世間のしくみにとても勝てないから
こうしてある日、殺戮と武勲を重ねたあと彼はかつての場所に戻ってきて、自分の創造したものを破壊した。ついに自由を得るために。(p.480)
<<感想>>
危うく古来より伝わる秘儀・壁本を繰り出してしまうところだった。途中までは。
それというのも、一見したところ、「主人公が自分探しをした結果、男根と弾痕とでなんとなく解決する物語」【過去記事】に読めてしまったからである。
あらすじの説明として、これでも大きくは間違っていないけど、さすがに不親切だろう。
本作の舞台は、アフリカ大陸の東にあるマダガスカル島、のさらに東に浮かぶモーリシャス島、と、そのさらに東に浮かぶ小島であるロドリゲス島である。語り手はモーリシャス島の白人家庭に生まれたアレクシ少年。
冒頭、かなりの分量を割いてアレクシ少年の遠い夏の日の思い出がたっぷりと描写される。
はじめて海を体験したこの日のことを、何か月いや何年にも匹敵するほど長かったこの日のことを、けっして忘れないだろう。(p.247)
その幸福な少年時代は、巨大ハリケーンと夢想家の父の破産によってによって終わりを告げる。ほどなくして父は亡くなり、アレクシは学校を辞めて働きに出る。しかし、アレクシは亡父の夢に憧れ、遺品である海賊の宝の地図をもって冒険の旅に出るのである。
当然、本作は児童文学ではないので、黄金探索を巡る児童文学、というふうにはならない。あるいは、メーテルリンクの『青い鳥』のように、本当の幸せは身近なところにあったのね、というのとも少し味付けが違う。
最初に覚える違和感は、語り手の被害者意識の強さだ。そしてこのアレクシ君、あまりにもドクズなのである。
一人称視点の物語であるため、ついつい語りに同調してしまいそうだが、そもそもアレクシ君一家が破産に陥ったのは、無責任な父親の冒険的な事業が原因だ。それを棚に上げて、実際家で事業に成功している伯父を、手助けしない冷血な人物と描写するのは、逆恨みも良いところである。
また、破産をしたといえ、アレクシ君一家はまがりなりにも一軒家に住まい、過酷な肉体労働に勤しむ有色人種を尻目に、事務系の仕事の手配までしてもらえる。それにも関わらず、まるで不幸のどん底にいるかのような自己認識は、西欧人的な横暴の極地である。ところで、アレクシ君には思慕を通り越してシスコンの域に入っている姉ロールが居る。お前その倫理観ならせめて働いてその姉くらい守れと思いきや、父亡きあと、サクっと姉を置いて冒険の旅に出るという暴挙に出る。
理解も共感も出来ないままひたすら穴を掘り続けるアレクシ君であるが、ここで読解の手がかりを与えてくれるのがライトモチーフである。
一つ目が、『ロビンソン・クルーソー』のモチーフだ。これが実は序盤から頻出である。
フェルディナンはぼくたちをばかにして、ドゥニ*1のことを「フライデー」と呼び、ぼくには「オランウータン」とあいうあだ名を付けた。(p.214)
今やぼくは島に流れ着いたロビンソンみたいに一人ぼっちだ。(p.257)
ぼくたちの家が何に似ているかといえば、まさにそれ、難破船の残骸に似ている。(p.271)
二つ目は、脱走奴隷のモチーフ。これは、モーリシャス島の史実でもあるらしい。
「サカラヴー大将*2に率いられた奴隷たちが食べたのはこれさ」とドゥニがいう。(p.233)
昔、モーリシャスの山中に、モルヌ山の上に住んだ脱走奴隷がやっていたように、夕方消した日の余熱がまだある灰にくるまって寝るのだ。(p.408)
三つ目は、次の唄である。
ねえねえ、お前
パンを得るにゃ、働かにゃならんぞ(p.253,450)
すなわち、アレクシ君は脱走奴隷に擬せられているのである。パンを得るために働き続けなければならない奴隷。労働によって、資本によって、疎外される生からの脱走。アレクシ君をドクズとみなす我々の価値観からの脱走。
こうして眺めると、本作もまた『フライデーあるいは太平洋の冥界』【過去記事】と同様、ある種のロビンソナード*3であることがわかる。つまり、本作はロビンソンが島を文明化していくのと反対に、文明化された島から脱走して行く物語なのだ。
本作では、全6部のうちの1部がWWIの描写に充てられる。逃亡大好きだったアレクシ君が島でエッチした現地女性から逃亡し志願兵として戦地へ赴くのだ。当初、なぜ逃亡癖の男が敢えて戦場へ赴くのか理解に苦しんだが、これはつまり戦争の描写が必要であったからと思われる。文明の究極の発露の形式としての世界大戦。その徹底的な人間性の否定が、島で人間に還ったアレクシ君の生の形と対比されるのである。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆
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<<背景>>
1985年刊行。著者は本作の取材のために、1981年からモーリシャス島やロドリゲス島へ出かけているそうだ。
作中のクロノロジーは明示的で、アレクシ君は1884年生まれ、1892年の8歳から物語は始まり、1922年頃まで物語は続く。
なお、モーリシャス島の歴史は複雑で、フランス植民地であったのを1814年にイギリスが奪い取ったという経緯がある。このため、イギリスへ国籍変更をしたフランス系移民がいれば、奴隷として連れてこられた黒人、インドからの移民、クレオールなど、様々な人々が住んでいる。1968年、同島はイギリス連邦から独立しており、作家が取材に行ったのは独立間もない頃ということになる。
また、『ロビンソン・クルーソー』は1719年発表、本書と同じフランスで『フライデーあるいは太平洋の冥界』が刊行されたのは1967年である。
余談であるが、作者は2008年にノーベル文学賞を受賞している。
<<概要>>
この時代の作品にしては珍しいくらい語りの構造も時系列も素直である。19世紀の小説と見紛うほどであり、今回珍しくあまり文体については触れなかった。一人称で時間軸に沿って進むスタイルだ。ただ、やはり19世紀の小説と異なるのは、アレクシ君の行動原理に論理性が乏しいことだ。これがくどくどと説明されるのではなく、作品として示されている点はやはり20世紀的だ。
また、構成に目を転ずるとこちらはだいぶ斬新だ。全6部構成で、それぞれの部には数字無しで題名が付されている。部の下の区切りは原則として存在しない。ところが、部によっては途中で改ページ+題名(主に時系列と場所を示す)が付される箇所がある。
特徴的なのはこの先で、部の下の小さい区切りとして、改ページ、2行アキ、1行アキの三種類が使い分けられているところだ。あとがきでも何も触れられていないため特定のしようがないが、訳者の独断とは考えにくく、原著者の工夫であると思われる。
これが部分の構成に独特のリズムを生んでおり、面白い。
<<本のつくり>>
解説は訳者の手のもの。訳者は著者の他の作品の翻訳も手掛けているようで、ル・クレジオの専門家と言ってよさそうだ。そのためか、解説は作家論が中心で、作品に対する踏み込みに欠けて残念である。そして、まーた例によって実存どうこうという傾向があって、今日的な問題意識から離れているように感じる。
二段組で読みづらくなるという結果を招きはしたが、ロビンソナード2作品を同じ刊本にまとめた池澤氏の慧眼は買いたい。しかしそれにしても、挟み込みの池澤氏の解説はひどすぎる。池澤氏のおじさん的な性的妄想が展開されており、これ今日出版されるのであれば、編集者に咎められるレベルだと感じる。おじさん構文的キモさのエッセンスを抽出したかのようだ。