ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『失われた時を求めて』第6篇「消え去ったアルベルチーヌ」マルセル・プルースト/吉川一義訳

映し出された思い出はみな幻に

人は死んでも、その人が芸術家で自己の一部を作品のなかにとりこんだ場合、その人のなにがしかは死後にも残存すると言われることがある。もしかするとそれと同じように、ある人から切り取られてべつの人の心に移植された一種の挿し穂は、それが切り取られた元の人の命が尽きたときでも、べつの人の心のなかでその生を存続してゆくのかもしれない。(p.238)

<<感想>>

失われた時を求めて』の感想、今回は第6篇を取り上げる。第5篇の感想同様、もう読みどころ解説のような話はやめて、好き放題書いてみたい。

その前に、毎回恒例の概略を書かなくてはならない。

まず、第6篇も第5篇同様、死後出版である。これが本篇では特に重大な問題を孕んでいる。なぜなら、そもそも題名の特定が難しいのだ。岩波文庫版では、「消え去ったアルベルチーヌ」の題が採られている。もう一つの題の候補としては、「逃げ去る女」というものがあり、例えば懐かしの集英社ヘリテージ版はこちらの題だ。本国フランスでも事情は同じようであり、出版の都度表記は揺れている。

さらに、どこまでを真正なテクストとみなすかについても、深刻な見解対立があるようだ。そうした事情は巻末の解説に詳しい。ざっくりいうと、今回取り上げている岩波版では多数説の長いバージョンを採用している。『消え去ったアルベルチーヌ』の題で、光文社古典新訳文庫から出ているのは、少数説である大幅カットバージョンのようだ。この第6篇は第12巻1冊にぴったり収まっている。

採用されなかった題である「逃げ去る女」が示しているように、本篇は第5篇の「囚われの女」と対をなしている。本作の大きな脱線系である「花咲く乙女たちーアルベルチーヌ」と「ソドムとゴモラ」脱線系が収束を迎えることになる。

本篇内部のプロット的な部分は巻末の解説に詳しい。構成的に分解すると、第5篇で自室(=頭蓋骨)に引きこもっていた「私」が外へ出ること、アルベルチーヌ/母の対比と、アルベルチーヌ/祖母の類比が見られること、ヴェネツィアとコンブレーの類比が見られること、ソドムとゴモラの主題系が三組の結婚に収束するところがポイントだろうか。

・記憶と生成史

今回まず注目したいのは、語り手の記憶の不整合である。本巻では、語り手の生を長い間ともに体験してきた読者にとっても、遠い記憶の向こうにある出来事が追想される場面がある。そして、そのうちのいくつかにおいて、「私」は記憶違いを起こしている。そうした箇所は多数あるが、例としては123頁の註60や61、217頁の註143をご覧いただきたい。

こうした「私」の記憶違いの理由を、校了が終わっていなかったから、という生成史に求めることももちろん可能だろう。しかし、私はプルーストが敢えて「私」に記憶違いを起こさせたという考え方を採りたい。この、「私」の記憶違いは、本作における知性批判のテーマとセットであると考えてみたい。

・知性批判

次に、プルーストによる「知性批判」のスタンスを確認したい。アルベルチーヌの真実を知ろうと奮闘する「私」は、まるで供述調書の信用性を検討する裁判官のように、信と不信の間を行き来する。あるいは、観測できる客観的事実に対する解釈可能性の豊富さに打ちのめされる。そればかりか、「私」は、知性によっては自分の心の中さえ理解することができないことに気づく。

さきほどフランソワーズがやって来る前、たしかに私はもはやアルベルチーヌを愛していないものと想いこみ、考慮に入れていないことはなにひとつないものと信じ、正確な分析家として自分の心の奥底まで知り尽くしているつもりでいた。しかしわれわれの知性はいかに明晰であろうと、自分の心を構成する諸要素を残らず感知することはできず、・・・(p.25)

・アルベルチーヌと文学

前篇までの感想で、本作のアルベルチーヌという登場人物が、本質的な他者性をまとっていること、認識不可能性の象徴であることを繰り返し主張してきた。本篇でもアルベルチーヌのこうした側面は繰り返し描出される。

本篇で特に気に入っているのは、「私」がアルベルチーヌを正確に描写することができない、という場面。アルベルチーヌとエルスチールの描いたオデット(ミス・サクリパン)*1二重写しになる場面だ。ここでは、スワンの思い描く=思い描けないオデットと、語り手の思い描く=思い描けないアルベルチーヌが重ねられる。

美しい女たちは、想像力を欠く男たちに任せておこう。私は天才的な作でありながらその人に似ていない肖像画というものが、いかに多様な人生の痛ましい説明になっているかに想いを馳せた。その格好の例はエルスチールの描いたオデットの肖像画で、それは恋人の肖像というよりも、対象を変形する恋心の肖像というべきであろう。

ここで私が注目したいのは、オデット=アルベルチーヌが、肖像画という芸術作品に擬えられているところだ。対象を描こうとしていて、対象を描いていない。本当に描かれているのは、対象に対する作者の精神の肖像である・・・。私はここに、プルーストの文学観をも読み込んでみたい。つまり、『失われた時を求めて』自体もまた、物語それ自体が創造されたというよりも、文学・絵画・音楽・芸術に対するプルーストの恋心の肖像として読んでみたい。

また、さらに一歩進めて、アルベルチーヌ自体を、読者に与えられた文学作品のアナロジーとしても読んでみたい。無限の解釈可能性のあるもの、知性によって客観的な真実にたどり着けないもの。下記の引用箇所の、「アルベルチーヌ」を『失われた時を求めて』に重ねれば、それはそのまま私の本作に対する思いにも通ずる。

そんなわけで、アルベルチーヌの思い出のせいできわめて苦痛に満ちたものになったこの数年がその想い出に焼き付けていたのは、六月の午後の終わりから冬の夜に至る、また海上にかかる月明かりから家路につく明けがたに至る、さらにはパリの雪からサン=クルーの枯葉に至る、そのときどきの季節や時刻の、変わりゆく色彩であり、さまざまな様相であり、余燼であったのみならず、私がアルベルチーヌにつぎつぎといだいた特別な想念や、そのときどきに想い描いたアルベルチーヌの容貌や、それぞれの季節にアルベルチーヌに会った間遠だったり頻繁だったりした頻度や、アルベルチーヌを待つことでひきおこされた激しい不安や、ある瞬間にアルベルチーヌに見出した魅力や、膨らませては消えていった希望などの、変わりゆく色彩でもあり、さまざまな様相でもあり、余燼でもあった。これらすべては、振り返ったときの悲哀の性格はもとより、その悲哀と結びついた光や香りの印象までをも同じように変更したうえ、春や秋や冬がめぐってくるとアルベルチーヌと切り離しえない想い出ゆえにすでに悲しいものとなっていた太陽年の一年一年に、いわば感情の一年をつけ加えてそれを補完したのである。(p.162-163)

・アルベルチーヌとドロレス・ヘイズ

さぁさぁ、今日はこのあたりで一人ゲストをお招きしよう。当ブログのことそれはもちろん、ウラジーミル・ナボコフ*2であり、『ロリータ』【過去記事】ことドロレス・ヘイズだ。第1篇の感想でも少し触れたとおり、『ロリータ』は明白に本作を意識して書かれている。とくに、「ロリータ」のことを語り手が「消え去ったドロレス」*3と表現していることからも、特に本篇との繋がりが強い。

例えば次の箇所などどうだろう。

アルベルチーヌその人はどうかといえば、私の内心にほとんど名前という形でしか存在していなかった。その名前は、たまに夢から醒めたように途切れることはあったが、脳裏に休みなく書きつけられてやむことはなかった。かりに私が考えていることを大声で口にしたら、アルベルチーヌの名前を休みなくくり返したはずで・・・(p.49)

日付がだんだん混乱してきた。現在は一九四七年の八月十五日あたりのはず。先を書きつづけられるとは思えない。心臓も、頭も—何もかも。ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ、ロリータ。植字工よ、このページが埋まるまで繰り返してくれ。(新潮文庫版、p.196)

そもそも、ハンバートがドロレス・ヘイズのことを「ロリータ」と呼ぶこと自体、プルースト的に見れば、名づけ、規定し、所有しようとする欲望の現れだ*4

では逆に、「私」をナボコフ的に見てみるとどうなのか?ドロレス・ヘイズとハンバートの関係によって、アルベルチーヌと「私」との関係を照射してみるとどうなるのか?確かに、繰り返し見てきたようにアルベルチーヌは不定性の存在として描かれ、その輪郭はついぞ像を結ぶことはない。しかし、それはあくまで「私」の認識に従ったことから得られる結論だ。ハンバートに対するのと同程度の疑いの目を、「私」にも向けたとき、そこにはゴモラの住人とは関係のない、純朴で哀れな孤児が居る可能性があるのではないだろうか。

 

第12巻より、ニオイバイカウツギ

お気に入り度:☆☆☆☆☆

人に勧める度:☆

 

これまで同様、背景や本の作りへの言及は既に第1篇の感想で述べたので書かない。

 

・ほかの篇の感想など、『失われた時を求めて』に関する記事はこちら

*1:4巻447頁

*2:ヴェネツィア行きで顔を出すラスキンについて。ジョン・ラスキンはイギリスの当代きっての美術評論家である。実は『不思議の国のアリス』のモデルとなったアリス・リデルの家庭教師を務めていたことがある。作者ルイス・キャロルにも創作の上での助言を与えていたとも言われる。ナボコフはその『アリス』のロシア語訳を手掛けている。

*3:新潮文庫版449頁

*4:このテーマは第5篇の感想でも触れた