ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

066『私はゼブラ』アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ/木原善彦訳

ああ 心に愛がなければ

テキストは互いに異花受粉するため、何世紀もの時代を飛び越えているのだ。(p.65)

<<感想>>

イラン出身の作者の小説を取り上げるのは、『スモモの木の啓示』【過去記事】に続き2回目となる。

作者のアザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ(長い)は、『スモモ~』の作者のショクーフェ・アーザルと同じく亡命者だそうだ。スペイン、イタリア、UAEに居住経験があり、現在はアメリカとイタリアとを行き来する生活を送っているという。

いきおい本作もイランからの亡命者を主人公に据えた物語となっている。

そして、その設定がなかなかにトんでいる。主人公のゼブラことビビ・アッバスアッバス・ホッセイニは、幼少期より父親から強烈に偏った教育を受けてきたのだ。曰く、ホッセイニ一族は、独学者、反権力主義者、無神論者であると。十に満たない幼少期から繰り返しニーチェを読み聞かされた上で、「文学以外の何ものも愛してはならない」と。

1.プロット

この無茶の設定のもと、文学邪気眼になったゼブラさんが繰り広げる『ドン・キホーテ』的な騒ぎが本作の最大のキモでありミソである。

幼少期のゼブラは、イラン・イラク戦争に巻き込まれ、両親に連れられて亡命への逃避行を続ける。途中母を亡くし、やがてヨーロッパへたどり着き、結局ゼブラはアメリカの大学で学ぶことになる。そしてゼブラは、崩壊した自己のルーツをたどるために、亡命へと至る旅路を逆に辿る「亡命の大旅行」を企てる。ところが、最初の渡航先で出会ったルード・ベンボという男性との恋愛関係になり・・・。

中二病コミュ障キャラが奥手な恋愛をする喜劇としても読むことができる物語だ。

本作はもとよりプロット的な魅力で推し進めるタイプの物語ではないが、その見事な点は、面倒な政治的な問題を早々に片付けてしまっている点だ。

即ち、既にプロローグの段階で白色革命もイラン・イスラーム革命も否定的な調子で描き、ブッシュにもサダム・フセインにもノーを突き付けているのだ。この宣明により、亡命者の物語を政治的な呪詛の物語から脱却させ、その内面に焦点を当てることに成功している。政治色が強すぎるのが鼻につく『スモモの木の啓示』とは好対照をなしている。

ただ、残念なのは、せっかく設定がオイシイのにもかかわらず、ルード・ベンボとの恋愛譚が冗長なところである。プロット的な魅力が本意でないにせよ、もうちょっとテンポ感が欲しいところである。この点は逆に『スモモの木の啓示』の圧勝と言ってよいだろう。

2.文体

それでは少し文体的なところに話をうつしていこう。

頭の中が文学でいっぱいのゼブラさんの一人称小説のわけで、必然、物語は多数の引用で埋め尽くされることになる。セルバンテスやダンテ、スタンダールのような「文学者」から、バルト、ブランショベンヤミンのような哲学者よりの人物など、広く人文系の偉人全般から引かれることになる。

ただ、実は引用の濃度はそれほど濃くはない。ナボコフあたりと比較してしまうからそう見えるのかもしれないが、地の文は意外なまでに散文的である。引用される例も、登場人物の口から、明示的な言及としてなされる場合が殆どである。

「あなたはひょっとして、いつも食べ物の心配ばかりしているサンチョ・パンサと同じタイプ?」と訊いた。ルードの口がぽかんと開いた。(p.159)

「引用元を知らないとあまり楽しめないのではないか?」*1という心配がつきものだが、少なくとも私の気付いた範囲では、地の文でこっそりプーシキンの詩を引用するような真似はしていないように思われる。

ここで一カ所、「今日のナボコフ」。これは恐らくステルス的な引用と思われる箇所。ゼブラがアメリカでであった大学の先生の発言より、である。

すると彼はこう答えた。「読書などというものは存在しない。再読があるだけだ」と。(p.42)

ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。(『文学講義 上』p.57)

文体の関係で気にかかるのは、ある種の言行不一致だ。語り手が強度の文学オタクキャラで、ボルヘスやらニーチェやらを度々引用するにも関わらず、文体が全くボルヘス的でもニーチェ的でもないのである。もちろん、長編小説一冊をボルヘスのような強度の文章でやられても、ニーチェ的な意味不明アフォリズムでやられても困ってしまうわけだが。それにしても、意外なほどに散漫というか、書かれている内容の実験性に比して、書かれ方の方はごくごく一般的で常識的な範囲にとどまっている。

3.一人称の難しさ

文体的な実験性が薄いとなると、結局は本作の内容をどう読むか、というところにかかって来る。ここで最初に読者に突き付けられるのが、一人称小説の難しさである。

普通、三人称小説であれば、ボケが居てツッコミが居て、登場人物たちが読者の正しい反応というのをある意味で教えてくれる。あるいは、神視点を採ったうえで、作者自身が読者をあるべき方向に導いてくれることもある。

ところが、困ったことに一人称小説は、泣けばいいのかも、笑えばいいのかも、読者に委ねられている。それというのも、先ほど「書かれていること」と「書かれ方」の矛盾を指摘したように、語り手のゼブラ自身が、強烈な矛盾の塊なのである。

(1)文学しか愛してはならない?

まず、「文学以外の何ものも愛してはならない」という帯キャッチにもなっているこの言葉からして疑わしい。確かに、表層的には、文学しか愛せないはずのゼブラが、ルード・ベンボという男性に次第に夢中になり、次第にその鎧をはぎ取られていくというテーマが中心となっている。

しかし、ここで敢えて一人称から視点をズラし、ゼブラの父の物語を読んでみる。そうすると、このテーゼをゼブラに教え込んだ父自身が、ゼブラに対して強い愛あるいは執着を持っていたことが見えてくる。

長い戦争のある時点で、父は昼でも夜でも、私を松明のように抱きかかえて、家の周囲や海岸沿いを歩くようになった。(p.20)

何週間もの時間が、果てしない道のように続いた。最も寒い日には、父は私を荷物のように背負った。時間は神経を逆なでするようにゆっくり過ぎた。(p.25)

あるいは、当のゼブラ自身、父のこの教えを忠実に守り、後生大事に父の思い出が詰まったトランク"移動美術館"を抱えて歩くあたり、父親に対するある種の愛情が垣間見える。

(2)無神論者?

冒頭でも紹介したように、主人公ゼブラが属するホッセイニ一族の信条の一つには、無神論が数えられている。そもそも、無神論者を標榜しながら、先祖代々の信条、引いては自身のルーツを敬い、そしてそのために殉ずる態度をとるのは矛盾ではないだろうか?

むしろ、父との関係を主軸に読んでいくと、恋愛の(好)影響により毒親というある種の宗教的な呪縛から抜け出していく物語のようにも読めてくる。

(3)ニーチェなのか?

恐らく、本作で最も良く引かれるのはニーチェであろう。しかし、ゼブラの態度はちっともニーチェ的ではない。亡命者である、という自身の不幸な出自をアピールし、高い文学的素養を持つ自分こそ「0.1パーセントの人間」だと誇るのは、まさしくニーチェが糾弾したルサンチマンそのものではないのか?

こうしたことから私は、ルード・ベンボも私同様、〇・一パーセントに属する一人だと推測した。(p.83)

こんな矛盾だらけのゼブラのどこが超人たり得ようか。

私は世界で最も頼りになる盾であるニーチェを引用することにした。(p.230)

ニーチェの引用を盾にするような態度こそ、ニーチェが自著で繰り返し否定してきた態度そのものだろう。

(4)喜劇なのか?悲劇なのか?

そして恐らく、次に良く引かれているのは『ドン・キホーテ』だ。この、強烈な矛盾を抱えているという点では、本作は優れて『ドン・キホーテ』的である。

ドン・キホーテ』は一見して喜劇であるが、良く知られているように19世紀にはむしろこれを悲劇として解釈する見方さえあった*2。ことほどさように、喜劇と悲劇とは本質的に表裏一体なのである。

本作も同様、喜劇と見ればよいのか、悲劇と見ればよいのかが良くわからない。ある種のオタク趣味にのめり込過ぎたコミュ障と世間様とのズレは確かに喜劇的である。一方で、文学で武装するしか身を守る手段の無い、哀れな亡命者の物語と読むこともできるだろう。

(5)矛盾こそテーマか?

いや、ここまでくるとむしろこの矛盾性、この表裏一体性こそが狙いなのかもしれない。冒頭で紹介したとおり、本作は全体としては亡命者がそのルーツを探しに行く物語である。そして、その途上において、文学の世界に引きこもる自己のアイデンティティを、恋愛によって揺さぶられることになる。

しかし、むしろこの亡命者=ルーツを失った者という構図自体に対して、著者からの価値転倒の目線が投げかけられているのではないだろうか。あるいは、アイデンティティなどというもの自体が、実はまやかしであることを示そうとしているのではないだろうか。

結末部においてさえ、作中におけるゼブラ自身がこうした矛盾点を自覚していたかは怪しい。しかし、少なくとも読者に対しては、既に十分に、取り戻したかったはずのアイデンティティが実は呪縛であったことが示されているように思える。

ニーチェ読み的には予想通り過ぎて若干興ざめ感はあるが、何よりも物語の末尾で引用されるのが、「運命愛」であることが、本作のこうした立ち位置を示しているように思われる。

人間の偉大さを言いあらわすためのわたしの慣用の言葉は運命愛〈アモール・ファティ〉である。(『この人を見よ』(岩波文庫、p.73))

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆(ニーチェリアン向け?)

 

・文学に呪縛された女性といえば

・悲劇か?喜劇か?

<<背景>>

2018年発表。

作中年代の特定は微妙だが、アメリカの大統領として子ブッシュが意識されていること、対テロ戦争を念頭においた真顔ギャグ「文学するテロリスト」が使われているところなどから、おおよそ2000年代と考えるのが自然のように思われる。

感想で取り上げた『スモモの木の啓示』の英訳版は2017年刊行であるから、本作の方が後発である。

本作で引用されることの多い『この人を見よ』は、ニーチェ発狂の前年である1888年頃執筆された。彼はその後、1900年に亡くなっている。

<<概要>>

プロローグを含め、7章構成。各章には主に土地の名を冠した章題が付された上、章の要約的内容を含む副題までもが付されている。これは『ドン・キホーテ』を意識したものだろうか?

感想本文でも触れたとおり、一人称の物語である。

ところで、感想で取り上げた作家・作品以外にも、ジュゼップ・プラというカタルーニャ出身作家について言及されることが多い。不勉強にして知らなかったが、英語版wikipediaには情報があった。私が調べた限り、邦訳書は出版されていないようだ。

<<本のつくり>>

米文学研究者であり、人気翻訳者でもある木原善彦先生の訳文である。

真顔で喜劇をやっているトーンが訳文でも伝わってくるところや、ともすればブッキッシュで難解になりかねない作品が平易にまとまっているところからも、訳文の良さが伝わってくる。

ここでは、訳者の訳文の特徴を三つ挙げてみたい。

一つ目が、カタカナルビの多用である。これはガイブン読みにはお馴染の、雪花石膏アラバスター文化女中器ハイアードガールのように、通常のフリガナとは反対に、むしろ漢字側がカタカナ側の語釈をしているタイプのものである。

要するに、私は街をさまよい、時間という羊皮紙の写本パリンプセストを精査する死の遊歩者フラヌールだ。(p.133)

こうした訳出の仕方は古くから見られるが、訳注の煩瑣やカタカナ語の定着度とのバランスを考慮したうえでの解決策の一つだろう。なお、麻雀×政治風刺という異色漫画の『ムダヅモなき改革』は、この手のルビの使い方を逆手に取ったギャグを多用している。

二つ目が、慣用句・ことわざの異化翻訳である。これは端的に引用を見ていただくのがわかりやすい。

「大げさな話をする人についてこんな諺がある。"見たことがない者の目はよく見えない"(日本語の「井の中の蛙」とほぼ同義)ってね」(p.141、丸かっこ内は原文では割注)

これは当ブログが繰り返し表明している好みに沿った訳出である。

最後が、日本語の若さである。『チェヴェングール』【過去記事】の訳文を読んだときにも感じたが、究極的に私にとって優れた訳文というのは、恐らくは私とプラスマイナス10歳程度の人が訳した文章なんだろうと思う。そしてその理由は、日本語という言語の変化速度の速さに求められるように考えている*3

この点、木原先生は私より一回り以上年上であるが、訳文の日本語が若い。

私は彼に向かって変顔をした。(p.155、強調は引用者)

ルードが何の警告もなしに私の人生の瘴気にさらされて、どん引きするのが分かった。(p.162、強調は引用者)

「変顔」も「どん引き」も、流行語というのとも、若者言葉というのともちょっと違う。近年俗語として定着した言葉、と言えばよいのだろうか。あるいは、三省堂の国語辞典的な言葉、といえば伝わるだろうか?試みに調べてみたところ、「変顔」の方は2014年刊行の『三省堂国語辞典』第七版に新録されたようだ。

かように、生きた日本語に訳出されているのが、木原先生の訳文の最大の特徴であり、そして人気の秘密のように思われる。

*1:『白鯨』の引用が濃そうなのに、未読なのでハンカチを嚙みながら読みはしました。

*2:最も有名なのはドストエフスキーによるセルバンテス評であろうか。これを覆した上で、カーニバル概念を持ち出して当のドストエフスキーセルバンテスの系譜に位置付けるバフチンの議論は面白いとしか言いようがない。

*3:たかだか100年ちょっと前のベストセラーに、現代語訳版が出版される国が他にあるだろうか?