ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『『その他の外国文学』の翻訳者』白水社編集部編

僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る

チェコの文学に限らず、相互関係やフィードバックがあるのが現代の文学なのだ。(p.209)

<<感想>>

フランシスコ・ザビエルが何人だかご存じだろうか?スペイン人?ポルトガル人?私も意識したことはなかったが、正解はバスク人だそうだ。

現スペイン領バスク地方。今もここに暮らしバスク人達の一部が使用する言語、それがバスク語だ。

そうしたいわゆるマイナー言語の翻訳者たちに、その言語の翻訳者になるに至った経歴を取材した記録が本書である。取り上げられるのは、ヘブライ語チベット語ベンガル語、マヤ語(!)、ノルウェー語、バスク語タイ語ポルトガル語*1チェコ語の各言語の翻訳者である。

選択の動機は文学部の〇文学科に居る多くの学生とほとんど変わらない。文学に興味があるタイプ、言語に興味があるタイプ、そして対象国の文化*2に興味があるタイプだ。

「その他」の人々の面白いのはここからで、皆さん一様に、「辞書がない」「文法書がない」など、そもそも学ぶ手段が希少であるという壁にぶつかる。そしてその困難な道を切り拓いていく様が、実に面白い。

また、下衆なおじさんの目線で気になったのが、「で、食えるの?」という疑問である。もちろんそこに生存者バイアスはあるのだろう。しかし、多くの方に共通しているのが、その方が道を切り拓いた結果、後から仕事がついてきている点だ。つまり、その方々が居なければ存在しなかったような仕事が、そういう特殊能力を持った方の出現で発生していると言えば良いだろうか。読んでて感じたのは、マイナー言語を学ぼうという好奇心・フロンティアスピリットのハードルの方が高く、熱意と能力さえあれば、それを仕事に換えることなどそう難しいことではない、ということだ。

もう一つ気になったのが、「世界文学」との関係だ。私は常々、翻訳者というのは、我々が「世界文学」にアクセスするための窓のようなものだと思っている。新しい窓が開かれれば開かれるほど、「世界文学」の世界は拡大していき、それぞれの作品の相互作用とフィードバックにより、ますます世界文学は越境的・跨境的あるいはボーダレスなものとなっていく。これはまさに理想的な社会の文化的富の増進だ。

ところで、つとに指摘されているとおり、もはや文学の世界に正典などない。そうすると、我々読者は、ますますその海域を広げる「世界文学」の海の中に、船頭も無しに放り出されてしまうことになる。これは〇〇語で書かれたものの中で素晴らしいということなのか?これは〇〇文化を表現した文学として素晴らしいのか?〇〇語や〇〇文化に興味がない人にとってはどうなのか?

そこで私が期待したいのは、ぜひ翻訳者の方には100冊でも1000冊でも、10000冊でも、その対象言語に限らず、沢山の作品を読んでいただきたいという点だ(p.226)。

そしてもう一つ、私が翻訳者以外に期待したいのは、批評家という仕事である。「世界文学」の大海の中で、私の正典は私にしか見つけることができない。しかし、その在処を探し出すには、文学を読むには、人生は短すぎる。ぜひ良い批評を手掛かりに、私にとっての正典を探していきたいと考えている。

 

さて、せっかくだから気になった箇所も少しご紹介したい。

ベンガル語以外が登場する場合、丹羽さんは訳文をカタカナだけで表記するようにしている。ベンガル人が感じるニュアンスは伝わらないとはわかっている。ただ、異質なメッセージが差し込まれている、という印象くらいは伝わるかもしれない。(p.72)

これこれ。海外文学読んでいると、さらにほかの国の言語で書かれている部分というのが頻出で、それがどういうニュアンスなのかは毎回すごい気になる。そのニュアンスは、各言語の組み合わせごとにあるんだろうな。『おそ松くん』の「イヤミ」に代表される、「おフランス」のイメージのような奴が。

文化的なちがいもある。日本語はヨーロッパ系の言語と比べて圧倒的に罵倒語や感嘆詞が少ない。(p.222)

これもよく聞く話。というか、露文を読んでいると、「ロシア語は日本語に比べて圧倒的に罵倒語のバリエーションが豊富である。」というのを見る。言語や文化というよりも、その「感覚」を知りたい。

こと細かに注を入れることは、遠く隔たったものということを強調し、作品自体より知識を得ることが目的のようになりうるのかもしれない。注を入れることで、そうした眼差しを反映させてしまうことは翻訳者としてすべきではないのでは・・・(p.172-173)

これには断固、声を大にして反対である。翻訳は既にそれ自体として注釈である。翻訳をしつつ、注釈を否定するという感覚は私にはわからない。言語は常にその背景に参照項を従えている。その参照項ごと理解できなければ、作品の理解が遠のいてしまうように思う。えーい、そんな御託はいい!私は注釈が好きなんだ!!!

最後に、本書を読んで一番強く思ったのは、学生のときに読みたかった、ということだ。マイナー言語や文学のように、「食えない」とされる領域に片足を突っ込んだ経験があるのは、きっと私だけではないはずだ。この本は、今まさにそうした領域に片足だけ入れている方と、自分の子どもに勧めたいと思った。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆

 

・メジャー言語である露文を学ぶ旅はこちら

<<本のつくり>>

白水社編集部「編」とだけあって、著者名がないのを不思議に思いつつページをめくる。前書き風の文章は存在するものの、特に本書の形式を説明するでもない。

そして本文を読み始めると、その章で登場する翻訳者が、突然三人称で紹介される。

おい語り手!お前誰だよ!

と思わず突っ込みたくなったが、よくよくためつすがめつしてみると、どうもこれは白水社の編集者≒取材者≒執筆者ということのようだ。編集者というのは流石、実に文章が上手く、本書もすらすらすらすらっと読むことができた。これだけのものを書かれるのであれば、著者名として掲げればいいのに。

恐らく、翻訳者を主人公にしようという奥ゆかしさからなのだろう。

 

*1:ポルトガルにおけるポルトガル語、ブラジルにおけるポルトガル語と区別してポルポルというそうだ。千葉県千葉市みたいだ。

*2:旅行好き、その国の人が好きなど