ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-08②『老いぼれグリンゴ』カルロス・フエンテス/安藤哲行訳

情けないよでたくましくもある

この地の唯一の意志は昔ながらの、悲惨な、混沌とした国以外のものには絶対にならないというかたくなな決意だった。彼女はそれをかぎとった。彼女はそれを感じとった。それがメキシコだった。(p.420)

私は何か大変に大きな勘違いをしていたようだ。文学は、文体と技巧が(ほぼ)全てであり、それ以外は大体どうでもいいと。感情移入だなんていうのは子どもの読書で、大人の読書というのは、創造された人物を操る人形使いの手さばきを楽しむものだと。なぜなら、私は小児性愛者でも同性愛者でもないけれど、ハンバート【過去記事】やキンボート【未来記事】*1には感嘆させられたのだから。

しかし、それはやはり大きな勘違いだったようだ。なぜなら、大変に高度な文体・技巧の上に、読むに堪えない物語が乗っかったとき、私の背骨は拒絶反応を起こすと本作が教えてくれたからだ。

グリンゴ」とは、スペイン語でよそ者を意味する言葉だ。本作の舞台であるメキシコでは、主として北米の白人を指す蔑称として使われる。妻と子どもに先立たれた「老いぼれグリンゴ」が、死に場所を求めてメキシコの革命軍に加わるところから本作の物語は駆動する。

物語の脇を固めるのは、父に捨てられ、オールドミス*2となった女教師のグリンガ*3、ハリエット・ウインズローと、出自にコンプレックスを抱えた革命軍の若き将軍トマス・アローヨ。皆さんそろって自分探し中の面々である。後述の鏡のモチーフを丁寧に用いて、三者三様にアイデンティティの問題を抱えていることが仄めかされる。

で、この物語、どこに行き着くかわかります?老人と女性のエレクトラコンプレックス的関係が示されたあと、濃厚な性描写付きで女性と将軍が愛人関係になって、男性が両方死んで、はいおしマイケル

はぁぁぁぁぁ?なんだそれ?お前らいつまで自分探ししてんだよ!んなもんねーよ!落ち着く先は濃厚セックスって村上春樹かよ!なんだその男根主義的なイカ草物語は?

・・・落ち着いて少し考えて見ると、選者の池澤氏は45年生まれ、世界のハルキムラカミは49年生まれで、4つしか違わない*4。60年代に青春を過ごした世代。他方、こちとらバリバリの草食化世代*5、価値観なんかあわなくて当然だ。

何度か書いているが、私の青春時代は90年代だ。生まれた時から均等法があり、ソ連は崩壊し、自民党社会党が連立を組んでいたような時代。パクス・アメリカーナ統一協会オウム真理教が世を賑わせ、その後イスラム過激派がツインタワーに突っ込んだ時代。思想や宗教にアンガージュしてる奴なんて、端的にキモい*6んです。私たちは、オジさん達*7よりずっとシニカルで、プラグマティックでフラジャイル。理想主義は単に胡散臭い。物心ついたときには、絶望からはじめて、終わらない日常を生きている*8

こうした刷り込まれた感覚が、どうにもメキシコの始まりとハードボイルドソープランド的物語を拒絶するのだ。

 

悪口だけで終わるのは本意ではないので、恒例の文体の話に触れたい。本作の文体はほとんどフォークナーだ。作品全体のハードボイルドなテイストもそうだし、同一の文章を繰り返し繰り返し挿入し、重ね塗りしていく手法もそっくりだ。開幕で、何が行われているのかわかりにくい場面を描き出し、その後で少しずつその場面に居た人物を紹介していくスタイルも、彼の作品を踏襲したものだろう。ただ、息の長い二重三重の比喩は用いられない。

視点位置の取り方や、発話の記述の方法が独特で、こちらはウルフの文体を発展させたような、複雑のものになっている。一応、全体の基礎として、ハリエットの回想であることが示されてはいる。しかし、回想の中で神視点の三人称の語りが行われることもしばしば生じる。そしてさらに、そうした三人称の語りの中に、例えばかっこ書き(丸かっこ)を用いて、ハリエットの語りが差し挟まれる。また、通常、登場人物の発話はかっこ書き(鍵かっこ)で書かれるが、カッコ無しで突然地の文に挿入される場合もある。

だが、そんな瞬間を破壊するかのように大佐が命令を下す。急げ、急ぐんだ、みんな、グリンゴを自分の国に帰さねばならん、それがおれたちの将軍の命令だ。(p.319)

読者に与える両者の印象の違いを非常に上手く使い分けている。この他にも、行アキもなしに突然時系列を跳躍*9させ、大過去の出来事に過去に述べられたその印象を添えることにより、言語に時の印を刻むことに成功している。

意味論的な部分も非常に技巧的で、登場人物の関係性を国同士の歴史的関係に対する隠喩や皮肉として読解することも許されそうだ。また、モチーフの扱い方も丁寧だ。先に挙げた三名は、占領地のお屋敷にある「鏡の間」に足を踏み入れたことにより、それぞれ自己との向き合い方を考えるようになる。そしてしばらく後で、次のように情景が描写される。

夜の雲が砂漠に自分を映す鏡を探しながら通っていくが、見つけられず、また放浪の旅を続ける。(p.384)

このように、文体を分解しながら読解していく楽しみはあったのだが、やはりどうにもその内容が私には受け付けなかった。

 

お気に入り度:☆

人に勧める度:☆☆☆(フォークナー党へ)

 

・フォークナーの文体について

・池澤全集についてはこちら

<<背景>>

1985年刊行。本作は、実在の事件の上に虚構を載せる形式で書かれている。このため、作中年代は1913年であるとほぼ特定できる。

フォークナーの『八月の光』は1932年発表、ウルフの『灯台へ』【過去記事】は1927年発表である。作中に登場するビアスの『悪魔の辞典』は1911年発表である。

著者はメキシコにおけるガルシア=マルケス的存在であり、メキシコを代表する作家と言ってよい。年表を見ても、ガルシア=マルケス、バルガス・リョサ過去記事】をはじめ、南米の名だたる作家と交流があったようだ。意外なところでは、プラハの春に際して、ミラン・クンデラ過去記事】とも交流したようだ。

外交官の息子で、早くから外国暮らしと外国文学を経験している。そのせいか、スペイン語で書かれているはずなのに、まるでアメリカ文学かイギリス文学かのような印象を受ける。ま、アメリカだってそろそろスペイン語圏だ。

<<概要>>

全23章構成。最終章は1行のため、実質的には22章。各章の分量にもばらつきが大きい。語りの構造や時系列の構造は、本文でも触れたとおりかなり複雑である。

<<本のつくり>>

読点が多い訳出。打ち方としてあまり好みではない。語順も日本語としてはやや違和感が残る部分もあった。ただ恐らく、原文に出てくる情報の順序を統御しようとした結果のように思われる。訳文は1994年のもの。文章自体に古さを感じることはなく、自然に読むことができた。

今回は訳者=解説者のパターン。さすがに訳者の読解は鋭く、また、同著者の他の作品の紹介も詳しい。何ならそこで紹介されている他の作品の方が面白そうに感じた。

ところで、本巻で最もひどいのはカヴァーである。本来オレンジのはずだが、とても退色しやすいようで、殆ど黄色と区別がつかなくないっている。曲がりなりにも全集なのだから、保存を考えた製本にしていただきたかった。

 

 

*1:『淡い焔』は好きすぎて感想を書くのに体力と時間を消耗する予定なので、いつか書きます。いつか。

*2:31歳、彼氏は居たが独身。当時の価値観ではオールドミスだ。若くて美しい女性という評価ではない。

*3:グリンゴの女性形

*4:その間の47年には、「ソープへ行け」でお馴染みの某ハードボイルド作家が生まれている。

*5:次のリンクに示されているデータが非常に参考になる。私が新人社員となるべきだった年の調査では男女の指数差が逆転している。

http://honkawa2.sakura.ne.jp/2466.html

*6:流行期90年代終期~、これも我々の言葉。

*7:すでに彼らはおジイさんで、私はオジさんだ。

*8:90年代的空気感がガッツリあらわれている作品として、漫画『おやすみプンプン』がオススメ。

*9:p.403,後ろから5行目