Don't wanna see no blood, don't be a macho man
理論的に言えば、朝の目醒め(ふたたび自分の個性を取り戻すこと)がまったく先例のない出来事、完全に新しい誕生であるという可能性だって、絶対にないわけではない。(p.94)
<<感想>>
ウラジーミル・ナボコフのアメリカ時代2作目となる長編小説である。
いずれも傑作である『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】と『ロリータ』【過去記事】の間に書かれている。
もちろん私もかつて一読していたが、正直なところ前後の二作ほど素晴らしい作品とはみていなかった。どちらかというと読みづらく、ややもすると難解であると同時に、作品のテーマが散漫だという印象を持っていた。
ところが今回、このブログ記事を書くにあたって再読して、実は思いのほか散漫な小説ではなく、統一した相のもとで読むことが可能なのではないかという疑いを抱いた。
そこで以下では、本作全体を概観して作品の紹介をしたうえで、再読して得られた感想をまとめていきたい。なお、ナボコフ作品においてはあまり意味をなさない警告であるが、いわゆるネタバレには一切の注意を払っていないので、注意されたい。
あらすじ
まず、この物語はいわゆる「独裁者小説」である。同じナボコフ作品の中では、『処刑への誘い』(=『断頭台への招待』)【過去記事】や短篇「独裁者殺し」【過去記事】の系譜に連なるといって良いだろう。
主人公のアダム・クルークは国際的な知名度を誇る哲学者にして大学教授である。冒頭、クルークは病床の妻を看取ることになるが、その帰り道、街では戒厳体制が敷かれている。「均等主義」を奉じるパドゥクが抗争に勝利し、彼の手による独裁国家が形成されつつあったのだ。
クルークは幼い息子ダヴィットに妻の死を悟らせまいと、妻の葬儀を人に任せ、子を連れて田舎へと旅立つ。
旅立ちの前、勤務先の大学でも、政権に忠誠を誓うアピールをするべく、教授陣に召集がかけられた。クルークは独裁者パドゥクの少年時代の同級生だったため、教授陣からは期待をかけられる。ところが実は、クルークはいじめっ子、そしてそのターゲットこそがパドゥクだったのだ。
政権への屈服を拒絶するクルークであったが、自身の身の回りの人物が次々と逮捕されていく。そしてとうとう政権に召喚され、パドゥクと直接会見することになる。政権側はどうやら、対外的な名声を誇るクルークを広告塔として利用したいのだ。
これをも拒絶したクルークは、いよいよ亡命を画策することになる。しかし、政権の魔の手はとうとうクルークの子ダヴィットに伸びることになる。政権側の手違いでダヴィットを殺されたクルークは我を失い、パドゥクに襲い掛かる。
衛兵が発射した弾丸が彼に命中する、その何分の一秒か前、突如として第四の壁は崩れ去り、クルークは救われるのである。―他ならぬ、その作者によって。
伝わりにくい作品のテーマ
さて、ではなぜこの小説が散漫な印象を与えてしまうのか。その一つの理由は、作者自身の手によって作品が引き裂かれてしまっているからである。
この作品には、『ロリータ』や『ディフェンス』【過去記事】などと同様、発表後かなりの歳月が経過した後に、口うるさい作者によって序文が付されている。その序文の中でナボコフは、種々の文学的技巧について(ここについては珍しく)細かい解説を加えた上で、本作は社会批評のために書かれたのではなく、主たるテーマはダヴィットとその父親を描くことであるというのだ。
こうして読者の関心は、①ナボコフ作品にお馴染の芸術的細部、②作者が主張する父子のテーマ、③見た目上明らかな独裁者に関する物語、の3つに拡散していくことになる。
そこで、まず①の芸術的細部を十分に堪能したうえで、②③の作品のテーマについて再検討をしていこう。
芸術的細部
本作にも、他のナボコフ作品同様、興味をそそられる細部は多数存在する。ジョイス、シェイクスピア、フローベール【過去記事】、カフカ等、他の作家に対する言及、後の『淡い焔』を胚胎しているかのような翻訳論/解釈論とも取れる箇所、ドイツ語とロシア語のあいの子のような作中オリジナル言語に代表される言語遊戯などなど、取り上げたい話は沢山あるが、今回は以下の3つのポイントを特に紹介したい。
(1)ベンドシニスター
まず、タイトルのベンドシニスターとはなんだろうか。この小説のタイトルとして聞いたのが初めての言葉だったが、これはどうやら紋章学の用語だそうだ。
画像を見てもらうのが手っ取り早いだろう。
画像左、たすきのような柄が左上から右下に走っているのが「ベンド」と呼ばれ、こちらの形が基本形のようだ。
そして、画像右。左右反転して、右上から左下に走っているのが「ベンドシニスター」。こちらは例外的な形のようだ。
これを頭に入れて読み進めていくと、早速、この「ベンドシニスター」のモチーフが登場してくる。物語の冒頭は、クルークが病棟の窓から見つめる水たまりの描写から始まる。大変に装飾的で凝りに凝った文章であるが、その中に次の一節がある。
水溜りには、からみ合っている葉の落ちた小枝の一部や、水溜りの縁の両端を切りとられて彎曲する褐色の太い枝も映り、明るいクリーム色の帯が一本、横ぎっている。何か落としたぞ、ほら、きみのだ。むこうでクリーム色の家が日を浴びている。(p.3、強調は引用者)
低い作のむこうで明るい日射しをいっぱいに浴びている、濃い青ねずみ色の家屋の正面は、クリーム色の二本の側柱と無表情で空ろな幅広の軒蛇腹に囲まれて、まるで、砂糖をまぶしたケーキが店ざらしになっているみたいだ。(p.4)
ナボコフの文章は、注意深く視覚化をして、頭の中で図像イメージにしないと伝わらないことが多いが、この強調部分は、恐らく先の「ベンドシニスター」を示しているのだろう。
そしてこの一節から、本書のタイトルが、実体と反映や鏡合わせの関係性、引いては現実世界と作品世界との関係性などを想起させることが窺われる。『淡い焔』の冒頭に、連雀がガラス窓に飛び込むイメージが配置されているのと同様である。
本作ではこの水たまりのイメージが、そこに浮かぶ小波からクルークの妻オリガの顔へ、その形状からインクのしみへ、様々なモチーフへと伝播していく仕掛けになっている。
(2)登場人物紹介の紹介
ナボコフ流の人物紹介術についても紹介したい。
まずは一人目、クルークが所属する大学の学長、アズレウスから。
客を迎える老アズレウスの態度は、沈黙の狂想曲をかなでた。彼は恍惚と笑みを浮かべ、ゆっくりとやさしく、自分の柔らかい掌のあいだに相手の手をひき入れる。そうして、まるで長いこと捜していた宝物か、綿毛に覆われてどきどきしている雀みたいに、相手の手を湿った沈黙のなかにつつみこむ。そのあいだにも、目というよりは微笑する厳となった目が、相手をじっと見つめている。やがて、皺だらけの微笑がごくゆっくりと消えはじめ、老いたやさしい両手がしだいに握りをゆるめ、熱情的な輝きのかわりに空ろな表情が青白く弱々しい顔に浮かんでくると、まるで人違いをしたみたいに、 まるで結局のところ、相手が自分の愛していない人間ででもあったかのように、相手を解放する―― そして、もうつぎの瞬間には、愛する者の姿を別の片隅に見つけている。ふたたびあの微笑が浮かび はじめ、ふたたび両手が雀をつつみこみ、ふたたびすべてが消えてしまうのだ。(p.47)
初登場時の人物描写が、握手をするときの仕草や表情、雰囲気で済まされる。こういうところ、ほんとナボコフ読んでるって感じがする。
続いては、押し掛け家政婦ことマリエットの描写。
・・・脚の線が美しく、華奢な輪郭の青白い顔は、とくにかわいらしいというわけではないにしても、あどけない魅力にみちていた。乾ききった様子の唇はいつも開き加減、黒い目は妙につやがない。瞳の色が虹彩とまじりそうになっているその目は、普通よりもやや高い位置にあって、煤けた睫のすだれの蔭に隠れている。奇妙なほど血の気のない、一様に透きとおった頬には、紅も白粉もつけていなかった。髪は長く伸ばしている。・・・いつも前夜の舞踏会のせいで象牙みたいに青白い顔に疲労の色を濃く滲ませながら、夢うつつで立ち働いたり埃を払ったりしている、だらしないシンデレラ娘といった風情だ。全体として、どこかひとをいらだたせるところがあるし、波うつ褐色の髪からはきつい栗の実の匂いが漂ったけれど、ダヴィットは気に入っていたし、結局は彼女でうまくいくのかもしれなかった。(p.157、強調は引用者)
まずもって、何という装飾過多だろう。そして、極め付けは最後に来るとんでもない比喩である。この後、この人物はうっすらとシンデレラのイメージを背負わされることになる。
最後は、元老院議員シャムについての描写だ。
「電話させてくれないか、シャムに」(元老院議員のひとりだ)とクルークは言った。(p.228)
初登場時は名前だけ。
クルークは高名な大学教授であるため、政権幹部に知人が居ても特段不思議ではない。
このシャムと実際に対面を果たすのは、物語の結末部付近である。
「こんなまねは絶対に困る」と、シャムは細心の注意を払って話した(彼は完全な意志力によって、若いころの激しい吃りを矯正していた)。(p.268)
遡ること184ページ、ナボコフの読者は、ここに名もなき吃音の人物が居たことを覚えていなければならない。
・・・四番目の少年はおそろしい吃りで、彼が単語の最初のpやbと悪戦苦闘しているあいだに、外に行ってチョコレート・バーを買って来られるほどだった。(p.84)
実は、このシャムという人物は、学生時代のパドゥクの取り巻きの一人で、従ってクルークの同級生でもあったのだ。
この他にも、バホーフェンやヘドロンなど、初出時の名前を抑えておかないとキャラ付けが迷子になってしまう仕掛けは多数の人物に当てはまる。
(3)世界はイモムシか蛾か?
作品の最終頁に関することだが、個人的な趣味から是非触れておきたいのがここだ。
クルークは墓蛙*2にむかって駆けてゆき、そして、つぎの狙いすました弾丸が彼にあたる何分の一秒か前に、また叫んだ。おお、クルーク、クルーク――すると、まるで引き戸をさっと引いたみたいに壁が消えうせてしまい、わたしは伸びをしてから、書き終えたページや書き直したページが散乱するなかに立ちあがり、窓の網に何かがあたって、不意にぶーんと音をたてているのを調べにいった。(p.270)
この「ぶーん」の正体は、後に蛾であることが明かされる。従って、この箇所は、読みようによっては、クルーク自身が劇中の世界を突き破って、蛾に変化したという解釈も許されるだろう。というか、私としては積極的にそのように解釈したい。
それは私が敬愛する楳図かずおの漫画『14歳』の結末部にも類似の描写が見られるからだ。主人公は、崩壊しつつある宇宙の果てに到達し、その果てを突き破る。突き破ってみると、今までの宇宙が実は小さな芋虫の中に存在していたことに気がつくのである。
実は、私も幼年時代に同じような妄想――実はこの極大の宇宙は、別の世界の極小のものの中に存在しているのではないか――を抱いていたのだ。このため、『14歳』を初めて読んだとき、世界中には自分と同じような観念を抱く人がいるのだと、とても驚いた記憶がある。
そう、そして敬愛するナボコフもきっと。
父子のテーマ
さて、そろそろ具体的な作品論に入っていこう。
まずは、作者が主張する父の子に対する愛情というテーマについてだ。
作中、ダヴィットに振るわれる暴力は直接的には描写されない。その内容は示唆されるだけで、恐らくは敢えてそのように描いているのであろう。直接的な描写が行われるよりも、読者の想像力を媒介にしている点で、嫌悪感や恐怖感をより真に迫って感じられるともいえる。
しかし、だからといって、作者の主張するテーマが十分に描かれているかというと、私にはそうは思われない。なぜなら、ダヴィットのクルークに対する愛情が十全に表現されているとは言い切れないからである。
確かに、子に対する父の愛情を示した、詩的で素晴らしいパッセージは登場する。
いとけない子供のことを一心に思えば、まったく胸がしめつけられるようだ、と思想家のクルークは思った。ある神秘的な(われわれにとっては、かつての、薄緑のオリーヴ林に住んでいた最初の思想家たちにとってよりもさらにいっそうのこと神秘的な)方法で、二つの神秘の融合からつくられた、いやそれを言うなら、それぞれに一兆もの神秘をそなえた二つの個体の融合からつくられた、この存在。その融合は同時に、選択の問題でもあれば、偶然の運の問題でもあり、また純然たる魔法の問題でもある。かくして形づくられ、みずからの神秘をさらに何兆と積みかさねることを許された存在。この小さな存在の全身に意識がみなぎっていることこそ、この世界で唯一の現実、最大の神秘だ。(p.211)
しかし、どんなに注意深く読んでも、そうした愛情を基礎づける、ダヴィットとクルークの交流を示す具体的なエピソードが出てこないのだ。もちろん、時代背景もあるだろうから、男性(父親)がケア(労働)を担うのが自然ではない、ということは理解できる。ではどこで、愛情の基礎となる愛着が形成されたのだろうか?
もしかすると、いやたぶん、クルークがダヴィットを愛する理由は、「父であるがゆえに」なのだろう。なるほど先の引用箇所も、存在と誕生とに重きを置いている。
しかしそうすると、これは当為論に近接してくる。つまりは、父である以上は、妻と子を愛し、そして妻と子を守るべきだ、ということだ。そしてこれは、意外なほどにマッチョな家父長制規範そのものである。
政治的なテーマ
では、作者の歓迎しない政治小説としての読み方はどうだろうか。本作は、独裁への抵抗を描いたものとして、一刀両断されがちである。しかし、どういった政治的要素がどのように描かれているのかを、もう少し丁寧に見てみよう。
最初に挙げられるのは、「権威主義」の滑稽さで、クルークとパドゥクが最初に対面する場面(chap.11)などが該当する。
次に、「行政機構」の持つ不条理さにも焦点があてられる。実はダヴィットを死に追いやるのは作中の「均等主義」ではなく、行政機構の手違いが原因である。通行証を巡るやり取り(chap.2)なども、このカテゴリに入るだろう。
最後に、最も印象深いのが「全体主義」への憎悪である。特に、クルークとパドゥクとの次の対話などは印象深い。
「きみの政府になんか、これっぽっちの興味もない。ぼくが腹を立てるのは、きみがぼくに興味をもたせようとすることなんだ。ひとりにしておいてくれないか」
「『ひとり』というのは国語のなかでもっとも忌むべき言葉だな。誰だって、ひとりきりじゃいられない。体のひとつの細胞が『ひとりにしておいてくれ』と言いだせば、あげくの果ては癌さ」(p.167)
また、新任の学校長が自由な政治的討論を強制する場面(chap.5)などもこれに該当するだろう。
と、このように少し丁寧にどのような政治的テーマが描かれているのか確認してみたが、当然作者が期待していないこの読み方は、失敗を運命づけられている。ナボコフは政治学者なわけでもなく、作中の「均等主義」や現実の「共産主義」に対して思想的な深堀りがなされているわけではない。
ではこうした表現を「文学的に」見てみるとどうだろうか。
まず、権威主義の滑稽さを描く部分については、嘲笑ノリで書かれているが、こういう悪意のある文章を書かせるとナボコフは抜群に上手い。また、行政機構の不条理さについても、まさにカフカ【過去記事】以来の普遍的テーマであり、十分に興味をそそられるし、物語を駆動する要素となっているところも見逃せない。
しかし、全体主義への憎悪、この部分はどうだろうか。私が見るところ、憎悪のあまり、作者の感情が滲み出すぎているように感じられてしまう。
注目したいのは、ナボコフが「学校」という要素を持ちだしてきた点だ。繰り返しになるが、クルークとパドゥクは同級生であるし、実は政権の高官もパドゥクの初期の取り巻き=同級生であることが確認できる。
学校というのは、『十五少年漂流記』や『蝿の王』でも用いられているとおり、現存するある種の自然状態であるといえる。ほとんどの近代人が経験しているため、例えば先に指摘した学校長による強制のシーンなどは、多くのひとの共感の及ぶところだろう。
ただ、一国の政治問題とクラス内部での闘争とを接続する手法には、セカイ系的な安直さを感じてしまう。独裁者パドゥクの小人物ぶりを示す手段がスクールカーストというのでは、流石に作者を感情的と誹りたくもなる。
さらに注意を向けたいのは、次の一節だ。
彼の信奉者たちは全員、何らかのちょっとした欠陥や、フルーツ・カクテルを食べたあとの教育理論家ならば「不安な背景」とでも呼んだであろうものをそなえていた。(p.84)
この文章からは、均等主義などという考え方は、つまるところ欠陥を抱えた人間のものなのだ、という強烈な侮蔑を感じる。翻って主人公クルークの属性を確認すると、きちんとした家庭の子どもで、身体が大きく、運動もでき、勉強では最優等の生徒だったことになっている。
そして、この考え方を敷衍して行き着く先は、スクールカースト上位の強者が必然的に勝つ、またしても意外なほどにマッチョなトランプ的世界観である。
ナボコフは、弱者の集団に敗北させられたクルークを、最後は作品世界から脱出させて救うことになる。当然、作者のバイオグラフィーを知っている我々読者は、ロシアを、そしてドイツを脱出してきた作者と重ねてみたくなる。
しかしこれではまるで、強者による弱者に対するルサンチマンではないか。
哲学者のリチャード・ローティは、次のように評して『ベンドシニスター』の後に出版される2つの作品を称揚した。
・・・ナボコフは、恍惚と感じやすさは切り離すことができるばかりではなく、互いに排除しがちでもある――オブセッションに憑かれていないたいていの詩人はシェイドと同様、二流である――ということを十分すぎるほど知っていた。これこそ、ナボコフの小説を読むことで私たちが手にすることのできる「道徳的な」知識であり、この知識にとっては、彼の審美主義的なレトリックは重要ではない。(ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』p.322)
しかし、本作では、まさに恍惚を重視するあまり、感じやすさを忘れてしまっている点でナボコフは失敗している。
まるでハンバートがカスビームの床屋の悲しみに気づいていないかのように、キンボートがシェイドの悲しみに気づいていないかのように、欠陥を抱えた人間たちの苦悩が目に入っていない。倒錯的ではあるが、『ロリータ』や『淡い焔』によって鍛えられた読者の眼には、『ベンドシニスター』の作中人物たる作者(=ナボコフ)は、まさに彼らと同じ残酷さを抱えているように見えてしまうのだ。
結局、『ベンドシニスター』から浮かび上がってくるのは、あまりにも無編集なナボコフの鏡像である。彼自身が、繊細な詩人の感性と、傲岸不遜な貴族のマッチョイズムの両面を抱えているように、作品自体もこの両方向に引き裂かれてしまっているように思われる。
やはり、ローティが指摘したように、彼自身がこの相克に気がつき、自身の鏡像を文学的モンスターとして描き出したときに、はじめて傑作が産声をあげたのではないだろうか。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆(ナボコフには他に読むべき小説が沢山ある)
・他のナボコフ小説まとめ
・ナボコフ短篇はこちらから
<<背景>>
1945-1946年に書かれ、1947年に出版された、ナボコフが「アメリカで書いた最初の」小説である。「英語で書いた最初の」小説は『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』であり、何が違うのかというと、セバスチャンの方は作家が亡命してくるその船上で既に書かれていたのである。
本文でも少し触れたとおり、ナボコフは二重亡命者である。一度目は、ロシア革命に追われロシアからヨーロッパへと。二度目は、ナチスドイツに追われヨーロッパからアメリカへと。
フランスからの亡命の前日である1940年5月20日、作家の最愛の息子ドミトリーはまだ6歳の誕生日を迎えたばかりで、しかも40度の高熱を出していたと伝えられている。そしてそれは、ドイツ軍がパリにあった彼らのアパートを爆撃する僅か3週間前のことであった。
この時の経験と、恐怖の、そして憎しみのエッセンスとが本作に加えられていることは明らかで、その濃度はハンバートに混じるドナウの水よりも濃いだろう。
本作の後『ロリータ』は1955年、『淡い焔』は1962年に出版された。
<<概要>>
全18章構成。章の上下の区切りはなく、『ロリータ』などと同様、章の長短にはかなりの差がある。
三人称視点の小説であるが、カメラはほぼクルーク固定であり、ナボコフ作品にしてはシンプルな体裁だ。場面の転換が多く、またそのために移動のシーンの多い小説でもあり、その点をじっくり検討してみるのも面白そうだ。
また、本作は彼の作品にしては「書かない」人物が主人公となっていることも指摘しておきたい。
<<本のつくり>>
いまは懐かしきサンリオSF文庫で発売されたのが最初であり、訳文は1986年のもの。もっとも、2001年にみすず書房版として出版された折に、訳文は改められているようだ。巻末の訳者あとがきを見ると、若島先生からの「指摘」も入ったそうで、その点は安心できる。ただ、若干用字や語彙のチョイスが古めかしく文語調な部分もあり、若い読者には違和感を与えるかもしれない。
ナボコフ作品にありがちなことだが、訳文中、日本語としてこなれていない箇所が散見されることは否めない。もっとも、本作は英語を基本としながらも、ロシア語とフランス語が散見される上に、ドイツ語とロシア語の混淆と思しき独自言語(英語で語注が付される)という、非常に訳しにくそうなシロモノとなっている。
みすずから出たのが2001年のため、当然のごとくHSJMであるが、数が多く出たのか、古書店で見かけることも多く入手は容易だろう。
*1:©イパンコニン, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons,
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bend_demo.svg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bend_Sinister_demo.svg
*2:クルークがパドゥクに対してつけたあだ名