ふたり出会った日が少しずつ思い出になっても
Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。(p.17)
<<感想>>
今日は『ロリータ』について書きたい*1。私は『ロリータ』が大好きだ*2。だから、できるだけ多くの人に『ロリータ』に触れ、『ロリータ』を好きになって欲しいと願っている*3。
同時に、『ロリータ』が難読とされ、挫折者が多いこともよく知っている。
そこで今回は、『ロリータ』と読者とが幸福な関係を築くために有益と思われる事柄を記述していきたい。
1.『ロリータ』のイメージ
『ロリータ』はどういう小説だろうか?およそ『ロリータ』について最初に触れる情報はこれだろう。
①ロリータ・コンプレックスの語源になった、少女(性)愛を題材にした小説
つまり、何かポルノめいた、それも背徳的な内容の小説なんじゃないかというイメージである。ところが、これがちょっとした読書好きになったり、うっかり文学部なんかに籍を置いたりすると、次のようなイメージに更新される。
②真面目で難解な小説で、大した描写もなく、エロ目的で読むと早々に挫折するらしい
さらに、実際に読んだ人の感想を聞いたり、書評などで触れられている情報が入ると、次のようなイメージに変化する。
③20世紀のアメリカ文学の中でも高く評価されており、重要で面白い作品である
私が学生時代に、発売されたばかりの若島訳文庫版を手に取ったときも、おおよそこの3段階の変化を踏んだ頃だった。そして、レジのお姉さんに、①のイメージで見られたら嫌だなぁと思いつつ、まるでエロ本でも買うように、何かバルザックとかカフカあたりでサンドイッチにして持って行ったように思う。
で、実際に読んでみると、この3つのイメージは、すべて正しい。
直接的な単語こそ避けられているものの、性描写は相当にどぎつい。そして、難解・難読な部分も多い反面、読者を虜にするすさまじい魅力を備えている*4。
2.ナボコフ作品の中での位置づけ
このキャッチーな部分とまじめ臭い部分との同居は一体何なのか。ここでいったん、作者であるウラジーミル・ナボコフについて書きたい。
(1)まず、ナボコフはもともとロシアの大変な名門貴族の生まれである*5。ところが、二十歳になる前にロシア革命が起こり、祖国脱出を余儀なくされる。
(2)この後、ナボコフは、ベルリンの亡命ロシア人グループにおいて、ロシア語作家として活躍することになる。ナボコフ自身も、上流階級出身で高度な教育を受けており*6、読者もまた亡命知識人と呼ばれる人々だ。従ってナボコフにとっては、一般大衆など眼中にない。
ロシア語作品のうち、『賜物』【過去記事】はぶっちぎりの最難読であるし、ディフェンス【過去記事】は、冒頭から読者に対して文章の意味を取らせることを拒絶する。『キング、クイーン、ジャック』【過去記事】では、章を改めるたびに、敢えて意味の取りづらい描写を置く工夫まで見せる。
ようは、この頃の作品は、ストーリー的なヒキは薄く、ブンガクに100%振り切った内容になっている。
ベルリン時代もそれなりの活躍を見せていたものの、ナチスの拡大を機に*7、アメリカへの亡命を余儀なくされる。
(3)ここでナボコフは使用言語を英語に切り替える。これと同時に、作品の読みやすさが向上することになる。亡命ロシア人社会という基盤もなく、妻と幼い子どもを抱えているナボコフには、何としてもアメリカで成功する必要があったからだと思われる。
最初に書かれたのが、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】である。これは、亡異母兄セバスチャン・ナイトの伝記を書こうと、その足跡を追いかけていくというストーリー。最初に謎を与えるという(古典的な)プロット上の仕掛けを与えることにより、読者を次のページに進む気にさせてくれる。
『ロリータ』も同様だ。冒頭から、語り手であるハンバート・ハンバート*8が勾留・訴追されていることが明かされる。つまり、ハンバート・ハンバートがなぜ、なんの罪で捕まったのか、という謎が提示される。また、少女(性)愛というキャッチーなテーマを仕込んでいる。この点で、ナボコフの他の諸作品に比べれば、世人の興味を駆り立て、かつプロット的なヒキが強い作品に仕上がっている*9。
とはいえ、ナボコフがブンガクを辞めたわけでは決してない。
わかる人は、「新世紀エヴァンゲリオン」を思い浮かべて欲しい。学園モノ×ロボットモノというキャッチーな外観に擬態した一方で、ガチのオタクが作ったクソマニアックなアニメ作品。広く一般的な支持を獲得している一方、意味を明示しない結末に考察は尽きない。また、そもそも、全編に大量の引用やオマージュがぶち込まれ*10、細部に技巧を凝らした濃度の濃いアニメだ。
『ロリータ』も同様、ナボコフが持てる技巧の限りをこれでもかとぶち込んだ、ブンガク濃度の非常に強い作品に仕上がっている。
3.『ロリータ』は誰に向くのか?
以上のとおりであるから、およそ文学と呼ばれるたぐいの作品に縁の無かった読者には、恐らく向かない。それは、ビールとチューハイくらいしか飲んだことのない人物に、"LAPHROAIG 1992-2017 25yo BOURBON BARREL #5124 Selected by Allen Chen for AQUA VITAE"*11を勧めるようなものだ。味わいもラベルの意味もわからず、ただ強いアルコールにむせ返る結果に終わってしまう。
酒を飲んだことがないのが悪いことではないのと同様、別に本なんか読めなくたって何の問題もない。ナボコフの強烈な衒学趣味に付き合う義務もない。映画好き、ミステリー好き、ロリコン紳士の諸兄は、堂々と『ロリータ』から回れ右をして欲しい。
ただ、文学というジャンルに少しでも触れた人、例えば『ボヴァリー夫人』【過去記事】に何かを感じた人、冒頭の引用に背筋がざわめいた人、細部を、技巧を、そして言語を愛でる人には、ぜひ一度『ロリータ』を読んでみて欲しい。
4.で、技巧って何?
で、さっきから出てくる「技巧」って、いったい何のことだろうか?
(1)伏線
一番わかりやすいのはコレだろう。
ただ、よくある伏線とはちょっと違う。たいていの場合、伏線というのは、張られたことに読者は気づかず、後になって作者によって大々的に公開されるパターンが多い。
しかし、ナボコフの場合、手札はそっと開けられる。このため、余程注意深く読んでいないと、伏線が張られていたことにさえ気づかない。
読者が気が付くのは大抵の場合再読時である*12。そして、ひっそりと張られているがゆえに、発見の喜びはひとしおである。え、ここのアレって、まさかこういうことだったの!?
(2)オマージュ*13
これも比較的わかりやすいし、ジャンルを問わずマニアが大好物なヤツである。
だって、今読んでいる作品に、自分の好きなあの作品の人物やこの作品のカットが仄めかされたら、それは嬉しい。そればかりか、その作品を知っている人だけが、後のちょっとした展開がわかってしまったりするように書いてあったりするのなんて、ファンは思わずニヤニヤしてしまうはずだ*14。
(3)ライトモチーフ*15
これはもともとオペラに関する用語で、特定の人物や状況などと結びつけて使われる短い主題・動機のことである。文学の世界では、主題や動機のかわりに、言葉やその指示対象、語のイメージなどに置き換えられる。
これは文学作品に一つの芸術としての奥行・立体感を与えてくれる。
また時として、伏線と同じように機能することもある。つまり、同じライトモチーフが使われている場面では、意味や感情の連続性が仄めかされていたりするのだ。
(4)押韻・言葉遊び
はい、どんどんマニア度が上がってきます。最後はやっぱりこれ。一番わかりやすいのはやっぱり冒頭で紹介した引用部分だろう。押韻の美しさ、そして文体のキモさと発話内容のキモさの相乗効果*16。
これは冒頭部分に限られたものではなく、もう全編にわたって、隙あらば押韻や言葉遊びを入れてくるのがナボコフの文体の特徴である。残念ながら翻訳で失われやすい魅力であるともいえる。
5.ではどうやって読むのか?
一応、こうした技巧をスルーしても、本作を読み通せないこともない。語り手のハンバート君は、キモオモロい奴であり、露悪的ならぬ露変態的なギャグを随所に挟み込む。全体的にコメディタッチで描かれている部分も多い。二部が退屈だという向きもあるが、何章か我慢すれば、新たな謎が提示され、その力で最後まで引っ張っていってもらうことも出来るだろう。
ところが、文学的技巧という奴の方は、物語の結末で探偵が謎解きをしてくれないミステリーのようなものだ*17。したがって、最終的には読者自身が、自ら探偵になって謎を解いてやるという気概で物語をじっくり読み込むしかない。
こうした技巧を読み解くうえで勧められるテクニックは、次の方法だ。
まず、鉛筆でガンガン書き込みをしながら読むこと。何なら私はエクセルにメモをしながら読んでいる。このとき重要なのは、時間・場所・人物に注目することだ。特に人物には細心の注意を払うこと。『ロリータ』では、少なくとも50名以上のマイナーキャラクターが登場するが、各人の細かい描写は殆どされない。しかし、このうちの10名を超える人物は複数回登場し、物語の重要なカギを握っていることもある。
次に、情景描写や細部を読み飛ばさないこと。ナボコフファンは俗に「マーカー」というが、なぜそこにそんなものが?そんな表現が?という引っ掛かりの箇所には、何らかの仄めかしや、ライトモチーフが潜んでいることが多い。
そして、必ず再読をすること。ナボコフの小説は、再読を前提に書かれている。結末まで読んだ後の再読のとき、初読時とはまったく違う意味がたちどころに浮かび上がってくる箇所は非常に多い。
みもふたもないが、結局は遅読・精読・再読に勝る読み方はない。
最後に、これは本当にやる気のある方だけにおススメする方法が二つある。
一つは、原語版のペーパーバックを横に置いて読むことである。私が買った当時で9ユーロ。為替レートにもよるが、そう高い買い物ではない。もちろん、そのまま頭から読むのを勧めるわけではない。気になった箇所、意味が取りづらい箇所に出くわしたときだけ、原文を眺めてみるのである。英語でしかわからない楽しい言葉遊びが隠れていることが多い*18。幸い、若島訳では、原文に何かが潜んでいる箇所では、敢えてそれとわかるように翻訳してくれているところが多い*19。
もう一つが、ネタ元の作品をバンバン読んでくことである。『ロリータ』一作でも、汲めども尽くせないくらい大量の引用がされているため、とてもすべては読み切れないが、独断と偏見で私がおススメするのは次の3作品である。
『アナベル・リー』ポー、『カルメン』メリメ、『ボヴァリー夫人』フローベール。これらの作品は、比較的に読みやすい上、引用の濃度が濃い*20。
6.おみやげ
最後に、若島先生の真似をして、私からもいくつかのお土産を差し上げたい。
訳注や下記でおススメしている論考で指摘されていないものから選んだ文学的技巧である。
そんなに難しいものではないが、一つは引用で、あと二つは小さなライトモチーフである。発見の喜びを奪うのは本意ではないので、この記事の最後の最後に、空行をあけて、そっと置いておく。
お気に入り度:☆☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆☆(万人向けではない)
<<背景>>
1955年発表。このときすでにナボコフ先生56歳、円熟期と言って良い。
変態×変態ことハンバートは1910年の秋以降の生まれ、ロリータは1935年生まれ*21。
作中年代についての言及は豊富で、特定は容易だ。主として1947年5月下旬~1952年11月16日*22に物語は進行している。
同時代のアメリカの文化・風俗の描写も豊富であり、この点もやや読解を困難にしている。これにより、発表当初は「アメリカがテーマである」とか、「ロリータはアメリカの寓意」だとか解釈されがちだったそうだ。別にそれが誤りとも思わないが、アメリカ人はアメリカばっかり書く【過去記事】のと同時に、何を読んでもアメリカが書いてあると思うらしい。
『アナベル・リー』は1849年の作品であるから、ロリータより約100歳年上だ。
『カルメン』が1845年発表、『ボヴァリー夫人』が1856年完成であり、いずれも『ロリータ』の頃には古典としての地位を確立している。
なお、『ロリータ』の文学的技巧を読み解く論考も数多く出ている。読みやすいものでおススメは次の二つである。
・『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)*23
こちらは訳者でもある若島先生の作。新潮文庫版でわずか5頁程度の場面を単行本1冊かけて解説することを通じて、いかにナボコフの井戸が深いかを示す。
日本ナボコフ協会主催の2010年の国際学会の内容を日本の読者向けに編集したもの。『ロリータ』に関しても複数の論考が寄せられている。ローティの有名な「カスビームの床屋」をさらに深堀した秋草先生の「『カスビームの床屋』再訪」など、濃い論考が楽しめる。
<<概要>>
序+2部の構成。第1部が33章、第2部が36章構成である。
各章の分量には差があり、場面と場面のブリッジ的な役割の短い章も多い。
このため章の数で単純比較はできないが、やや第2部のが長い。
非常に抽象的にいうと、第1部では頂上を目指し登っていき、第2部はそこから転がり落ちていくような構成だ。作品の最初と最後の単語が同一で、円環的な構造が示唆される。
作中人物の手記であるという、メタフィクショナルな構造も見逃せない点だ。
<<本のつくり>>
学生時代、若島訳『ロリータ』の出版は一つの事件だった。そして、単行本が出たすぐ翌年に注釈付きの新潮文庫版が出たことは、更なる事件だった。
なぜなら、旧訳である大久保訳は、悪い訳だというのがもっぱらの評判だったからだ。なお、若島先生によれば、大久保訳初版の誤訳は改版の際に訂正され、先行訳も決して悪い訳ではなかったとの評価である。つまり、本書の難読さ加減の責任が訳者に押し付けられていたのだろう。
そして、新・若島訳では、多くの学生がその訳注を道しるべにして、『ロリータ』を読み通せるようになったのである。私もそうした一人であるし、若島訳新潮文庫版の功績が大きいことは明らかである。
ところが、最近出版されたナボコフ・コレクション版では、その詳細な訳注がすべてカットされている*24。
最初にコレクション版を見たときは、なぜあの大事な訳注がカットされたのかと不思議であった。しかし、今回、新潮文庫版で何度目かの再読をしたときに、少し若島先生の気持ちがわかった気がした。
ようは、読者自身の発見の楽しみを奪うのである。大げさにいえば、図書館で借りたミステリー小説の、犯人の名前に赤丸が付いていたような気分になるのだ。これはむしろ、若島先生のおかげでナボコフを読むことに慣れた結果でもある。
さりとて、本作をはじめて読まれる方に、このコレクション版もおススメしにくい。いかに訳文がよくても、語注がないとキツい部分が多いのだ。例えば、「ティドルウィンクス」とか、語注なしでわかる人がいるとはとても思えない。なにせ、グーグル検索して上位に出てくるのが『ロリータ』の記事というくらいなのだから。
ただ、書き込みのしやすさや、装丁の奇麗さに加え、『魅惑者』が読めるという大きな魅力もある。
結局、おススメするのは新潮文庫版となるが、ぜひともコレクション版にも手を出して欲しい。
<<お土産コーナー>>
1.
When I was a child and she was a child...
私が子供で彼女も子供だったとき・・・(p.32)
『アナベル・リー』の第二聯第一行からの引用である。
2.
映画版ロリータのポスターでお馴染みのサングラス。作中のどこかに落ちています。それはどこでしょう?
3.
ひざ掛けが出てくる重要な場面が二か所あります。それはどことどこでしょう?
*1:今回、脚注は基本的に『ロリータ』既読者向けに書いている。だから、『ロリータ』を読んでみたい、興味があるという方はすべて読み飛ばしていただきたい。脚注が多いのはそれがナボコフマニア向けの様式美だからである。
*2:この点ではHHと同じ
*3:この点でHHと大きく異なる
*4:Enchanted readers
*5:「青銅の騎士」から徒歩圏が実家って、すごくないですか?
*6:幼少期、自宅には召使が50人居て、4歳から英語を教わっていたと言われている。そして、ベルリンに落ち着く前は、ケンブリッジで学んでいる。このため、アメリカ亡命前から英露のバイリンガルであった。
*8:最初みたとき、H×Hってなんだ!?と思ったら、ジャンプのマンガだった。
*9:なお、『ロリータ』の成功により経済的な余裕を得たナボコフは、次第にやりたい放題書くようになる。『淡い焔』はまだしも、後年は『アーダ』、『透明な対象』など、難読度の極めて高い作品を生み出している
*11:https://www.whiskybase.com/whiskies/whisky/113222/laphroaig-25-year-old
*12:人は書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。『文学講義』より
*13:あるいは引用、インターテクスト
*14:例えば、マダム・ランプルールとか
*15:『文学講義』風に書くと、「小主題」である。そういえば、この小主題という訳語、もとの英語は何なのだろう。
*16:「命」は男性器を暗示し、"loins"は「下腹部」を意味する。
*17:あるいは、メモやマッピングが必要な高難易度のゲームをプレイする感覚にも似ている
*18:...both would be termed female by the anatomist. But to me, through the prism of my senses,"the were as different as mist and mast"「両者は霧と錐ほども違う」(p.33)
*19:"せんたくしー"とか。ここを含めてタクソヴィチ氏の場面はお気に入りである。
*20:『ユリシーズ』や、『失われた時を求めて』もちらほら顔を出すが、これらの大作の読了を求めるのは酷である。
*21:誕生日は作中で特定できる
*22:1955年8月5日と言ってもよいかもしれない
*23:HSJMですって!?作品社さん、お願いします。
*24:かわりに、ナボコフ自身の手によるロシア語版との差異に関する注が付されている。アメリカ文化になじまない読者のために意味を補強している箇所が多い。