投げ出さないこと信じぬくこと
「パタゴニア!」彼は叫んだ。「手ごわい女主人だ。彼女は魔法をかける。魅惑的だ。君をその手でとらえて、けっして放さない」(p.47)
<<感想>>
私は旅行が苦手だ。
長距離の移動もさることながら、"sight-seeing"に興味が持てないのだ。そりゃ、デン・ハーグとか、サンクトペテルブルクとか、行ってみたい都市はある。でもそれは、都市ではなくマウリッツハイス美術館やペトロパヴロフスク要塞に行きたいのであって、何ならどこでもドアでもあれば、帰りのごはんは富士そばだって構わない。
それに、『パタゴニア』である。えーと・・・、アウトドアブランドの名前になっていて、風光明媚な景勝地で、雪山があって・・・どこでしたっけ*1?
このため、実は読み始める前はかなり警戒をしていた。そして読み始めた当初は、やはり自分には向いていない作品なのではという疑惑との戦いであった。しかし、期待は良い方向に裏切られた。その決定的な理由は、本作が全く紀行文学ではないことである。
一応、冒頭は、語り手がパタゴニアへの旅を決意し、出かけ、現地の人々と話をする流れからスタートする。ところが、土地の風景や産物への描写は乏しい反面、一つの語りがまた次の語りへと次々と流浪する。旅の話だったはずが、一つの物語へ、物語が別のサブストーリーへと展開していくのだ。このため、作中の時系列は語りの時点からあらぬ方向への跳躍を繰り返していく。
そこで表現されるのは、パタゴニアという土地そのものではなく、土地の記憶、そして人々の記憶である。
1.歴史・政治
まずそこで表現されるのは、意外なことに歴史や政治の問題である。
目につくのが、人々のバックボーンだ。複雑な歴史的背景のため、インディオはもちろん、ガウチョやボーア人など、混血の民族が登場する。語り手は「イギリス人」であるが、「ウェールズ人」、「スコットランド人」は区別されて現れる。そこでは、ヨーロッパでの革命や戦争を背景に、ロシア人、ドイツ人、リトアニア人なども暮らしている。
書かれたのが東西冷戦期であるため、遠景にはイデオロギー対立もちらつく。国内での労働者の暴動や、隣国チリでの革命にも話題が及ぶ。
そうして、様々な人種・民族・イデオロギーの人々の「語り」が綴られていく。
「西欧は食われるべきね。イギリスを例にとってごらんなさい。同性愛を黙って許している。胸が悪くなるわ!ひとつ思うのは・・・ひとつわかっていることは・・・文明の未来はスラブ人の手にあるってことです」(p.92)*2
「もっともすぐれたふたつの民族が、互いを滅ぼしあったのだ。イギリスとドイツが一緒になれば、世界を支配できただろうに。今はパタゴニアでさえ、原住民のものに戻りつつある。情けないことだ」(p.97)
キャリバン 従わずばなるまいて。あいつの魔法は大変なものだ。おれの神様セテボスだっていいようにされて、手下になってしまうだろう。
— キャリバンの口を借りて、シェークスピアは「新世界」の受けた辛酸をすべて語っている―(p.144)
2.物語
そして本作は何より、引用の織物である。よく読み解いて作品を解体していくと、主に3つの物語を継ぎ接ぎして本作が成立していることがわかる。もちろんいずれも、パタゴニアに連なる物語だ。
一つ目は、(海洋)冒険譚である。マゼランやジョン・デイヴィスの航海譚、コールリッジの『老水夫行』、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』、ダーウィンの『ビーグル号航海記』などなど。連想で、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』への言及もある。
二つ目は、アメリカのワイルドバンチ強盗団の物語だ。私は知らなかったが、これは実際に起きた(そして半ば伝説と化した)物語で、『明日に向かって撃て!』という有名な映画になっているようだ。
三つ目が、古生物学を巡る物語だ。こちらも私は知らなかったが、巨大なナマケモノであるミロドンと呼ばれる古生物を巡る騒動や、プレシオサウルス、つまりいわゆる「ネッシー」の目撃談を巡る騒動は、かつて実際にパタゴニアで起きた騒動のようだ。
本作はこうした、ある種子どもの好きそうな、ノンフィクショナルな物語を切り刻み、それを継ぎ合わせてできている。まるで物語が交差したところに浮かぶ像が「パタゴニア」であるというかのように。
モルトケ元帥がプロシアの軍国主義をダーウィン説に照らして正当化していた頃、ダーウィン説をつくる手助けをしたこの男は、アザラシの皮を積み上げた上にどさりと倒れ、眠りにつこうとしていた。(p.205)
3.文体
いえーい。やってきました。当ブログが書きたいのは毎度だいたいこの文体の話である。
さて、本作の語り手による語りの部分は、無感動といって良いほど淡々としたものとなっている。しかし、それが逆に、語り手以外の語りや、語られる様々な物語によるポリフォニーを際立たせる効果を生んでいる。
特に注目したいのは、先ほど紹介した大きな三つの物語や、歴史的・政治的な背景からも脱線した、小さな小さなサブストーリーである。実は本作の最大の魅力はこうしたカスミソウたちの美しさだ。
長いので引用に向かないが、「利益を得るというもっとも基本的な考えに欠けた」ホテルのエピソードがお気に入りだ。引用に適するところでは、次の箇所なんかいい。その語り口の淡白なところも、味わいを増している。
ソニーとビルはお喋りを続け、ソニーはウイスキーをちびちび飲んだ。ソニーは牧夫に戻ってもらいたいようだった。牧夫に戻ってもらいたいと彼が言わなかったことから、それがわかった。(p.24)
最後に強調をしておきたいのが、本作の語り手についてだ。当然のことであるが、作中の語り手とは、作者自身ではない。従って当然、本作は作者による体験そのものではなく、作者による創作そのものである。むしろ、体験という素材があったのかもしれないが、それを虚構に昇華したところに、文学としての魅力がある。
文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。(『文学講義』p.61)
むしろ惜しむらくは、チャトゥィンの祖母のいとこがどうも実在していたらしいところだ。いいかえれば、パタゴニアに行かずにこの作品が創造されていても、きっと十分に偉大な作品になっていただろう。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆
・隣国チリの物語
・池澤全集についてはこちら
<<背景>>
1975年執筆、1977年発表。なお、作者がパタゴニアを旅行したのは、執筆を開始した1975年だそうだ。
ピノチェトのクーデターが1973年9月だから、作中年代はそれ以降、つまり執筆年代と同時代と特定できる。なお、アジェンデの『精霊たちの家』は1982年の作品だ。
マゼラン海峡の発見は1520年、ジョン・デイヴィスの南洋航海は1592年である。従って、南米大陸とヨーロッパとの間には、この間400年近い歴史が流れていることになる。ビーグル号がダーウィンを乗せて旅立ったのは1831年のことで、南米を舞台にした古生物学の騒動が起きるのはおよそ60年~90年後のことだ。
『老水夫行』は1797-98、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』は1837年初出である。
<<概要>>
珍しい構成で、短い断章を繰り返される反面、章の上の括りがない形式となっている。
記憶にある限り、『モンテ・クリスト伯』【過去記事】がこのタイプで全117章である。ところが、モンテクリストよりもはるかに短い『パタゴニア』は、全97章もある。各章は短いもので2ページ足らず、長いもので10ページほどだ。
文学作品の形式ではこれもまた珍しく、写真と参考文献リストがついている。
<<本のつくり>>
それに注目するのは初めてだが、今回は池澤氏が本作を『精霊たちの家』の次に配した判断を賞賛したい。かたやチリの物語、こなたアルゼンチンの物語。
『精霊たちの家』最大の悪夢であるピノチェトのクーデターも、本作の語りの中では相対化され、むしろピノチェトが追い落としたアジェンデ大統領*3による私有財産の収奪の悲惨さが描かれている。
私の考えでは、文学とは作品に帰属するものではなく、作品と作品の中間地点で、読み手の中で生じるものだ。この観点から、どちらの作品にも共通して『アーサー・ゴードン・ピムの物語』が登場するのも面白い。
訳文は1990年初出のものをぶっこんできたようだ。さほど古さは感じず、違和感なく読み進めることはできた。
ただ、「ムラサキイガイ」これだけはいただけない。ちっとも美味そうじゃない。ここだけはぜひとも「ムール貝」にして欲しかった。