今心が何も信じられないまま
外の野原は、ようやく長い眠りから目覚めようとしていたし、夜明けの光がまるでサーベルのように山々の頂きを切り裂いていた。日差しを浴びてぬくもった大地からは、夜露が白い水蒸気となって立ちのぼり、まわりの事物の輪郭をぼかしていたので、あたりの風景は夢にでてくる情景のように思われた。・・・あたりは静寂に包まれており、眠り込んでいる広い空間の中で聞こえるものと言えば、彼女の踏みしだく落葉と枯枝の折れる音だけだった。(p.196)
<<感想>>
文学の世界では偶にこうした突然変異的な天才が出てくるから困る。
こういう表現を使った場合、普通は全然困ってもいなくて、単に褒めるための表現なんだけど、今回は本当に困っている。なぜかというと、著者が天才なことも、広く読者を獲得したことも、人気作品であることも十分理解できるのであるが、こと私には合わなかったからである。「合わない」というのであれば、過去にフォークナー【過去記事】を取り上げたときもそう感じたが、今回のアジェンデの場合、「合わない」を通り越して、私には正直つまらなかった。
この『精霊たちの家』を語るのに、ガルシア=マルケスを、あるいは『百年の孤独』【過去記事】を避けて語るのは難しい。同じラテンアメリカの作品*1で、マジックリアリズムの手法を使い、一族の盛衰を描いた物語だからだ。
しかし、似ているのは実は外側、つまりこの三行足らずの乱暴な要約の範囲内だけで、読み味は全く異なる。
まずはこの厄介な「マジックリアリズム」から片づけていこう。マジックリアリズムとは、伝承・神話・魔術などの非合理・非現実とリアリズムの手法が融合した作品を示す。こうした手法を用いた作品の代表とされるのが、『百年の孤独』である。
たしかに、『精霊たちの家』でも、三世代にわたる主役格の女性の一人目であるクラーラは、テレパシーや念力を使い、精霊たちと会話をしたりもする。しかし、私の見るところ、本作は本質的にはリアリズムの作品である。
なぜかというと、本作では、魔術的なものとそうでないものは明確に区別をされ、ストーリーはまるでハリウッド映画のように、極めて理性的かつ論理的に展開される。つまり、物語自体は極めて非魔術的であり、小道具として魔術が用いられているに過ぎないのだ。さらに突っ込んでいえば、おおよそ物語作品などという虚構である以上、語義通りのリアリズムなどおよそ不可能である。わずか数名の手勢で悪代官の手下をすべて屈服させたり、22時30分に犯人を体よく崖に追い込んだりする程度のマジックであれば、たいていのフィクションで用いられているはずだ。
本質的にもマジックリアリズムである作品は、その文体もストーリー展開も超自然的で、カオス感満載で爆発的なものである。この意味で、『百年の孤独』は、同じラテンアメリカの作品よりもむしろ、ブルガーコフ【過去記事】と読み味が近い*2。あるいは、作品の出来はともかく、『やし酒飲み』【過去記事】のような作品こそ、マジックリアリズム的である。
他方、私が本作と読み味が近いと感じたのは、『ジェイン・エア』【過去記事】である。
一つ目の類似点は、その圧倒的なプロットの推進力である。冒頭、私は著者アジェンデを天才と評したが、それは、物語を綴る力に対する比類なき才能に対してである。ロビンソン・クルーソー【過去記事】でも指摘したアオリの手法が頻繁に用いられ、読者の興味を引っ張り続ける。本作はかなり長い作品であるが、読み通すことを苦に感じる人はあまりいないのではないだろうか。
ただ、私が求めているのはその反対で、むしろ引っ掛かりや躓きのある文章である。読者に納得ではなく疑問を与え、想像力と思考力を要求する文章である。物語だけがどんどん進んでいく文章だなんて、まるで同じ味のわんこそばを延々と喉に流し込まれているような気分になる。
二つ目の類似点は、原始的なフェミニズムの表出である*3。ただ、ジェイン・エアで表明された「女性の自立」よりも、本作はさらに強力だ。
若い頃は金もなければ、後押ししてくれる名親もおらず、誇りと野心だけが頼りだった。その頃に彼は、今に人に尊敬されるような金持になってやると心に誓った。中年になってようやくその夢が実現したが、ふと気がついてみると、以前と同じで相変わらずひとりぼっちだった(p.302)。
ここに引用したのは、語り手の一人で、前出のクラーラの夫であるエステーバン・トゥエルバについての言及である。この人、フェミニストの敵を具現化した某元総理大臣みたいな家父長おじさんなんだけど、ちょっとあまりにも造型が単純である*4。
引用に代表されるような、「俺は〇〇のためにこれまで〇〇してきたのに・・・」的中年男性クライシスって、これまでどれほどの作品で表現され続けてきたのだろうか?
このほかにも、男性の登場人物が否定形象として描かれることが多く、安直な二元論に堕している嫌いがある。むしろ面白いのは、文章が感情的なブロンテの方が冷静で、文章が冷静なアジェンデはそのあたり感情的に見えるところだ。
最後に、作品としては好みでないながらも、好感触を抱いた部分をご紹介したい。
一つ目は、冒頭に引用した、作中数少ない息の長い情景描写の部分。
二つ目は次の引用の箇所。これは結婚式のシーンだけど、文学作品の中に出てくる饗宴のシーンはなんかお気に入りだ。
庭園の中に円形に並べられたテーブルの上には、種々のハーブで味付けした肉や新鮮な魚介類、バルチック海のキャヴィア、ノルウェーの酒、トリュフを詰めた鳥をはじめ、外国産の種々のリキュール、シャンパン、さらには一口サイズのスポンジケーキやミルフィユ、エクレア、シュガーケーキが山のように積まれ、クリスタルの容器にはシロップをかけた果実やアルゼンチンのイチゴ、ブラジルのココヤシの実、チリのパパイヤ、キューバのパイナップルが盛られ、ほかにも数えきれないほどの珍味佳肴が並んでいた。そしてテーブルの端には、・・・ナポリ生まれのケーキ職人が作った三層の巨大なウェディング・ケーキが置いてあった。その職人は卵と小麦粉と砂糖だけを使って、神話の中に出てくるふたりの恋人、ヴィーナスとアドニスが休んでいるアクロポリスの神殿を作り、そこにメレンゲの雲を飾った。(p.288)
今回は辛口の感想となったが、決して悪い作品ではない。ストーリー性に満ち、海外文学らしい異国の歴史が感じられ、しっかりしたメッセージ性も感じられる。そんな作品をお求めの方には自信をもって勧められる内容だ。
お気に入り度:☆☆(だいぶ☆1寄り)
人に勧める度:☆☆☆
<<背景>>
1982年発表。著者のデビュー作にあたる。
作中の舞台は直接言及されないが、著者の故郷であるチリであることが仄めかされている。「ヨーロッパでの戦争」や、地震に関する言及などから、物語の開始時点(クラーラ7歳)ではおおよそ1910年前後と特定しうる。収束は、チリクーデターの発生した1973年だ。
ラテンアメリカ文学のブームを引き起こしたと言われる『百年の孤独』の発表は1967年、リョサの『緑の家』も1966年発表だから、本作はだいぶ後発と言って良い。
いつも本欄では、文学史や影響関係に言及することにしているが、この作品では作中に他の作品への言及・引用は私の気づいた範囲ではほとんど見られない。私の好きなお決まりのシーンとして作中の本棚の描写がある。本作でも本棚が出てくるのだが、そこに並んでいるのは、特定できた限り、いくつかの児童向けの作品と、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』程度だった。
面白いのは、「パンタグリュエル的な披露宴」(p.125)という表現が出てきて、引用というよりむしろ、「パンタグリュエル」が一般名詞化していたところだ。
<<概要>>
全14章+エピローグの15章構成。章の下には時折行アキで区切りが設けられる。
物語は、クラーラ、娘ブランカ、孫娘アルバの三代の女性を軸に展開する。クラーラの夫であるエステーバン・トゥエルバも重要人物であり、語り手の特権を与えられる。
本作は基本的にいわゆる神視点の小説であるが、ところどころでエステーバンの一人称語りが挟み込まれる構成となっている。
<<本のつくり>>
元の文章が平易なのだろうか、それとも訳者の功績なのだろうか?
いずれにせよ、抜群に読みやすい文章である。いっそ読みやすすぎて不満なくらいだ。訳文は1989年とのことで、必ずしも新しくはないはずなのだが、古さは全く感じない。
解説がなんだか妙な文章で、いやいやアジェンデとガルシア=マルケスとは別物なんです、と主張したながら、ガルシア=マルケスの魅力を語って終わるという謎展開になっている。
なお、私は全集版で読んだが、同じ訳者ですでに文庫として発売されているようだ。