかない。

ボヴァリー夫人アンナ・カレーニナスペードの女王の気になった箇所を読み返すのが先だ。ついでに、『文学講義』の中のフロベール論、トルストイ論も読む。これを読みながら、手元に無かったセンチメンタル・ジャーニーの注文もしなければならない。残念ながらHSJMだったので、大枚はたいてマケプレで購入だ。

『青銅の騎士』も読み直して、準備完了。

 

ここからが本当の読書のはじまりだ。

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ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

 

*1:『文学講義 上』河出文庫版、p.57

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『文学とは何か――現代批評理論への招待』テリー・イーグルトン/大橋洋一訳

人類に逃げ場なし

知識は「価値自由」でなければならぬという主張も、それ自体、ひとつの価値判断である。(上巻、p.54)

<<感想>>

『文学とは何か』という表題に騙されていはいけない。

本作は、文学批評というジャンルの入門書か、あるいは教科書的な作品だ。

いや、いや、こんな真面目な文体でこの作品は論ずるのは辞めにしよう。

本作は極めてズルい。ズルい点は山ほどあるが、最とも卑怯なのは、「批評行為」をテーマにしている以上、読者の本作に対するあらゆる批評・批判も既にその手法が作品の中で徹底的な批判に晒されている点だ。

この手の卑怯な循環的議論の大師匠であるところのニーチェ先生も言っていた。

怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。(『善悪の彼岸』146節、岩波文庫版p.120)

まさしく言いえて妙だ。

 

よし、それならば奴等の土俵に立つのは辞めよう!奴等を批判の矢から防いでいる胸壁は我々自身の持つ、批判に耳を傾ける内省的知性に他ならない。

そんなものは直ちに打ち捨てて、独断に微睡む奴等の頬にモンゴル式のかち上げを食らわそう!

そう、これが書かれ、書き言葉になったその瞬間、これは奴等の手を離れ、我々読み手の掌中に陥ちた。今こそそのテクストを好き放題犯してやろう!

奴等マルキストはまるでハルキストの如く、その聳え立つ意識の上で特権を振りかざしている。今日こそメタメタ言っている奴等の更にメタに立って、奴等に批判の砲火を浴びせよう。あなたがたも既にイデオロギーに拘束されている?そんなことを言われたら、「知ったことか!」の一撃を見舞おう!これぞプラトン先生直伝の無知の痴、或いは無恥の知だ!

正々堂々エクリチュールと戯れよう。

 

さて、奴等の罪を数えよう。ひとつひとつ想い出せば何よりズルかったはずだ。

まず、教科書的な作風に擬態しつつも、その実のところ自身の批評的立場の宣明に他ならない*1。そのため、さまざまな批評的な立場のそれぞれの主張や特質の紹介を期待する純朴な読者の期待を裏切る。読後に残るのは、それぞれの批評的な立場に対する、特定の思想的立場から張られた同一のレッテルばかりだ。

次に作者が周到なのは、特定の思想的な立場に立っているということを正直に告白してから本文に入る点だ。特定の思想的な立場に立ちたいのであれば、正々堂々とそれを隠してプロパガンダに徹すればよろしい。それなのに敢えて宣言するのは、プロパガンダ批判に対する論点先取か、あるいは学問的誠実性に包まれたブルジョワ的な道徳観以外の何物でもない。

 

そんな奴等の倫理観よりは、需要に応えた実用的な教科書こそ良い教科書だという資本主義の倫理の方がよほど信頼できる。

そう、我々は奴等にオルグされたかったわけではない!あるいは、文学の置かれた政治状況を知りたかったわけでもない!作者の批評よりも作者がクソミソに扱うエリオットの批評の方がまだしも我々を楽しませてくれる!

奴等のペンもインクも、奴等の書籍の流通もすべては資本主義の産物だ。読者=購買者こそ、資本主義社会における権力者だ。さあ今こそ資本主義の名において、奴等の書籍にノーを突き付けよう!!

 

お気に入り度:☆☆

人に勧める度:☆☆☆(読前読後に類書の服用を)

*1:もしかすると本作は、一周回って「文学」そのものなのかもしれない。本書が赤帯に分類されているのは、筆者の問いかけに自覚的なのか?はたまた何も考えていないのか?

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