ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

海外文学入門者に贈る海外文学の買い方、選び方、探し方【基礎編】

もうすぐ絶滅するというリアルの書店に寄せて(上)

この記事は、海外文学の世界を渉猟するためのガイドマップとなることを目指している。

前編として海外文学にまつわる基本情報を、後編として各出版社/各種レーベルの解説記事を載せている。なお、この記事の末尾には執筆の動機を示した前書きを置いている。

なぜ海外文学か

最初に、なぜ日本語で書かれた作品がこれほど沢山存在しているのに、敢えて外国語で書かれた作品を偏愛するのかを述べておこう。

一つ目の理由は、それが知的好奇心を満たしてくれるからである。特に、馴染みの薄い国の文化・歴史を知ることができる点は、間違いなく海外文学の楽しみの一つに数えられるだろう。歴史好きか、あるいは外国文化に興味がある人であれば、ハマれる要素は十分にある。私はヒキコモリの出不精で旅行は嫌いだが、紙と想像の次元で世界中を飛び回るのは大好きである。

もう一つの理由は、端的に作品のレベルが段違いに高いからである。こう言明すると、国粋主義者に石を投げられそうだが、考えてみれば至極当然である。世界中に競技者がいるスポーツで世界選抜チームを作ったとしよう。このとき、日本の代表団が勝てる理由があるだろうか?そこにはワールドカップと国内リーグくらい歴然とした差がある。

ありとあらゆる言語圏に文学がある。そして、その言語圏に生まれた数十年に一人の天才の作品を、翻訳を通して読むことができる。こんな幸せなことがあるだろうか?

ここで一冊・・・

海外文学マップ

さて、ひとくちに海外文学といっても、その内実は多種多様である。

そこで、縦軸に時代を、横軸に路線を取って、四つのゾーンに分割してみたのが下の図である。各出版社、各レーベルこどに、得意不得意やターゲットゾーンがはっきりとあるので、まずは自身の立ち位置、好みをチェックしてみて欲しい。そしてもしよかったら、たまには自分の立ち位置から少し越境をしてみて欲しい。きっと、それまでとはちょっと違った新しい読書体験が得られるだろう。

表の見方を説明すると、日本文学でいえば、芥川賞文藝賞を取りそうな、いわゆる「純文学」と呼ばれるものが左側、直木賞メフィスト賞を取りそうなのが右側とご理解いただきたい。縦軸は時代による区切りだから、横軸よりはわかりやすい。私の感覚では、概ね直近50年~100年以内の作品であれば、下半分に入れてもよさそうだ。

以下、上の図表を元に、各ゾーンの特徴を説明してみたい。

正典ゾーン

「海外文学」と聞いて、一般の方がまず思い浮かべるのはこのゾーンだと思われる。実際、最も安定して売れているのもこのゾーンではないだろうか?ホメロスシェイクスピアに始まり、ヘミングウェイドストエフスキースタンダールなど、19世紀の偉大な「文豪」たちを含む、「正典」的な作品群だ。

ファンの心の中に鉄のカーテンが引かれており、ロシア文学については詳しいのに、アメリカ文学はからっきしということが起こりうる。ちなみに、書き手の私にとって一番なじみ深いのはこのゾーンだ。

ここで一冊・・・

現代文学ゾーン

この四つのゾーンで、最も売れてなさそうなのがここ。真面目な人が多いのか、はたまた大学のカリキュラムの影響か、文芸寄りの作品は不思議と古典から入る人が多い。

作品の傾向でいえば、例えばノーベル賞作家の作品を買うと、このゾーンの上の方に来るだろう。一方で、ブッカー賞*1ゴンクール賞*2の受賞作がこのゾーンの下の方に入る。ニューヨークタイムスの年間ベストであれば、このゾーンの下方、やや右寄りだろうか?

世界のグローバル化を反映し、正典ゾーンに比べてコスモポリタンな傾向にある。私が正典ゾーンから良くおでかけをしているのがこのゾーンだ。

ここで一冊・・・

名作小説ゾーン

熱心なファンがついているイメージがあるのがこのゾーン。

具体的には、ジャンル小説(SF、ミステリ、怪奇、ホラーなど)の祖といわれるような人作家たちの作品がここに入るだろう。例えば、クリスティ、アシモフラブクラフトモンゴメリなどなど。小説好きというよりも、作家にファンが付いている傾向が窺える。こうした作家のファンを自称する人は、きっとあなたの身の回りにもいるのではないだろうか。

私の母や妻は読書家というわけではないが、それぞれモンゴメリとクリスティの熱心な読者である。私自身そんなに得意ではないが、各作家の代表作くらいは履修していそうだ。

ここで一冊・・・

ジャンル小説ゾーン

ここ、誰か代わりに書いてくれませんか?ジャンルごとに、そこを専門とするファンが付いているイメージがある。出版社でいえば早川書房東京創元社が得意とするところだ。

ヒューゴー賞ネビュラ賞エドガー賞受賞作家などが想定され、私が捻りだした作家名では、テッド・チャン、ケン・リュウ、スティーヴ・ハミルトン等だろうか。作品名であげれば、『三体』などもここに含まれそうだ。

私の苦手ゾーンがここであり、正直ちょっと手が出しずらい。去年だったか、サラ・ピンスカーが話題になったときにも手を伸ばしかけたが結局辞めてしまった。

ここで一冊・・・

ちょっとしたいいわけ

なお、便宜的にこのような表にしてみたものの、SF作品やホラー作品などには、強い文芸色を含む作品が多数存在していることももちろん知っている。そもそも、文芸か大衆かなどという区別は、主観的・相対的なものだ。何せ、広い世の中にはCLANNAD*3は人生という人もあれば、ドストエフスキーラノベという人もいるのだから。「雑草」、「ポルノ」、「良い天気」などという言葉と同様、その語を使用するものにとって対象がそれに含まれることが明らかであっても、客観的にそれを定義することが困難な概念など、いくらでも存在するのだ。

従って、くれぐれも上の表は便宜的なものだとご了解をいただきたい。

ここで一冊・・・・

文庫本か?それ以外か?

文庫本以外を指す言葉ってなーんだ?

単行本?不正解。単行本とは、シリーズものから独立して発行される書籍、という意味なので、文庫以外のシリーズモノが含まれなくなってしまう。

ハードカバー?不正解。ハードカバーとは、文字通り表紙が厚めのボール紙で出来ている本をいう。このため、新潮クレスト・ブックスのように、柔らかい表紙でできたソフトカバー本はこれに該当しない。

いじわるクイズみたいになったが、私の知る限り、「文庫本以外」を上手く総称する言葉はない。しかし、文庫本か、そうでないかで本を区別している人はなんと沢山いることだろうか。

その理由は勿論、文庫本とそれ以外とで大きな価格差があるからだろう。最近でこそ文庫本も高くなり、価格差が狭くなった気がするが、それでも「文庫本以外」を買おうと思ったら、文庫本3,4冊分の金額がすることも決して珍しくない。

しかし、一度その金額差を脇に置いて、広い視野で本を探してみて欲しい。経済的に難しいのであれば、図書館でも、古本でも、いくらでも本を読む手段はある。

そう考える理由は、海外文学の世界において、特に現代の作品は、ほとんどの作品が文庫化されないからだ。日本文学を読む人には、どこかに「文庫化待ち」という感覚があるかもしれない。しかし、海外文学の世界では、文庫化を待っている間に品切れをし、良作ほどそのまま古書価高騰に繋がることが多い

古典作品であれば、ほとんどが文庫化されていると思われるかもしれない。例えば、ゲーテの『ファウスト』という本がある。これは確かに、岩波文庫でも、中公文庫でも、新潮文庫でも、集英社文庫でも読むことができる。だが待って欲しい。では、1958年、1962年、1964年、2022年の翻訳があるとして、どれを読みたいだろうか?実は、この2022年版は作品社から出ているハードカバー版で、5400円+税という高価格のものだ。そして、群を抜いて素晴らしい翻訳でもある。

値段やレーベルだけで本を選んでいると、2022年の翻訳があることにさえ気づかないかもしれない。そして、せっかくの素晴らしい作品を、訳文の古さから挫折してしまうこともあるかもしれない。

なので、本を選ぶときには、文庫だけを見るのではなく、是非とも広い視点で探してみてほしい。

ここで一冊・・・

本の歴史を少しだけ

ここで少しだけ、我が国の海外文学受容の歴史について触れたい。もちろん、こんな遠大なテーマ、マトモに書こうと思ったら私の手に余ることは明らかである。従って、ほんの概括的な記述に留めたい。

まず、ざっくり言って現代日本の海外文学出版の歴史は、大手出版社による、世界文学全集v.s.文庫という戦いから始まっている。戦前~1970年代頃までだろうか。いまでは到底信じられないが、教養主義というマインドが流布しており、海外文学の翻訳書はマスターゲットの商品だったのだ。

その後、世界文学全集が衰退・消滅し、中堅~大手出版社による海外文学叢書の時代が到来する。1980年代~現代を想定している。もちろん、この間も文庫は根強く売られ続けている。ポイントは、全集が衰退し、新しい訳書を出すのに別のフォーマットが必要になったという点である。途中、ラテンアメリカ文学ブームの時代を挟むため、ラテンアメリカ系の叢書も数多い。

そして現代では、文庫が高騰する反面、独立系・小規模出版社から意欲的な作品が次々と出版されるようになった。書店が相次いで消滅し、これまでの出版流通システム全体が軋みをあげていることと無関係ではないだろう。

ここで一冊・・・

初版、重版、増刷、HSJM、絶版

これは海外文学を読もうとするとき、決して避けては通れないテーマである。

もしかすると、本というものは、まるでポテトチップスのように、書店に行けば、だいたいいつでも欲しい品物が手に入ると考えている方もおられるかもしれない。

確かに、あなたがいま買おうとしているものが、コンソメパンチくらい不動の人気があるメジャー作品であれば、それは勘違いではない。しかし、そうした作品は星の数ほどもある本のごくごく一部である。

ポテトチップスでも、31アイスクリームでも、大戸屋のメニューでもいい。期間限定のフレーバーが、メニューが、販売終了になってしまい悲しい思いをしたことはないだろうか?

実は、ほとんどの本はこの期間限定の商品と同じだ。本が最初に生産されるとき、その生産物を「初版」といい、生産数を「初版部数」という。海外文学の世界では、かつては初版3000部、最近では初版2000部という声も聞こえてくる。正確な数字はもちろん企業秘密だろう。ともあれ、この初版部数を売り切ったら、そこで販売終了なのである。

ただし、ポテチと同じで、当然人気のフレーバーであれば、それが再度生産されることもある。本の世界ではこれを「重版」とか「増刷」という。なお、重版と増刷は国語的には違う意味だが、出版社側も混用しているので、以下本稿ではまとめて「重版」と呼ぶ。

反対に悲しいかな重版がかからずに、そのまま品切れになってしまう商品も多数存在するわけだ。そうした状態になった書籍のことを、「版元品切れ重版未定」といい、当ブログではいつも勝手にHSJMと略して呼んでいる。

より通りの良い言葉として「絶版」があるが、絶版とHSJMとでは意味が異なる。敢えて版元品切れ重版未定などという回りくどい言い方をしているのは、つまりは何かの拍子に重版する可能性を残しているということだ。例えば、芸能人様がうっかり泣いてくれたり、映画化されたりしてくれた場合である。これをはっきり「絶版」というのは、むしろ末期的な事態で、何があろうと重版する気がない、という意味である。

出版社の経営体力や、持てる倉庫の物理的な限界に応じて、品切れまでの期間≒抱えられる在庫量はまちまちである。しかし、タイトルによってはものの1年程度で品切れになってしまう書籍も決して珍しくない。海外文学を読むということは、即ちこの品切れとの戦いでもあるのだ。

だからこそ、いま買える書籍を大切に、じっくり吟味して買って欲しい。そして、「悩んだら買え」である。

ここで一冊・・・

翻訳を選ぼう!

これは、どちらかという古典寄りの作品にチャレンジするときの話である。先にも少し触れたが、選択肢があるのであれば、翻訳は吟味した方がいい。翻訳の差によってがらりと作品の印象が変わったという経験を何度も味わっているし、また、新訳によってかつて挫折した作品を読み通すことが出来たという人を何人も目にしてきたからだ。

そして、翻訳を選ぶときには、原則として新しいものを選んだ方が正解である可能性が高い。

その理由の一つ目は、恐らく日本語が変化の速い言語であることが関連している。祖父世代と自分世代とでは、同じ日本語であっても、使用する語彙も異なれば、言語感覚も全く異なる。例えば我々世代がカタカナ語で表現する語彙が漢語で表記されている。そうした小さい違和感の積み重ねが読みにくさを形成していく。

もう一つの理由は、訳者の技術的な問題である。新しい訳は、常に先行の訳を参照することができる。もちろん、訳文だけではなく、その書物にまつわる様々な研究をも参照して訳出することができるのだ。従って、原理的に「後だし有利」なのである。

ただし、概ね2000年以降に訳出されたものであれば、よほど高齢の訳者*4が訳したものでない限り、さほど気にしなくても良い。この頃以降、日本の出版界における訳文の品質が大幅に向上したと考えているのは、私だけではない。これは恐らく、インターネットの普及と無関係ではないだろう。

きっとインターネットの普及は翻訳者にとっても革命であっただろう。良く知られている話として、こんなエピソードがある。カポーティの『ティファニーで朝食を』を日本で最初に訳した訳者氏は、NYのティファニーまで行き、こう尋ねたそうだ。「朝食は食べられますか?」と。これは勿論、インターネットはおろか、ティファニーの何たるかさえ知られていなかった時代の話だ。しかし、このエピソード一つとっても、翻訳という営為にとって、インターネットがいかに革新的だったかが良くわかる。

ここまで、①2000年代以降の訳文、②できるだけ新しい訳文がオススメであると書いたが、当然ながら例外もある。このため、可能であればいくつかの訳書をぱらぱらとめくってみて、一番しっくり来るのを選ぶが理想である。

本の見つけ方

ここからは、書店で実物を見る以外の方法で、どのようにして本の存在を認知し、本を選ぶのかという話をしていこう。

出版社のHP

まず、いまどきもっとも手っ取り早いのは、出版社のHPをチェックすることだろう。タブブラウザを使っているのであれば、お気に入りの出版社の新刊情報ページを開きっぱなしにしておいて、マメに巡回するだけでも良いかもしれない。

そしてそのためにはまず、「お気に入りの出版社」を見つけるのが先決だ。この点については後編で詳しく紹介している。

図書目録

もう一つ、出版各社の多くが「図書目録」などと呼ばれるものを発行していることはご存知だろうか。「総合図書目録」「発行目録」「出版総目録」など、具体的な呼び名は様々であるが、自社の出版書籍を目録化したものだ。大抵の場合、各書籍には文庫本の末尾に付いているような3行程度の作品解説がついている。1年~2年に一度程度発行されているが、品切れ書籍は登載していない出版社が多いので、そこは注意が必要である。

問題は手に入れ方だが、これがちょっと難しい。昔は、大規模な書店に行くと、「ご自由にお持ちください」扱いで配布がなされていた。しかし昨今では、コスト削減のあおりなのか、見かけることも少なくなってきたように思う。しかし今でも、手間さえ惜しまなければ書店経由で注文をかけることができる。

あるいは、出版社のHPを見ると、申し込み方法が書かれている場合も多い。テキトーに「出版社名 目録」などで検索をかければ、入手方法が書かれたページに飛べそうだ。マニアックな方法になると、その出版社のファンクラブや友の会的な組織に入会していると、毎年勝手に送ってくれたりもする。それ以外にも、出版社の直販イベントなどに参加すると、現場で配布していたりすることもある。

私が良く使う、最も簡単は方法は、直販サイトを利用することである。出版社の直販サイトから本を買うとき、入力フォームには備考欄があると思われる。そこに一言、「目録ください」と書くだけで、お目当ての本と一緒に目録を頂戴することができる。

あなたが好きな本を出版している会社は、きっと他にも多くのあなた好みの本を出版していることだろう。

SNS

おっさんに勧められなくてもそんなんもうやってるわ!という方も多いかもしれない。

むしろ私の方がそんなに詳しくないのだが、少なくともtwitter*5(やってる)とInstagram(やってない)には読書勢が居るはず。

出版社、翻訳者、作家、研究者、書評家、書店員、司書、町の読書好きなどなど様々な人々が好きな本や買った本について言及している。さぁ、これらの人たちを早速フォローして、始めよう読書アカウント!twitter@kamekichi1999もよろしく!

最近では買う本を決めるにあたって、一番参照しているのがコレかもしれない。特に、新刊情報などが勝手に入って来るのが便利である。

新聞書評

SNSの次は急に原始的なコレ。SNSに慣れているとむしろ新鮮かもしれない。

大手紙では大抵、土曜日の朝刊に書評欄が付いている。これのいいところは、それぞれの書評のクオリティが高いところだ。プロの書き手、厳しい字数制限。自然とフォーマットが決まってきて、あらすじ+作家の基本情報+ひとことのような、1冊を紹介するのに必要な情報が濃縮されている。もはやこの書評行為が一つの芸ともいえる。

欠点は、新聞本誌が要らない場合、土曜日版だけ買うのが簡単ではないことだ。

ここで一冊・・・

本の本

最後はやっぱり本の話。「面白い本の話」も本にしてもらうのが一番だ。

世の中には本について様々な切り口から論じた本がある。本の歴史、稀覯本の話、索引の話・・・。だが、この記事に関係があるとしたら、やっぱり書評本、批評本というたぐいの本だろう。もう少し堅苦しく、〇〇文学入門みたいな本を手に取ってみても良いかもしれない。

ただでさえ、物語を読むと、それに関連する別の物語に興味が湧くものだが、書評本の効果はてきめんである。きっと気になる一冊が見つけられることだろう。

一つだけ弱点があるとすれば、どのコーナーに並べるべきか迷うのか、書店では迷子になりがちということである。

ここで一冊・・・

買い方、在庫調査

最後に、現実に商品をどう入手するか、つまりは買い方についても記しておきたい。

amazon(他、書店系通販サイト)

ご存知amazonである。書店没落の元凶ともみなされ、書店・出版業はおろか、一部の読書家からも蛇蝎の如く嫌われている。だが、amazonの無いif世界を仮定したところで、書店業が同様の憂き目に遭わされる運命は必定だったことだろう。

なお、一部の読書家から嫌われている理由の中には、梱包が雑過ぎて大切な本が傷むということや、出版社在庫があるのにも関わらず、怪しいマケプレ業者から買わされそうになるというものもある。

ともあれ、現代日本において、書店という手段が使えない場合のファーストチョイスであることは間違いない。なお、そうであるがゆえに、版元品切れになった場合には真っ先に売り切れになるので注意が必要だ。

なお、紀伊国屋書店のオンラインサイトは梱包が丁寧なのが良い。この他、一部の雑誌など、他サイトにないものがヨドバシ.comで売られていることもある。

版元ドットコム

書影を含む書誌情報のサイトとして有名な版元ドットコムであるが、実は意外な使い方がある。

各書籍のページへ行くと、右側に大手書店の在庫情報ページへのリンクが張られているのだ。ここから書店ページへ飛ぶと、直接各書店の店頭在庫がチェックできるシステムになっている。

書店によってルールは異なるが、中には代引き+送料負担で全国配送を受け付けてくれる書店もある。どうしても在庫が見つからない場合の奥の手として知っておくと良い。

出版社直販サイト

最後のオススメがこれ。実は、いまどき自社サイトで通販が可能な出版社が多い。

もちろん、販売の条件は各サイトによって異なるが、送料サービスが付いたり、特製冊子が付いたり、先にも触れた図書目録の請求が一緒にできたりなど、いいことづくめだ。

特に中小出版社の作品については、書店で手に入れにくいく、また書店で客注をかけたとしても、手元に届くまでにかなりの手間と時間がかかる。それであれば、直販サイトで買うのが最もお手軽で、かつ出版社の利益にもなる*6

 

記事の最後に現れる「はじめに」

この記事を書こうと思った直接のきっかけは、書店が減りつつあることをニュースで見たことと、海外文学を広めようと頑張っている人の活動を見たことにある。

そしてもう一つ、首都圏のベッドタウンで暮らすようになってから、ずっと違和感を覚えてきたことに対して、それを形にしたいという気持ちがある。その違和感とは、都市部とそれ以外とでは、書店の数において圧倒的な格差があるだけではなく、その中身においても、想像を絶する格差があるのではないかということだ。

ある程度積極的に調べるのでない限り、多くの人にとって、書店こそが本の存在を知る一番のきっかけではないだろうか。つまり、書店に並ばなかった本は、その人たちにとっては存在しないも同然なのである。

私の住むベッドタウンでは、幸いまだ大手系列の書店が駅前に出店してくれている。しかし、その品揃えには大いに不満がある。海外文学だけで6つの棚を占めているのだから、むしろ全国的に見れば相当恵まれている品揃えだとは思う。しかし、私は東京堂書店神田神保町店を、紀伊国屋書店新宿本店を、八重洲ブックセンター本店*7を、三省堂書店神保町本店*8を知ってしまっているのだ。岩波文庫だけで膝丈から頭の上までぎっしり詰まった3棚。白水社エクス・リブリスと新潮社クレストだけが整然と、そしてぎっしりと詰まった1棚。もしかすると、こうした書店が存在していることを、想像さえできない人々が沢山いるのではないか?そのように思い至ったのだ。

私の想像が正しければ、書籍、特に海外文学へのアクセシビリティは、私が思っている以上に極めて悪い。それは書店の縮小・減少に伴って、今後さらに悪化してくことだろう。ガイブン棚という窓が狭くなれば、読者の海外文学へのアクセスが悪くなるだけではなく、海外文学の側が読者へアクセスすることも難しくなってしまう。

特にここ10年、20年で、既刊書の陳列数が大きく減ったように思われる。書店で既刊書の売り上げが落ちる、出版社の新刊への依存度が上がる、ますます書店で新刊偏重の販売手法が採られる・・・という悪循環に陥っているように見えるのだ。だが、『失われた時を求めて』(1913年)よりも、『変身』(1915年)のが新しいから、こっちにしよう!などという選び方をする人があるだろうか?小説は、将棋のように日夜定跡が更新されているものとは性質が異なる。つまり、後進が先達より必ず優れれているといえないことは明白だろう。旧作も新作も同一の平面で語られるべきであり、ぜひとも既刊書・旧作にも目を向けて欲しい

こうした懸念を背景に、本稿では、お読みいただいている方の眼前に、旧作も含む飛び切り大きなヴァーチャルガイブン棚を現出させることを目標にしている。

少しでも海外文学に興味を持って下さってる方に、この海がとても広い海であることを知っていただき、そしてその海を泳ぐ羅針盤を手にしていただければ嬉しいと思う。

*1:イギリスの権威ある文学賞

*2:フランスの権威ある文学賞

*3:いわゆるギャルゲーである。

*4:実は私は訳者の出生年を必ずチェックしている。

*5:twitterです。twitter。断固。

*6:この問題に詳しくないが、取次&書店のマージンが減るだけ、出版社の利益は多いものと予想している。

*7:改装中

*8:改装中