死せるトルストイ、生けるクッツェーを
わたしに共感して読んではだめよ。あなたの心臓とわたしの心臓といっしょに拍動させないで。(p.125)
<<感想>>
久々にキツい読書だった。
本作『鉄の時代』の主人公である老女カレンの置かれた状況はキツい。
舞台はアパルトヘイト末期の南アフリカ。年々国民の平均寿命が短くなるような社会状況にある。カレンは医師からガンの再発を告げられ、残された生命の記録を遺書として綴っている。名宛人は遠い異国の地アメリカへと嫁いで行った娘。その遺書自体が本書という体裁だ。
ページを繰るごとに死へと近づいていく。入院を拒むカレンは、路上で行き倒れ、失禁をし、口に木の棒を突っ込まれて金歯を漁られる。
決して気分が良くなる読書体験ではない。
本作以外にも、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集には、20世紀に起こった災禍を背景にしている作品が多い。これまで取り上げてきた中でも、『存在の耐えられない軽さ』(プラハの春)然り、『戦争の悲しみ』(ベトナム戦争)然り、『巨匠とマルガリータ』(ソビエト独裁)然りだ。
しかし、文学作品はルポルタージュとは異なる。単にアパルトヘイトの苦しみが描かれているだけでは文学たりえない。ガンの苦しみが書かれているだけでは単なる闘病記だ。
本作の作者クッツェーもこのあたりに自覚的だ。そもそも、アパルトヘイト自体は背景に過ぎず、アパルトヘイトという単語自体本作には登場しない。さらには、本記事の冒頭に引用したとおり、主人公=作者に感情移入するような読み方は明確に拒絶されている。
この点に関連して、物語冒頭にあらわれる次の箇所は注目に値する。
その日はベッドですごした。力なく、食欲もなく。トルストイを読んだ―知りつくしている有名なガンの話ではなく、靴屋のところに居を定める天使の物語のほうだ。(p.18、強調は引用者による)
ここで取り上げられている「有名なガンの話」とは、『イワン・イリイチの死』のことだ。他方、「靴屋のところに居を定める天使の物語」とは、『人はなんで生きるか』のことだ。
『イワン・イリイチの死』を乱暴に要約するならば、一人の高級官吏が病に侵され、死と向かいあっていく過程の心理的葛藤を描いた作品だ。
一方の『人はなんで生きるか』は、晩年のトルストイが民話に取材した物語だ。人間界に堕とされた天使ミハイルが靴屋に拾われ、1.人間の中にあるものは何か、2.人間に与えられていないものは何か、3.人間はなんで生きるか*1の3つを学ぶ作品だ。
先の引用箇所で示されるているのは、死にゆくカレンの闘病記を書きたいのではなく、まさに「人はなんで生きるか」を示したい、というメッセージではないだろうか。
*1:ここにいう「なんで」は、理由ではなく「何によって」を意味する。