あの日 目を覆った 隣のあなたは微笑む
戦争やイスラエルの国境での紛争でマスカリータに弾があたっていないように、私はタスリンチに頼んだ。(p.148)
<<感想>>
文学などという一介のエンターテイメントが、なぜ大学で研究なぞされているのだろうか。
それは、人文学という学問が、例えばかつてのマルクス主義のように、人類を二分するほどの強力な理念を与えたり、例えば4世紀前のジョン・ロックのように、現代の社会の基盤となったりすることを、人類の叡智が知るからである。
また、かつて狭義の文学は、国語や国家意識を形成し、引いては国民国家の成立の基礎となり得るものだとも考えられていた。現代でも、例えばプーチン大統領が演説でドストエフスキーを引用するように、文学と政治性というものは抜き難く結びついている。
こうした人文学の伝統を踏まえれば、いわゆる発展途上国であった南米において、文学界のスーパースターであったガルシア=マルケスやバルガス=リョサが、政治家としてもまた活動したことは、なんの不思議でもない。
そして『密林の語り部』を読むにあたっても、著者のこうした政治性を抜きに考えることはできない。
・物語の骨格
「語り部」とは、ペルー国内のアマゾンの奥地、密林に住むマチゲンガ族の「語り部」のことである。一人称の語り手は、大学時代、サウル・スラータスと親友になる。スラータスはある日からマチゲンガ族に異様な関心を示すようになる。その語り手とスラータスとの関係を追う2・4・6章と、「語り部」自身の語りと思われる神話的な物語である3・5・7章とが交互に展開されていく。
「語り部」の語りが最初に登場する第3章で、既に読者に対してだけ強く仄めかされるとおり、この「語り部」は、後にマチゲンガ族に同化したスラータスその人自身である。
従ってこの物語は、「語り部」が作られていく物語と、「語り部」による物語との二重奏とで構成されていることになる。
・「語り部」とは?
ては、マチゲンガ族の「語り部」というのは、どういう役割だろうか。
まず、マチゲンガ族というのは、狩猟採集民族であり、定住をしない。その上、古くはインカ帝国による、その後はスペイン人や、その混血の子孫たちによる侵略により離散させられている。このため、多数の小さなグループが形成され、密林の中を放浪して生活しているのである。
そしてその「語り部」について、作中では次のように描写されている。
おそらく、語り部は、なんらかの精神的な指導性を発揮するだろう。おそらく、ある種の宗教的な儀式を行うだろう。しかし、・・・結局、その名前にさしはさまれている《話す》という言葉に、語り部の役割はとくに集約されているようだった。
・・・一人、あるいは、複数の語り部の存在。物語を語るという。単純で古い技術――勤め、必要性、人間の習癖――によって、マチゲンガ族を一つの社会、連帯し、連絡し合う人々の共同体にまとめあげる潤滑油となっている語り部の、人目に触れない、伝説的な影に私は心を打たれた。(p.125-127)
これはまさに、近代国民国家における文学の役回りそのものである。
・ナショナリズムと少数民族の同化
他方で、本作では国家共同体のもとに、少数民族を同化していくことへの危惧も示されている。それは、主にスラータスという人物によって担われている。
スラータスは、もともとは法学のかたわら、民俗学の勉強をしていた。民俗学にのめり込む余り、教授からも高い評価を受けるようになる。ところが、ある時から、スラータスは民俗学者や言語学者の行う少数民族に対する介入行為が、むしろ少数民族の伝統的な生活様式を破壊し、引いては絶滅・同化に繋がりかねないとして強く批判をするようになるのだ。
・『密林の語り部』の役回り
ここで俄然気になって来るのが、では『密林の語り部』という物語自体はどちらを志向した物語なのか、という問題である。
注目すべきなのは、「語り部」の語りが書かれていると思われる3・5・7章の存在である。
これらの章は、西洋の神話とも東洋の神話とも全く異質な神話で、そうした神話との異同を感じながら読み進めると、これはこれで実に面白い。
しかしやはり気になるのが、それを描いているのもまたリョサ自身であるという問題である。本書の2・4・6章の語り手は、明示はされないものの、リョサ自身のバイオグラフィーと一致し、リョサ自身の語りと読むのが自然である。
そうすると、結局は多数派のペルー人であるところのリョサが、少数民族であるマチゲンガ族の物語を取り込んで語っていることに相違はない。これは、現代社会で問題とされることが多くなったカルチュラル・アプロプリエーション(文化の盗用)の問題と接近してくる事象ともいえる。
では、結局は『密林の語り部』も、ある種のナショナリズムやコロニアリズムのもと描かれた作品に過ぎないのだろうか*1?
・『変身』と天才と
私としては、リョサ自身の意図とは無関係に、リョサ自身の作家としての天才性がこれを阻んだものと読み解きたい。
本作では、『楽園への道』【過去記事】でフローベールが重要なモチーフとして取り上げられていたように、カフカの『変身』が重要な作品として取り上げらている。後に語り部となるスラータスが唯一愛する作品として、『変身』が挙げられており、彼のペットであるオウムもグレゴール・ザムザと名付けられているのだ。
このスラータス君は、なかなか設定が渋滞している人物であり、顔の半分が痣で覆われている、という設定と、父が熱心なユダヤ教徒であるという設定も有している。このため、白人でありながらも、周囲からは冷たく遇されて育ってきた人物である。
本書の白眉は、語り部となったスラータスが、『変身』をマチゲンガ族の神話に翻案して語る第7章である。ここでは、寡黙で温厚だったスラータスが、『変身』に愛着を感じるに至る自身への迫害に対する強烈な感情を、語り部としての語りに、あるいは神話へと昇華している。
もちろん、それ自体もリョサによる創作であることは疑いえない。しかし、それと同時にマチゲンガ族の神話と、チェコ人の書いた文学とが、ペルー人のバルガス=リョサという交差点で出会ったときに初めて起こり得た突然変異であることもまた確かだ。
ブッカー賞作家であるベルナルディン・エヴァリストは、作家に対して「自分の文化を超えて書かない」ことを要求するのは馬鹿げているとして、「文化の盗用」概念を批判した。それはやはり、ナショナリズムを作るのも、こうした突然変異を起こすのも、どちらもまた作家の手によることを知っているからであろう。
お気に入り度:☆☆☆(『楽園への道』のが好み)
人に勧める度:☆☆☆
・カフカ作品より1作
<<背景>>
1987年発表。作中の現在時は1985年である。語り手がスラータスについて語る章は、現在時から1950年代後半を回想して語っていることになる。
作中の現在時点でも、マチゲンガ族は一部が定住生活を始め、またキリスト教の普及も始まったいたことが描写される。なお、Wikipediaの情報によると、2020年現在では定住者が増え、アニミズム的要素を残しつつも、殆どがカトリックに帰依しているという。
マルケスの『百年の孤独』【過去記事】が1967年、リョサの代表作(の一つ)である『緑の家』が1966年であり、いわゆる「ラテンアメリカ・ブーム」のあとの作品である。あるいは、マルケスのノーベル賞受賞後、リョサの同賞受賞前の作品と言っても良いかもしれない。
なお、カフカの『変身』は1915年に出版されている。
<<概要>>
全8章構成。本文でも触れたとおり、3・5・7章は「語り部」の語りとおぼしき、神話的な物語が展開されている。1章と8章はプロローグ及びエピローグ的な位置づけである。この交互の語りという構成は、後年の『楽園への道』と似ている。
3・5・7章を除く部分は、一人称の回想体である。これに対して、3・5・7章は神話的世界で展開される無時間的な物語である。
<<本のつくり>>
訳文にはなんの注文もない。原語をカタカナ語で採用し、その意味を注などで補うという方式が多用される。これにより、ややリーダビリティを損なわれている嫌いがあるが、少数民族の文化というのが一つのキー設定となっている本書では、適切な処置だったと思われる。
巻末に補遺的な位置づけとして、こうしたカタカナ語で書かれた動植物・文化用語の小事典風のページ(以下、「事典」という。)が付されている。作中に登場する用語は、割注で対応されるものと、こちらの事典で対応されるものと二つに分かれる。事典で対応されるものについては、事典に書かれていることが本文中では明示されない。
このため、どうしても巻末と本文とを確認的に行ったり来たりする必要が出てきて、イケてない。せめて、事典に項目がある用語については、初出時だけでもその旨の注記が欲しかった。