ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『幸福なモスクワ』アンドレイ・プラトーノフ/池田嘉朗訳

And let me play among the stars

「俺は別に、」とコミャーギンは言った。「俺はだって、生きているわけじゃない、俺はただ人生に巻き込まれただけなんだよ、どうしてだか、この件に引っぱり込まれたんだ…でもまったく無駄にね!」(p.106)

<<感想>>

これはなかなかに難しい本だ。

恐らくは多くの方と同じように、私は『チェヴェングール』【過去記事】を読み、それが面白かったことに気を良くして本作を読んでいる。しかし、『チェヴェングール』と本作では度数が違う。まるで『チェヴェングール』を蒸留してできたのが本作であるかのように、その度数はかなり強い。

何の度数かというと、それは作中に漂う「タスカー(虚しさ)」の度数である。

豊富なパンチラインこそ健在であるが、その蒸留の過程で、物語性や笑いといった要素は蒸発し、消し飛んでしまったかのようだ。

タイトルである『幸福なモスクワ』の「モスクワ」は、街の名前だけでなく、作品の主人公の名前である「モスクワ・チェスノワ」(女性)も指す。

大まかなあらすじとしては、孤児であったモスクワが成長してパラシュート士となるも、事故によって職を転々としつつ、様々な男性と関係を取り結んでいく、と要約することができそうだ。しかし、物語の実相としては、モスクワの他、モスクワを愛することになる技師サルトリウス、医師サンビキン、後備役*1コミャーギン等の主要人物による「タスカー」表象を本質とする作品である。

以下ではまず、『チェヴェングール』から蒸留して残った本作の味わいを検討する。

そして、プラトーノフからテクストを奪い取った上で、いくつかの補助線を引き、本作の現代的な意義を探ってみたい。 

なお、くどいようだが本作はストーリー性に乏しいため、以下では、物語の脈絡をあまり気にせずに引用していくことにする。

1.孤児と家族の崩壊

この記事の冒頭でも使った「タスカー(虚しさ)」とは、ロシア文学通にはお馴染、翻訳しづらいとされている言葉だ。おおむね、何かの欠落からくる喪失感と、その反動としての憧憬、希求感を意味する言葉のようだ。

本作に漂うタスカーの背景に、家族の崩壊があるのは疑い得ないだろう。まず、主人公であるモスクワは明確に孤児として描写される。そしてその他の主要人物もほとんどが独居であり、孤独感を抱えている。恐らく、こうした感覚は、内戦、革命後の混乱、そして粛清の時代を経たソ連社会の現実的感覚だったのだろう。

真の共産主義的社会であれば、それは同志的結合によって作られた社会的紐帯によって代替されるるはずである。そして、プラトーノフは社会主義にも、共産主義にも、スターリンにも賛意を示しており、恐らくそれは彼の本心であったのだろう。

しかし、作家としての才能がその矛盾ないしは失敗を、図らずも(?)抉り出ししまっている。

例えば、革命家のボシュコという人物。彼は、夜ごと世界中の社会主義者に向けて、連帯を示すための手紙のやり取りをすることを歓びとしている。しかし、その心情は微妙である。

ところが夜が明ける頃、人類への郵便の準備を済ませてしまうと、ボシュコは泣き出した。モスクワの心臓が、大気の自然のなかを飛びまわることはできても、彼を愛することはできないことが、彼には悲しくなったのだった。(p.19)

物語の終盤、技師サルトリウスが夫婦喧嘩をする場面がある。この妻というのは、上司アラーボフの元妻であり、彼は不貞のためにこの女を捨て、そしてサルトリウスはただ苦悩を分かち合うために、この女の押しかけ夫となったのだ。

・・・集会ということも彼女は信じず、二番目の夫もやっぱりろくでなしで彼女を裏切っているのだと、泣いて罵りはじめた。それでももし夫の帰りが遅れるとマトリョーナ・フィリッポヴナはドアを開け放つやいなや、手当たりしだいの物で彼を打ちはじめるのだった――古い長靴でも、服がかかったままのハンガーででも、かつていつだったかサモワールであったものの管でも・・・(p.193)

周知のとおり、サモワールはかねてからロシア文学において、家族的幸福の象徴として扱われてきた道具である。そのサモワールが、既に単なる管になり果て、夫婦喧嘩の道具として投げつけられるのは、実に象徴的である。

プラトーノフ自身が明確にそのように意識していたのかは不明であるが、家族の崩壊によって生じたタスカーは、登場人物たちの願いに反して、社会主義によっては埋められていないかのように読みとれる。

2.性愛×共産主義

もう一つ、本作の重要なテーマの一つに、性愛と共産主義との緊張関係が挙げられる。

これは、『チェヴェングール』の第三部でも描かれていたテーマであるが、どうもプラトーノフにとって大事なテーマだったようだ。本作では、性愛は乗り越えられるべき対象として考えられている。そうした考え方は、例えば、次のような箇所に現れている。

「・・・どうして人々は互いに生活がうまくいかないのか。どうしてかっていえば、愛では結びつくことができないからよ・・・」・・・

愛は共産主義にはなれない。あたしは考えて、考えて、わかったんだ、なれないって・・・」

・・・彼は、モスクワの痛ましい省察を理解していた、つまり最良の感情は、ほかの人間をわがものとすること、第二の見知らぬ人生の苦難と幸福をわかち合うことにあるのだが、抱擁のなかの愛は子どもらしい至福の歓び以外には何も与えてくれなかったし、相互存在の秘密に対する人々の憧れという課題を解決することもなかったのである。(p.83、強調は引用者)

しかし、そう一筋縄にはいかないむずかしさが、本作の登場人物たちの苦悩から滲み出ている。

「私はしばしばこう望んだものです――すべての人々が一斉に死んでしまえばいい、それで私が朝目覚めると一人だけ。でも、ものはすべて残ってるんです、食べ物も、すべての家も、あとそれに――ひとりぼっちのきれいな女の人が一人、彼女もやっぱり死なないで、それで私たちは出会い、ずっといっしょになるんです…」(p.124)

3.ロシア宇宙主義(コスミズム)

最後に触れなければならないのが、ロシア宇宙主義(以下、「コスミズム」)との関係だ。コスミズムについての説明は私の能力を超えているので、ぜひプラトーノフ『不死』の訳者解説か、Wikipediaの記事をお読みいただきたい。

乱暴に要約すると、まず、この言葉は、特定の運動や学派を指す言葉ではなく、この時代の思想家たちに見られるある潮流について、後世名づけられた名称である。その潮流とは、人類の進化、それによる自然や重力の克服と、不死、そして死者の(文字通りの意味での)復活が中心的な考え方であるとされる。

こうした、宇宙主義的な考え方も、本作の随所に現れている。ひとつは、死者の躰から生命の秘密を探る医師サンビキンである。

彼は・・・未来の不死を見つめていた。彼は、生命の長く続く力、あるいはおそらく生命の永遠を、斃れた生物の死体から手に入れることを望んでいた。(p.65)

あるいは、次のような描写もある。

ムリドバウエルは、近い将来の成層圏の征服と、空中の不死の国がある、世界の青い高みへのさらなる侵入を予言した。そのとき人間は有翼となり、大地は動物たちに遺され、ふたたび、永遠に、太古の乙女のごとき密林が生い茂るだろう。(p.68)

4.テクストを奪い取る

さて、以上のとおり、本作は、20世紀初頭ソビエトを舞台にした、タスカーと理想主義(共産主義、宇宙主義)の狭間を描いた作品である。このように要約してしまうと、特殊な世界の特殊な物語のように思えてしまう。

しかし、いくつかの補助線を引くことにより、本作が内包する普遍性が明らかになるように思われる。

一つ目の補助線として、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~)を考えてみたい。良く知られているように、同作はロボットアニメであるが、登場人物たちの内面にスポットを当てると、次のような物語であると要約できる。主人公のシンジ君は、父に捨てられた過去を持ち、他者との関わりあいを恐れるようになった、心に壁を持つ少年(14歳)である。彼は、同じように心にタスカーを抱える大人たちによる、「人類補完計画」に巻き込まれていく。彼はそれを完遂するキーマンとなっていくのだ。物語の終盤に、その計画とは、人類の肉体的な壁を取り払い、単一の精神的な存在へと進化・融合しようとするものだったことが明らかになる。

本作は、アイデンティティの喪失を描き社会的ブームを引き起こしたとまで言われる。ところが、ここに要約したとおり、そこに描かれている思想は、タスカーとコスミズムそのものである。以下は、アニメのセリフからの引用である。

「虚無へ帰るわけではない。全てを始まりに戻すに過ぎない。この世界に失われている母へと帰るだけだ。全ての心が一つとなり、永遠の安らぎを得る。ただそれだけの事に過ぎない」

「そうよ。私たちの心には常に空白の部分、喪失した所があるの。人は誰しも心の闇を恐れ、そこから逃げようと、それをなくそうと生き続けているわ。人である以上永久に消えることはないの」(25話より)

言っている中身が完全にプラトーノフである。つまり、『幸福なモスクワ』に描かれている登場人物たちの葛藤と渇望とは、現代人にも十分に理解可能であると言えるだろう。

さて、『新世紀エヴァンゲリオン』では、最終的にシンジ君が、他者との葛藤を抱えてもなお、他者と共存することを望み、計画は失敗に終わる。ただ、そのときシンジを支えていたのは、結局は性愛と愛情とであり、それさえも否定するプラトーノフ的タスカーの解決とはならない。

5.さらに奪い取る

さて、ここでもう一作目を向けたい作品がある。それは、「人類補完計画」の元ネタの一つともいわれる、アーサー・C・クラーク幼年期の終わり』である。

この作品も、やはり人類の進化を扱ったものである。宇宙から来た「オーヴァーロード」と呼ばれる宇宙人は、人類の進化を見守るために、後見的に人類の監督を行う。やがて進化が始まった人類は、肉体や個としての意識を失い、単一の精神体へと収束していくのである。

実は作中、この精神体へと統合されるのは、子どもたちに限られる。既に個としての精神が確立されてしまった大人たち「旧人類」は、進化することが出来ないのである。

エヴァンゲリオン」と異なり、同作での進化が止まることはない。しかし、最後に残された「旧人類」ジャン*2による、印象深いシーンがある。

余生を過ごしていけるだけの物資はある。何より欲しかったのは、電子ピアノとバッハの楽譜だった。これまでは音楽に時間を費やすことができなかった。それをいまから取り返そうと決めていた。・・・彼のヴィラに音楽が聞こえていないことはなかった。音楽は、いつか彼を屈服させるに違いない孤独から身を守る護符のようなものだった。(光文社古典新訳文庫幼年期の終わり』p.405、強調は引用者)

つまり、同作においては、未完成な人類の欠落を埋めるのは、音楽=芸術なのである。

実は、『幸福なモスクワ』においても、ところどころにこの音楽の表象が顔を覗かせる。プラトーノフの音楽に対する考え方は微妙で、読み取りづらいところではあるが、肯定的に描いているようにも思える。

あらゆる音楽は、もしそれが偉大で人間らしいものであったならば、モスクワにプロレタリアートのこと、・・・彼女自身のことを思い起こさせた、そして彼女は領袖の演説として、また、彼女がいつも言わんとしているが、決して声に出しては言わない自分の言葉として聞いた。(p.35)

現代社会において、「領袖の演説」が人々のタスカーを埋めることはないだろうし、もしそのような状況が起るのならば、その社会が危険であることの兆候だろう。私としては、そうした「領袖の演説」よりは、音楽=芸術にこそ、タスカーを乗り越えるためのよすがを見出してみたい。

あるいは、革命の理念では結局タスカーが埋め合わされていない点で、ヴェイユの洞察こそ正しかったとみるべきだろうか。

民衆のアヘンは、宗教ではなくて、革命である。(『重力と恩寵』)

 

お気に入り度:☆☆☆(チェヴェングールのが好き)

人に勧める度:☆☆(内容的にも文体的にも難読)

 

・チェヴェングールはこちら

ミノタウロスシリーズはこちら

<<背景>>

1933-1936執筆。いわゆる大テロルの時代が幕を開けようとしている頃である。

作家はその後、独ソ戦への従軍がきっかけで、宿痾となる結核に罹患し、1951年に死去する。

コスミズムの一部はやがてボリシェビズムへと取り込まれ、米ソ間の宇宙開発競争に火をつけることになる。作家が無くなった翌年、こうした宇宙開発競争を背景にして米国で描かれたのが、『幼年期の終わり』(1952)である。

やがて1991年、ソ連邦は音を立てて崩壊し、大きなイデオロギーの一つが失われる。また、同年から93年にかけて、いわゆるバブル崩壊により、右肩上がりの成長を描いた資本主義の物語も終焉を迎えた。そうした社会状況のもとに生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(1995~)である。

<<概要>>

全13章構成。章の上下に区切りはなく、章題も付されない。

いわゆる三人称小説である。各章ごとに場面が大きくかわり、それぞれの章で焦点人物が入れ替わるなど、いわゆる群像劇風の仕立てになっている。

概ねモスクワが主人公と言って良いだろうが、モスクワの話は12章で終わり、13章はサルトリウスの物語となっている。

この技師サルトリウスは作者プラトーノフが投影された人物であるという。13章で、サルトリウスが身分証明書を入れ替えるシーンは、同時代を描いた『巨匠とマルガリータ』【過去記事】も彷彿とさせる。

なお本作は、推敲が完全ではなく、未完成作品とみなされることもあるそうだ。

<<本のつくり>>

本作の難しさの原因の一つは、プラトーノフの独特の文体にある。通常であれば句点が付されるべき箇所が、読点で済まされていることがとても多いのだ。『チェヴェングール』では恐らく「蛮勇」を振るわれていたであろうこうした部分が、本作ではむしろ精緻かつ忠実に訳出されている。

また、先述のとおり本作は未完成作ともみなされており、原稿に複数のバリアントがあるようだ。訳書ではこうした部分も訳注で補っているため、一般読者にとって重要な語釈的な訳注が埋もれてしまう結果となり、この点はやや煩瑣である。

巻末には数十ページにわたる訳者解説が付されており、特に作家論が充実している。作品の解釈については、感想で示したとおり難解なものである。同様のテーマが作家の初期作品群にクリアにあらわれているため、併せて『不死』(未知谷)を参照するのが良いように思われる。

*1:軍役登録さえしていない者、といった程度の意味で、平たくいうと当時の非国民である。

*2:プラトーノフに同名の人物を主人公とする同名の作品があるのは偶然である。