世界が終わるまでは 離れる事もない
スティーヴンは頷いた。著書にも書いたことですが、大事なのは教育ではなく、モチベーションです。メンタリティーの問題なのです。それが、経済で世界をリードするアメリカ合衆国にとってどのような意味を持つのか?私たちは憂慮すべきでしょう。(p.43)
<<感想>>
前回の『死体展覧会』【過去記事】から今度は訳者繋がりのセレクト!と見せかけて実は違う。同著者の新刊がそろそろ発売するから、ここは旧作を読もう!という得意のひねくれムーヴ【過去記事】である。
そして今回のこの『断絶』、この手の感想を抱くのは久しぶりだ。
どういう感想かというと、メッチャ良い!となんとからんのか!が同居しているタイプの感想である。
中国系米国人である作者に敬意を表して(?)アメリカンジョーク風に書いてみると、「良い報せと悪い報せがあるが、どちらを先に聞きたい?」というやつだ。
―OK!この小説は、都市小説やグローバル化小説としても読めるし、仕事や働き方、母娘関係、移民やマイノリティのテーマなど、様々な主題が盛り込まれた傑作なんだ!
―でも、これらのテーマには統一感がなくて、物語が破綻しかかっているんだ。
とまぁこんな具合だ。
父と私がアメリカの市民権試験に合格した午後、父は通りの向かいにあるケンタッキーに私を連れていき、フライドチキンのデラックスセットにサイドメニューを全種類注文した。私はそこまでお腹が空いているわけではなかったが、父が自分で自分にご馳走するなんて一度もんかったから、一緒に何切れか食べて、お祭り気分で食欲旺盛なふりをした。(p.221)
まず、リン・マーの魅力として真っ先に触れなければいけないのは、オリジナリティあふれる表現だ。写真に喩えていうならば、被写体が新しい。これまでの作家が撮らなかったものを切りとっている。
「私たち」というのは、アート部門で働くほかの女の子たちのことだった。人呼んで「アートガールズ」。いつも女の子ばかりだ。仔馬のようなほっそりした脚、亜麻色の髪で二十代後半、ミュウミュウやプラダのセール品と、美術史や視覚文化論の学位を持っていて、画廊のオープニングとあれば足を運び、ピノノワールのワイングラスを軽く振ってはカナッペをちびちびかじっている。希少種のような身のこなしで、フラカの香水の匂いを漂わせる集団になって、廊下を練り歩いている。・・・依頼主は、画廊や美術館の出版部、そしてなにより重要なのは、ファイドン、リッツォーリ、タッシェンといった、光沢紙を使う大手アート出版社たちだ。(p.26)
さぁ世のおじさん諸君。ここに登場する固有名詞をいくつ知っていた?*1
もちろん、こうした描写が可能だったのはリン・マーが女性であることと無関係ではないだろう。ただ、いざこうしてごく自然なニューヨークのオフィスビル(に働く女性たち)の描写を書かれてみると、如何にパワーズ【過去記事】やピンチョン【過去記事】がアメリカの文化習俗をすべて羅列してきたかのように見えて、その実、インテリオタク的≒ナード的男性の視点でしか世を映していなかったかを明らかにしてくれる。
この引用箇所以外にも、彼女の書く「ずらずら」は実に新鮮だ。資生堂とブルーボトルコーヒーとユニクロを買うシーン(p.13)ではグローバル化を痛感するし、『ヘイロー2』、『グランド・セフト・オート チャイナタウンウォーズ』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』が列挙されるシーン(p.77)では、ビデオゲームの大衆化を感じる。
さて、ここまで触れずに来たことがある。
それは本作のストーリー的な部分、つまりはこの物語が実は「ゾンビ物」だということだ。もうちょっと固い表現にすると、ポスト・アポカリプスものと言うべきか?
何にせよ、感染症の爆発の影響で、人類のほぼ全てが死に絶え(≒ゾンビ化し)、生き残りの数名でサバイヴするという、アメリカのB級映画か、あるいはそれこそビデオゲームのネタかというのがプロットの基本にあるのだ。
ここまでこれに触れなかったのは、本作を「ゾンビ物」だと捉えてしまうと、本質を見落としてしまうと考えたからだ。
それにしても、なぜ「ゾンビ物」を選んだのだろうか?
都市小説を書こう。グローバル化小説を書こう。こう思ったとき、現実のコロナ禍を経験した我々ならば、なるほど感染爆発をプロットの柱に据えればそうしたものが書けそうだということは理解できる。
しかし、本作には、我々が経験したような、都市機能の一時的な麻痺や、グローバル・サプライチェーンへの甚大な影響といった部分が描かれることは殆どない。文学は決して予言などしないのだ。
本作で描かれるのは、感染爆発前の都市の日常と、生存者僅か数名になった後の世界だけだ。そしてその比重はむしろ前者にあるといっても良い。
確かに、感染後のゾンビが、ひたすらに感染前の日常の動作(仕事や家事など)を繰り返すという設定には、人間の営みについてのシニカルな感情を刺激されはする。
しかし、この「ゾンビ物」という大ネタからは得られている効果が他にあまり見当たらず、むしろこのネタをまとめ切れていないという印象の方が強い。
もう一つ不満点を述べると、文章としての表現力が物足りない。先に倣って写真に擬えるならば、被写体をあるがままに淡々と移す、証明写真のような文章だ。もちろん、可読性を高めるために敢えてそういう文体を選んでいるのかもしれない。ただ、飾り気の乏しい、短い文章で書き連ねられている文章は、あまり好みではない。
最後にもう一つ、美点を指摘して終わりたい。こうして文章として書き残すのは少しはばかられるが、性描写が上手いということだ。フェティシズム丸出しの男性作家の筆による描写とは一線を画し、冷静で、客観的で、視野が広く、露骨だ。
こうした描写を読むと、これまで男性作家が書いてきたのは世界の半分ほどに過ぎず、女性作家が書くべきことは山のように残されているように感じる。
このあたりの新しさはウリツカヤ【過去記事】に通じるといったら褒めすぎだろうか。
結局、長編としての総合力に欠ける一方で、細かな描写、特にその着眼点には強い魅力を感じた。私としては、ぜひとも彼女の書いた短篇を読んでみたいと思う。
え、昨日(2025/3/3)彼女の短篇集が発売されたって?
お気に入り度:☆☆
人に勧める度:☆☆☆
・新刊発売に合わせて旧作を読んだ
・イチオシ女性作家
<<背景>>
2018年刊行。著者のデビュー作になる。
中国武漢における新型コロナウィルスの初確認が2019年12月のことであるから、本作はコロナ前に書かれた作品である。
訳者あとがきによると、作者はSARSやエボラ出血熱の流行などから着想を得たようだ。
<<概要>>
全26章構成。これに加え、冒頭にプロローグが配置される。
世界崩壊後の現在パートと、感染症流行前の過去パートが交互に展開することになる。一人称小説であり、いずれも主人公は同一だ。
なお、作者は出生地こそ中国であるが、幼少期から米国で暮らしていたようで、今回のカテゴリ分けには悩んだ。しかし、基本的にいつも出生地主義でカテゴライズしているために、通例どおりアジア地域の作品に分類することにした。
<<本のつくり>>
翻訳について。別に訳文が悪いとは思わないし、可読性は高い。
だけど、どうにもしっくりこない。別に天下の東大教授に喧嘩を売るわけではないが、訳語がしっくりこないのだ。
例えば、タイトルの「断絶」。原題では"Severance"である。辞書を引けば第一義は「断絶」なので、訳語としては勿論誤りではないだろう。ただ、用例を見ればわかるとおり、この語は「解雇」という意味を含むコンテクストで使われることが多い*2
つまり、このタイトルは「働くこと」をテーマに据えている本作にとって、象徴的な意味を持っているのである。これを、直訳風に「断絶」としてしまうと、そのダブルミーニングが伝わりきらない。何か工夫が欲しかった。
この他にも、ゾンビ化した死者たちの家を物色する行為を「ぶらつき」と訳しているが*3、これも邦語の文章としてしっくりこなかった。