ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

1-11『鉄の時代』J・M・クッツェー/くぼたのぞみ訳

死せるトルストイ、生けるクッツェー

わたしに共感して読んではだめよ。あなたの心臓とわたしの心臓といっしょに拍動させないで。(p.125)

<<感想>>

久々にキツい読書だった。

本作『鉄の時代』の主人公である老女カレンの置かれた状況はキツい。

舞台はアパルトヘイト末期の南アフリカ。年々国民の平均寿命が短くなるような社会状況にある。カレンは医師からガンの再発を告げられ、残された生命の記録を遺書として綴っている。名宛人は遠い異国の地アメリカへと嫁いで行った娘。その遺書自体が本書という体裁だ。

ページを繰るごとに死へと近づいていく。入院を拒むカレンは、路上で行き倒れ、失禁をし、口に木の棒を突っ込まれて金歯を漁られる。

決して気分が良くなる読書体験ではない。

 

本作以外にも、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集には、20世紀に起こった災禍を背景にしている作品が多い。これまで取り上げてきた中でも、『存在の耐えられない軽さ』プラハの春)然り、『戦争の悲しみ』ベトナム戦争)然り、『巨匠とマルガリータ』ソビエト独裁)然りだ。

しかし、文学作品はルポルタージュとは異なる。単にアパルトヘイトの苦しみが描かれているだけでは文学たりえない。ガンの苦しみが書かれているだけでは単なる闘病記だ。

 

本作の作者クッツェーもこのあたりに自覚的だ。そもそも、アパルトヘイト自体は背景に過ぎず、アパルトヘイトという単語自体本作には登場しない。さらには、本記事の冒頭に引用したとおり、主人公=作者に感情移入するような読み方は明確に拒絶されている。

この点に関連して、物語冒頭にあらわれる次の箇所は注目に値する。

その日はベッドですごした。力なく、食欲もなく。トルストイを読んだ―知りつくしている有名なガンの話ではなく靴屋のところに居を定める天使の物語のほうだ。(p.18、強調は引用者による)

 

ここで取り上げられている「有名なガンの話」とは、『イワン・イリイチの死』のことだ。他方、「靴屋のところに居を定める天使の物語」とは、『人はなんで生きるか』のことだ。

イワン・イリイチの死』を乱暴に要約するならば、一人の高級官吏が病に侵され、死と向かいあっていく過程の心理的葛藤を描いた作品だ。

一方の『人はなんで生きるか』は、晩年のトルストイが民話に取材した物語だ。人間界に堕とされた天使ミハイルが靴屋に拾われ、1.人間の中にあるものは何か、2.人間に与えられていないものは何か、3.人間はなんで生きるか*1の3つを学ぶ作品だ。

 

先の引用箇所で示されるているのは、死にゆくカレンの闘病記を書きたいのではなく、まさに「人はなんで生きるか」を示したい、というメッセージではないだろうか。 

 

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

 

*1:ここにいう「なんで」は、理由ではなく「何によって」を意味する。

続きを読む

『白夜』フョードル・ドストエフスキー/小沼文彦訳

私の頭の中の空想家

「ああ!ほんとにあなたはすばらしいお友達ですわ!」としばらくしてから、ひどくまじめな調子で彼女は言いだした。「あたしのために神様がお送りくだすったんだわ!ねえ、もしもあなたがいらっしゃらなかったら、いったいあたしはどうなったでしょうねえ?なんてあなたは公平無私な方なんでしょう!なんてご立派な愛し方なんでしょう!あたしがお嫁にいったら、あたしたちはみんなとても仲のいいお友達になりましょうね、血をわけた兄妹以上の。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じように愛しつづけますわ・・・・・・」(p.78)

<<感想>>

プロフィールに露文党とまで名乗りながら、いまだ当ブログで彼の作品を取り上げていない。その理由は簡単で、彼の作品を読んだからこそ露文党になったわけで、それはブログを始めるほどの文学オタクになる遥か以前のことだからだ。

今回、久しぶりに彼の作品を読み返す気になったのは、『マーシェンカ』の解説で、この『白夜』について触れられていたからだ*1

今回は小品に相応しく、感想も手短にまとめたい。

 

白夜 (角川文庫クラシックス)

白夜 (角川文庫クラシックス)

 

*1:読み返して気づいたが、本作にも「マーシェンカ」が登場する。名前だけであるが、ヒロインのナースチェンカの友人という設定だ。ただし、「マーシェンカ」はマリアの愛称系で、ありふれた名前であろうから、意図的な引用かどうかは判然としない。

続きを読む

『マーシェンカ』ウラジーミル・ナボコフ/奈倉有里訳

けりをつける

アルフョーロフは座ったままもぞもぞと体を動かし、二回ほどため息をつくと、小さく甘い音色で口笛を吹き始めた。やめたかと思うと、また吹く。そうして十分ほどが経ったとき、ふいに頭上でカシャリと音がした。(p.14)

<<感想>>

ナボコフはやっぱりナボコフだった。デビュー作品の中にあっても。

彼の作品に一般的な意味での「ネタバレ注意」の注意喚起は必要ない。その本質が「ネタ」にあるわけではないからだ。この特徴は本作品『マーシェンカ』にもあてはまる。

だから今回は(も)、結末部まで含んだプロットの要約から入ろう。

 

ベルリンのとある宿舎に、亡命ロシア人が集まって暮らしている。ある日、その一人ガーニンの隣に、アルフョーロフが引っ越してくる。実は、アルフョーロフはガーニンがかつて故国ロシアで別れた初恋の女性、マーシェンカの夫だったのだ。ガーニンは、マーシェンカの思い出に浸り、マーシェンカが宿舎に到着する土曜日に、彼女を奪い去ろうとまで計画する。ところが、いざ到着の時刻が近づくとガーニンはこれを取りやめ、列車に乗って去っていくのだった。

 

このように、物語は極めて単純だ。しかし、ナボコフの小説は全巻これ宝探しであって、宝物はイメージや小説的技巧であり、隠し場所はテクストである。

今回は(も)、私が見つけた宝物のいくつかをご紹介したい。

 

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

ナボコフ・コレクション マーシェンカ/キング、クイーン、ジャック

 
続きを読む

1-10②『名誉の戦場』ジャン・ルオー/北代美和子訳

人に歴史あり 

獲物を罠にかけたおばちゃんは、そう簡単には放してくれない。あのなんとか沿いの、どこそこ村の、かんとか夫人よ。だれそれさんの奥さんで、何某のお嬢さん―けれども、解説は非常に遠いところから(少なくとも三世代前から。誕生、結婚、職業上の地位、死因を含む)出発し、家系図は非常に複雑に枝分かれするので、レミは、それが結局は百歳にならんかというひいおばあちゃんのことだと知るまでに、いらいらと三十分は辛抱しなければならない。

<<感想>>

文学賞の意義を否定したい訳ではないが、書き手/売り手にとっての文学賞と、読み手/書い手にとっての文学賞では、その価値が全く異なる。

書き手/売り手にとって文学賞は権威か名誉か、はたまたいい宣伝文句にはなろうが、1年を1期、あるいは精々が所4年を1期として、その国あるいは言語地域、広くても目に映る限りでの世界のナンバーワンを決めるに過ぎない。

ところが、読み手の内奥で随時開催中の文学賞は、いまこの瞬間世界のどこかで呟かれた文章から、果ては28世紀前に遡り、翻訳という魔術の媒介を経て*1、いかなる言語地域の作品もノミネート可能だ。

野球やサッカーの世界歴代ベストメンバーは好事家の脳内でしか実現不可能だが、文学の世界では、作者が死してなお眼前で容易に比較できてしまう。

 

本作も、文学史の偉人達の前ではちょっと力不足かもしれない。しかし、ゴンクール賞(仏)受賞という華々しい肩書は伊達ではない(残念ながら、ベストセラーという好ましからざる肩書も持っているが)。

 

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

 

*1:訳者のみなさんにマジ感謝(ラップ調で)

続きを読む