ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『チェヴェングール』アンドレイ・プラトーノフ/工藤順、石井優貴訳

好きな人や物が多すぎて

退屈な本は、退屈な読者から生まれる。(p.186)

<<感想>>

---どちゃくそ面白いじゃねぇかよぉ、クソったれがよぉ!---

この怪作・奇作を他の作品で例えるのは難しい。強いていえば、神の代わりに共産主義を据えたドストエフスキー作品である。あるいは、ソ連版『ドン・キホーテ』であり、赤い『ツァラトゥストラ』でもある。魔術の代わりに詩情を盛り込んだ『巨匠とマルガリータ』【過去記事】であり、こんな喩えが許されるのであれば、共産主義を探しに天竺を目指す『珍遊記』である。

そう、本作のメインテーマの一つは共産主義である。一応、哲学科を出ているから、世の中にはアルチュセールであるとか、ジジェク*1であるとか、マルクス主義を現代的にリファインしようという潮流があることも知ってはいる。しかし、私が物心ついたころにはもうソ連は崩壊していたのであって、およそこの現代日本において圧倒的大多数の人は、いま、コミュニズムを生きてはいない。

しかし、非キリスト教徒にとってもドストエフスキーの作品が価値を失わないように、『チェヴェングール』は非コミュニストにとっても極めて価値のある作品だ。

 

本書のおおよそのあらすじは、帝政末期~ネップ期のソビエト・ロシアを、主人公であるアレクサンドル・ドヴァーノフが(共産主義を求めて)遍歴する物語といえる。冒頭3ページで餓えの苦しみから逃れるために幼児が安楽死させられ、その直後には主人公の父親がキリーロフする*2という鬱アクセル全開なスタート。プラトーノフめ、なかなかやりよる!

しかし、敢えていうまでもなく、本作の魅力はこうしたプロット的記述ができる部分にあるのではない。本書の魅力をワンワードで示すならば、「渾然一体」である。その渾然一体の魅力を、感想を文章化する便宜のために強いて分化して、「笑い」「思索」「文体」の3つに分けて書いてみたい。

1.笑い

のっけからの鬱展開にもかかわらず、本作にはコミカルなシーンがかなり多い。ていうかぶっちゃっけ共産主義、若干馬鹿にしてるよね?

この笑いのシーンを主として担っているのが、本作に登場する様々なサブキャラクター達である。上品にいえば幻想的、平たくいえばカッとんだ人物ばかりが次々に出てきて、バルザックの人間喜劇もびっくりである。

挙げ出せばキリがないが、耕作をやめ、土を直接食べるようになった「神」(p.123)とか、白軍の無線信号を妨害すべく、サーベルで空気を切り裂くコピョンキン*3(p.169)、横たわって転がり、それから足で立って歩くことを繰り返す「旅人」などがお気に入りである。

「あんた、馬鹿か、何やってるんだ?」・・・

「同郷の人よ、おれはごろごろ転がっていくんだよ」。旅人は説明した。(p.171)

そうそう、全裸に鎖帷子の紳士ことパシンツェフ*4なんてのも。

パシンツェフは、貧窮、つまり共産主義のために、裸足かつ裸で歩いていくのだと考えることにした。だから未来に出会うべき女性に気兼ねすることはなかった。

・・・それでもパシンツェフはすこし気まずくなり、鎖帷子と額の覆いを身につけたが、身体の大多数は裸のままだった。(p.328-329)

そしてイチオシは「フョードル・ドストエフスキー」である。いやこれ、れっきとした登場人物の名前である。この人物、郷革命委員会の全権委任代表なのだが、「ドストエフスキー」が無学な無戸籍者である「ミカンセイ」に共産主義の矛盾を論詰されるという、なかなかカオス度の高い展開になるのだ。

ところで、ここで本当に特筆すべきなのは、先ほど私も使ったような「上品にいえば」と「平たくいえば」の差異である。本作の際立った特徴として、地の文の流麗で美しい描写と、会話文の野卑た文章とのコントラストが挙げられる*5。先述のバグった人物造形と、この野卑た語りとが、読み手に対して画太郎的なインパクトを与えてくれる。

丸ごと快適に設えてある世界などぶち壊したほうがマシであり、その代わりに、剝き出しの秩序の中で互いが互いを獲得する、そんでもって、万国のプロレタリアたちよ、とっとと団結せよ!おれの話は以上だ、・・・(p.415)

庶民の会話をほんとうの庶民の言葉*6で描いた文学作品を私は他には思い当たらない。唯一、方言の語り、作家の表現、官僚の文書の三重奏を描いた石牟礼道子が思い当たる程度だ。

2.思索

本作でもっともわかりやすく注目を集めそうなのはこの部分だろう。ただ、その内容がわかりやすいわけではない。

時代背景からして、当然、表面上の言及としては共産主義に関するものが多い。しかし、良い意味で作者の思想の解像度が低く、あるいは、思想的な没入度が深いため、その射程は極めて広い。また、本作は文学作品であり、思想・哲学のための著作に比べて、読者との協同に委ねられている部分が大きい*7

例えば、物語の後半、ドヴァーノフは既に共産主義が実現されているというフレコミの町、「チェヴェングール」に行き着く。ところが実際のこの町で形成されているは、原始共産制的な状態か、あるいはそれよりさらにプリミティブな社会である。こうすると、「チェヴェングール」を、一つの自然状態に関する仮説―ホッブズ、ロック、ルソーらの社会思想や、『十五少年漂流記』、『蝿の王』、『漂流教室*8などの文学作品の系譜に連なるものとして読むことが可能である。

この他にも、男性支配の社会と女性との関係、作為(人為)と自然との関係、ロシア的情緒である「タスカー(虚しさ)」*9など、考察のし甲斐のありそうなテーマが並ぶ。

3.文体

毎度のことであるが、基本的に当ブログが書きたいのはだいたいは文体のことである。そして、プラトーノフが強烈なのもまさにこの部分である。

まず、基本的な描写力、あるいは詩的センスの足腰がもう抜群に素晴らしい。もうわかる人にしかわからないが、藤井聡太先生の終盤力くらいのぶっちぎりの素養だ。引用したい箇所が多すぎて付箋が足りなくなりそうなくらいだが、序盤から一つ。

朝になると大きな太陽が昇り、森はその繁みの全体で声を出して歌を歌い、朝の風が木の下葉のその下を吹き抜けてゆくにまかせた。ザハール・パーヴロヴィチは朝の訪れよりも、働き手の交替に注意を払った―雨が土の中で眠りに就き、雨に替わって太陽が出たのだった。太陽から忙しげな風が立ちのぼると、樹々は振り乱れ、草や藪が何ごとか呟きだした。それから雨粒そのものさえもがむずがゆいような暖かさに目を覚ますと、息をつく間もなく、ふたたびその足が立ち上がり、身体をとり集めて雲へと戻っていった。(p.11)

もう情景描写が、地の文が、このレベルのクオリティなのである*10

文学好きが喜びそうな警句的な短文も、ほんとうに数多く登場する。

「苦しむときくらい好きにさせろよ、畜生」。(p.21)

単に給料のためであるならば、釘の頭を正確に叩くことさえ難しいと分かった。(p.64)

「・・・人間は誰しも、下[しも]に帝国主義を宿しとる・・・」(p.88)

「法が始まって、人と人のあいだに差異ができた―まるで何かの悪魔が人間を秤に掛けたようにな・・・」(p.210)

ライトモチーフの使い方も実に見事だ。靴・ブーツ、太陽、機関車、十字架*11などなど、触れたい小主題は沢山あるが、次の箇所が最も高度で、プラトーノフらしさが溢れているように思う。

朝が近くなると、星を戴く偉大さの中で世界は零落し、ちらちらと明滅する輝きがぼんやりとした灰色の光にとって代わられた。華麗な騎兵のように夜が去って、勤労と行軍の一日という歩兵が大地に姿を現した。(p.219)

①そのまま詩情あふれる美しい夜明けの描写として読むだけでも、レベルの高い文章である。②これを隠喩として考えると、この「星」は、ソヴィエト国旗の星、即ち共産主義の勝利の象徴と考えるべきである(p.461)。他方、「ちらちら明滅する輝き」は、この2ページ前の描写を踏まえると、民衆の家のペチカの光と同定できる。③この描写は、作中年代として、権力が農民から食糧の割当徴発を行っていた時期に照応する。そうすると、華麗な騎兵=革命が去ったあとの権力の行いに対する批判的な文章として読解することが可能だ。

つまり、プラトーノフは、このわずか3行に詩情と隠喩と思想性を同時にぶち込むという離れ業をやってのけているのである。

 

ここまで、「笑い」「思索」「文体」の3つに分けて感想を示したきた。しかし、プラトーノフの本当の魅力は、こうした還元的な各要素にあるわけではない。まさに最後に紹介した文章と同様に、これらの各要素が渾然一体として、不可分の小説空間を作り上げているところにあるのだ。

 

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(要・鈍器耐性)

 

・同時期の傑作

・本気でレーニンを笑いに行く作品が読みたいなら

<<背景>>

1927-29年執筆、完全版の発表は1988年とされる。

巨匠とマルガリータ』も同じころの1928年に書き始められたが、完成は1940年頃とされる。発表はこちらのが早く、1973年には発表されている。

そもそも、今回私がこの作品を読もうと思ったのは、プラトーノフが1899年生まれであるからだ。そう、我らがナボコフ先生と同じ年の生まれである。貴族生まれのVNと、庶民の生まれのプラトーノフ。祖国を奪われた作家と、コミュニズムの中に生きた作家。この比較に俄然興味が湧いたためだ。

もう今回とても長くなったので、書きたいことの10分の1で我慢するが、ナボコフ先生がやっと『キング、クイーン、ジャック』【過去記事】や『ディフェンス』【過去記事】を書きあげた頃に、既にこのレベルの大作を書き上げていたというのは、本当に驚異的だ。とても三十歳そこそこのワカモノが書き上げたとは信じられない。

VNが後に自作がハリウッドで映画化され、アメリカで資本主義貴族に返り咲いたのに対し、プラトーノフが戦時の負傷や結核を原因として病没するのも、対照的な生涯である。

なお、作中ボリシェヴィキの敵対勢力として立憲民主党(カデット)への言及が見られる(p.341)。ナボコフの父は、このカデットの重鎮であった。

また、『罪と罰』やチェルヌイシェフスキーのへのオマージュっぽい箇所も見受けられたが、ロシア語が読めないため、自信が持てない。

 

<<概要>>

全3部構成。部の下に章の区切りはない。ところどころに行アキが設けられているが、解説によると、訳者の配慮によるもののようだ。

行アキをひとまとまりとして一章と数えると、私が数え間違ってなければ、それぞれ9章、8章、12章構成となる。以下、この行アキを便宜的に章として数えるが、各章の分量にはかなりの開きがあり、各部の分量としては、1部<2部<3部となり、3部だけで全体の半量近くを占める。

大略、第1部が主人公の出生~旅立ちまでで、帝政末期~革命期を扱う。

第2部が主人公の遍歴時代で、内戦~食糧徴発の時期だ。『ドン・キホーテ』的な体裁をとるのはこの第2部で、笑いどころもここに集中する。

第3部は、共産主義ユートピア/ディストピアである町チェヴェングールへの到達を扱う。おおよそネップ期が照応する。

生成史的には、第一部のテクストが最も遅く完成したようである。挟み込みに訳出されている書評では、第一部が素晴らしく、残りは余り物であると評されているが、さすがに言い過ぎだろう。ただ、第一部が最も素晴らしく、次に第二部が面白く、第三部はやや凡庸あるいは冗長というのであれば同意見だ。第一部のテクストが最も緊密で、かつ詩情にあふれているように思う。特に第1部8章は、機関車のモチーフが衝突という事件に発展し、死の場面、生の場面を描出して閉じるという見事な構成で、出色である。

 

<<本のつくり>>

本作の初訳である。最近になって、海外文学の訳者が私より年下であるという事態が生じるようになってきたが、本作もその例に該当するようだ。そしてなんと、共訳者の一人が、在野の方だという。もちろん私にそんな芸当ができたとは思えないが、院進の道を諦めて、資本主義に魂を売却した身としては、賞賛と羨望と嫉妬が渦巻く気持ちだ。

訳文を評価する資格はないが、堅牢かつ抒情性豊かな地の文の上に、マッドでカオスな会話文が乗るというこの特異なスタンスは訳文からもビシバシ伝わってくる。

訳者あとがきの「翻訳があれば、読者が生まれ、その中から研究者が生まれるでしょう。研究も前進するはずです。」という文章からは、翻訳に懸ける熱意が伝わってきて、とても信頼できる。

割注と脚注の使い分けも素晴らしく、挟み込み冊子の書評や地図、人物一覧など、細かい配慮も至れり尽くせりである。

表紙カヴァーについては、シュルレアリスティックな絵もさることながら、ポップなフォントが素敵である。

 

*1:本書の帯のアオリもこの哲学者のものだ

*2:ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物より。思弁的な理由により自殺する。

*3:実は主要人物

*4:実は主要人物その2

*5:感想の冒頭の文章はその稚拙なパスティーシュ

*6:より正確には、その野卑た語り口の中にお堅い共産主義用語が入るという奇怪な言葉

*7:その意味ではとてもツァラトゥストラ的である。

*8:楳図作品は文学作品です。断固。

*9:「タスカー」は、チェーホフの『ふさぎの虫』の原題である。タスカーという概念の翻訳困難な側面や、語義などについては、沼野充義訳『新訳チェーホフ短編集』所収「ロシアの「トスカ」」という論考に詳しい。

*10:後述のとおり、第1部がもっともハイクオリティだが。

*11:重要なライトモチーフで、序盤の十字架の無い父の墓(p.12)から登場する。星のモチーフと対立する信仰の隠喩としても機能する。星と十字架の主題が交錯するp.461や、それを受けてのp.537等も本書の白眉の一つであると思う。