ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ナボコフ全短篇』①「ナボコフの一ダース」ウラジーミル・ナボコフ/秋草俊一郎他訳

シャガールみたいな青い夜

経験上、短篇集の感想を書くのは大変だと知っているので、これまで避けていた作品集。

しかし、今回この鈍器オブ鈍器、作品社の漬物石【参考リンク】こと『ナボコフ全短篇』を再読する機会が訪れたので、これを気にブログで取り上げることにした。

ナボコフ全短篇』は、現存するナボコフの全68篇の短篇すべてを収録している、重さ約1.2kgの紙の塊である。『黄金虫変奏曲』【過去記事】までは外出先で読んだが、流石にコイツを外出先で読んだことはなかった。

周知のとおり、ナボコフの短篇は創作言語を英語に切り替える前の時期に集中している。このため、創作言語の大半はロシア語で、そのすべてが英訳もされている。英語版とロシア語版の微細な異同、即ち「自己翻訳」の問題が終始付きまとっている。

作中の舞台はヨーロッパ全域に及ぶが、ナボコフ自身が一時期活動の根拠地に据えていたベルリンを舞台とするものが多い。

68篇の感想すべてを一つの記事にまとめるのは暴挙であるため、今回はこれを便宜的に5つに分けることとした。区分の根拠はアメリカで出版された4つの「1ダース」、即ち、「ナボコフの一ダース」、「ロシア美人」、「独裁者殺し」、「ある日没の細部」と、これらに収録されていない「その他」に拠ることにした。

なお、他にもいくつか人気作(?)はあるが、ナボコフ自身が最初の短篇集向けに過去作からチョイスした「オーレリアン」、「マドモワゼル・O」、「フィアルタの春」、「雲、城、湖」の4作は四天王的な扱いともいえる。人気も高く、研究者によって言及されることも多い。いずれも「ナボコフの一ダース」に収録されている。

これも周知のとおり、短篇といえ難解な作品が多い。むしろ短篇であるがゆえに捉えどころのなさが増していると言っても良いかもしれない。そこで、手元で読める範囲の各種文献にもあたることとして、日本語で読める参考文献情報も記載した。自身の「読み」も大事にしたいため、一応再読ではあるが、念のため二読をしてから文献にあたることにしている。中でも面白かったのは「フィアルタの春」を扱った若島先生のものと、「暗号と象徴」に触れている秋草先生のものだ。

各篇の感想では、特に理由がない限り作者の名前をVNと略記することとした。気に入った作品には+を、特に好きな作品には◎を付している。

なお、この記事のタイトルの表記について、五十音順が孕む公平性への問題が含まれているが、これは私の責任ではない。

 

お気に入り度:☆☆☆(やっぱりVNは長編がいいなぁ)

人に勧める度:☆☆

 

「オーレリアン」(1930)

タイトルのオーレリアンとは、愛蝶家、あるいは蝶マニアのこと。VN自身も鱗翅類の愛好家/研究者として知られるが、そうした「オーレリアン」のピリグラムを主人公にした物語。

ピリグラムは、鱗翅類の標本の他、子ども相手の文房具等を商う商店主。稼ぎは乏しいが、いつか異国の地へ採集旅行に行きたいと夢見ている。そんなある日、亡愛好家の未亡人から委託を受けていた商品が高額で売れることになった・・・。

この頃のVN作品にしては特に珍しい、ストーリー性優位の作品。「復讐」でもそうだったけど、割とダメ気味の夫と、そうとわかりつつ夫を大事にする妻という組み合わせお好きね。そして夫がダメ押しの悪行を働くという。

ところで、日本語では「展翅」と「天使」が同じ音だとVNが知ったら、さぞ歓喜したろうといつも思う。

◎「マドモワゼル・O」(1939)

確か唯一のフランス語原文短篇。ただし訳出は英語版から。なお、英語版はフランス語版の半分ほどしかなく、かなりの部分がカットされているという。

VN読みにはお馴染のフランス語家庭教師のお話。5歳の頃からナボコフ家に家庭教師に来たスイス人(両親はフランス人)についての思い出話。作中でもその思い出を自作に使用したことに言及される。プルーストにおけるフランソワーズみたいな人物だが、フランソワーズほど好意的には描かれておらず、そのやや突き放した距離感がむしろ良い。

マドモワゼルナボコフ邸に与えられた自分の部屋に、故国や若い頃の思い出を散りばめる。物語の終盤、語り手はスイスに帰ったマドモワゼルを訪ねるが、今度は「懐かしきロシア」を偲ぶ思い出の品が飾られている。

人が過去の記憶によって生きることを示した作品と読んで良いだろう。ただ、マドモワゼルナボコフ邸に来たのはVN5歳の頃である。マドモワゼルが駅に到着したシーンなど、VNはこれを現実に記憶として有していたわけではないことは明らかだ。従って、この物語には記憶と創作との相互関係、あるいは緊張関係もが示されている。

マドモワゼルが唯一覚えたぎこちないロシア語「ギティエ(どこ?)」や、マドモワゼルが話す「優しい嘘」の細部は、過去や故国の喪失・憧憬、あるいはこれを芸術・創造によって埋めようという作品全体のテーマとリンクする。

なお、本作は仏語から英語へ訳されたあと、最終的に『記憶よ語れ』という自伝作品に組み込まれている。さらに、仏語版の前には『ディフェンス』と、英訳前に執筆された『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』にも、マドモワゼルに想を得た人物が登場する。

参考文献では、マドモワゼルに対する語りの変遷と、記憶の取り扱い方を、VNが敬愛するプルーストとの差異にも注目しつつ論じている。

私の一番お気に入りだった小さな紫色の鉛筆は、すり減って短くなってしまい、ほとんど使うことができなかった。(p.539)

・参考文献

鈴木聡「言語と想起─ヴラジーミル・ナボコフの「マドモワゼル・O」」(東京外国語大学論集93:2016 p.131-156)

+「フィアルタの春」(1930)

みんな大好き「フィアルタの春」。VN本人が自作短篇の中の筆頭格に挙げているせいか、言及されることも多い作品。

ヴァーセンカのニーナへの恋心を巡って展開する一人称の物語。男女それぞれに別に配偶者が居るから、不倫モノということも出来る。本当に不倫関係にあったかどうかの描写が微妙なところなのもポイント。英語版とロシア語版でそれを示す単語のチョイスが異なっており、英語版では不倫していない寄り、ロシア語版では不倫している寄りに読める。ここでも自己翻訳問題が現れる。また、「信頼できない語り手」風にも読めて、ヴァ―センカとニーナが多少なりとも両想いの関係にあったのかを、読者は疑いながら読まされることになる。

物語序盤で登場する多数のモチーフが物語終盤でバンバン再登場することや、過去の記憶がテーマとなり、円環構造が示唆される点など、とてもVNらしい緊密な作品であることは確か。ただ、ちょっと難しすぎるというか、技巧的なところに重心が行き過ぎていて、一読して面白い!となるかはかなり疑問に思う

若島先生がどこかで「技巧の果ての風景がモラルと一致」(大意)するところにナボコフ作品の価値を見出すべきという趣旨のことを書いていた。私はトリックスターを気取りながらも、暖かみや悲哀、そしてナイーブなロマンチシズムが顔を覗かせるところも好きだ。ということで、本作は次の一文のためにこそ好きな作品。会話文から地の内省的な語り文への移行が素晴らしい効果を生んでいる。

「・・・ちょっとまって、わたしをどこに連れて行こうっていうの、ヴァ―センカったら?」

どこにって、過去にもどるんだ。(p.555)

参考文献も数多いが、かつてはチェーホフの「犬を連れた奥さん」との影響関係を指摘する読みが多かったようだ。また、一部にいわゆる「異界読み」の影響が強いものもみられるが、若島先生のニーナの暖かさを中心に据える読みが一つの画期となったように思われる。また、寒河江先生のフィアルタという(架空の)空間が時間を解体しているという視点も斬新で、作中のわからなかった表現が氷解する思いだった。

・参考文献

若島正ナボコフの多層思考--短篇「フィアルタの春」を読む」(英語青年145(8):1999 p.506-508)

小西昌隆「ナボコフエクリチュール」(早稲田大学大学院文学研究科紀要第 2 分冊, 46:2000 p.143-151)

鈴木聡「回想と解離 : ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」」(東京外国語大学論集83:2011 p.163-184)

寒河江光徳「ミハイル・バフチンのクロノトポス論を元にウラジーミル・ナボコフの作品(「フィアルタの春」、『ロリータ』)における時間と空間の問題を考える試み」(東洋哲学研究所紀要36:2021 p.85-105)

毛利公美「時間の壁を超えて : ナボコフ『フィアルタの春』における彼岸のテーマ」(ロシア語ロシア文学研究1996 p.136-137)

東和徳「口頭発表概要 見出されたフィアルタ : 「フィアルタの春」精読の試み」(Круг5:2012 p.47-52)

+「雲、城、湖」1937

語り手の「代理人」であるヴァシーリイ・イヴァノヴィチは、慈善舞踏会での抽選で、親善旅行権に当選する。気乗りはしないが、その権利を手放すのにも行政手続きが必要であることがわかり、しぶしぶ旅行に参加する。旅行は8人グループ。旅行ではなぜか集団行動が強制され、旅行からの脱退も許されず、ヴァシーリイ・イヴァノヴィチは彼らのいじめの標的になっていく・・・。

あらすじの通り、異様かつ残忍な雰囲気が漂う作品。一読してカフカ的な読み味なため、比較検討してみるのも面白そう。執筆年代(ナチスによるズデーテン併合の年)や、作中に自作の『断頭台への招待』への目配せがあることから、全体主義と個人との対立という政治的主題を読み込みたくもなる。

ただ、面白いのは、表題のような三つの事物の連関のモチーフが頻出し、全体主義に対置されているのが、個人の美的感覚であるように読めるところ。また、そうした全体主義を支えているのが行政機構や国家でもなく、せいぜい7人の民間人であるというところだ。

また、語り手とヴァシーリイ・イヴァノヴィチとの「代理人」という関係も検討を要すると思われる。結末部で示されるように、雇用関係と読むのが素直であろう。しかし、「マドモワゼル・O」では、この語が作者の分身としてストーリーを観測する役回りを指す言葉として使われている。

なお、参考文献では、民族共同体意識の高揚のために、実際にこうした旅行企画が存在したことが紹介される他、作中明示されない旅行先がまさにズデーテン地方ではないかとも論じられている。

・参考文献

「布置と調和 ─ヴラジーミル・ナボコフの「雲、城、湖」」(東京外国語大学論集97:2018 p.285-304)

「アシスタント・プロデューサー」(1943)

なんとスパイモノ。ベルリンに残存していた白軍勢力の将軍と、その妻となった評判の歌手の物語。VNは実話だと主張しているし、注によるとやはりそうした夫婦は実在していたようだ。将軍は、ソヴィエト政権ともドイツとも通じていた二重スパイだったようだ。

事実は小説より奇なり式であるため、プロット優位の物語に読める。しかし、見るべきところがあるとすれば、語り手が映画の脚本として、あるいは上映されている映画として物語を語っているところだ。事実を元にした物語を、敢えて虚構性を際立たせるやり方で表現することにより、現実の持つ虚構性を暴露しようとしているかのよう。

さあ、子どもたちよ、急ぐがいい。ここを出て、正気の夜のなかへ出、・・・堅固な世界へと戻ろうではないか。ようこそ、現実よ!(p.727)

◎「「かつてアレッポで・・・・・・」」(1943)

アメリカに亡命をしてきたらしい語り手が、先に亡命してきていた旧知の友人Vに対して、自身が亡命するまでの顛末を手紙で語る。語り手はヨーロッパを離れる前に、結婚をしたようだ。亡命へと至る列車旅の間、語り手と妻ははぐれてしまう。再開後、妻は語り手に対し、はぐれている間に浮気をしていたことを仄めかす・・・。

ポイントは、この妻に虚言癖あるいは妄想癖があるように読めるところ。語り手は不確定な過去の事実に対して懊悩することになる。表題がその引用であるところのシェイクスピアの『オセロー』はもちろん、チェーホフの『犬を連れた奥さん』も作中で言及される。しかし、私としてはこの物語はプルーストにおけるアルベルチーヌ譚の精神的な子孫であると読みたい。

ぼくは奇妙な錯覚、つまり、まず最初にあらゆる細部をつきとめて一分ごとの出来事を再構成し、しかるのちに、それに耐えられるかどうかを決めなければならないという、錯覚にとらわれていた。(p.734)

ただ、この作品は単にアルベルチーヌ譚の焼き直しに留まるものではない。なぜなら、プルーストとは違い、語り手自身の語りもどこか虚言癖的な印象を読者に与えるのだ。また、物語の一番外側で、「旧知の友人V」が「語り手」の手紙を加工したことにも目を向けさせられる。

もしかすると虚構とは、実現したかもしれない現実のことなののかもしれない。

「ひょっとしたら、わたしは同時にいくつかの人生を生きてるのかもしれない。ひょっとしたら、あなたを験したかったのかもしれない。ひょっとしたら、このベンチも夢で、あたしたち、サラトフか、それともどこかの星にいるのかもしれない」(p.736)

なお、参考文献では、「フィアルタの春」や「オセロー」との比較検討の上で、この作品の持つ虚構と不定性の多層構造について論じられている。

・参考文献

「生と物語 ──ヴラジーミル・ナボコフの「かつてアレッポで……」(東京外国語大学論集91:2015 p.143-166)

「時間と引潮」(1944)

ぶっちぎりでわからない話。90歳になる老人が、未来から執筆当時の現在である1940年代を回想しているというところまではわかる。ただ明確な物語性はなく、未来の視点で現在のモノについてやや風刺的に語られているに過ぎない。

英語で読むと例によって頭韻の多い文章のようだが、ちょっといまこれを読む元気はない。うーん。いまいち消化不良なのでいつかリベンジしたい。

VNが読んでそうなものとしては、スティーブンソンの"The Ebb Tide"との類縁が気になるが、残念ながら同作未読のため何も語ることができない。

+「忘れられた詩人」(1944)

忘れられそうになっていた詩人ペローフ。その詩人の作品集出版の記念集会に、若くして死んでいたと思われていた当の本人を名乗る人物が闖入する。ペローフの再評価は、「最も不出来な作品の中にさえ見られる革命への仄めかし」などのためである。しかし、自称ペローフ老人は、当時の自分を「過てる若者」と評するなど、ペローフを持ちあげたい者たちと齟齬が生じる。

軽妙で、コメディ色の強い作品と言って良いだろう。設定上、ペローフの生年はドストエフスキートルストイの間くらい。明確に照合するモデルはいないだろうが、本文に『悪霊』が引かれる点、ペローフが「死んでから蘇る」点、『罪と罰』の重要モチーフであるラザロの復活にまで言及される点等から、相当程度ドストエフスキーを意識しているのは間違いないだろう。

作品が作者を離れて、政治的な理由から賞賛され評価されることの馬鹿馬鹿しさを描いたものと思われる。作品への解釈行為そのものを主題としてている点で、後年の『淡い焔』を思わせる。

記念碑の除幕式は厳かにおこなわれ、その地区の鳩たちのお気に入りの場所となった。(p.750)

+「団欒図、1945年」(1945)

名前も明かされないロシア人の語り手には、同姓同名であだ名も同じ見知らぬ人物が居る。彼はその人物と取り違えられて苦労した経験が何度もあった。ヨーロッパを転々とし行き着いたアメリカにも彼は来たようだ。ある日彼は、またその取り違えによって、婦人が主催するパーティに招待される。そこで繰り広げられるお喋りは、WWIIは狂ったヒトラーの責任、そもそもヒトラーオーストリア人、等々、親独反ユダヤの偏った言説だった。語り手は反論を試みるが、どもってしまい上手く話せない。結局、あなたたちは人殺しか馬鹿者か、その両方だという捨て台詞を残して会場をあとにし・・・

『プニン』や『ベンドシニスター』に比べても政治色が強く、語り手の思想的見解が描かれている作品。反ソ親ユのVNの見解をそこに読み取るのは容易い。

「団欒図」の原語は"conversation piece"。これは美術用語であり、理想化されずに描かれた集団肖像画を指す。自称「知識と教養のある温和なアメリカ人」の現実を戯画的に描いたともいえそうだ。

ところで、「雲、城、湖」では芸術(的個人)と対比的に描かれていたが、今作では雄弁と「どもり」が対比的に描かれているのが興味深い。作中、偏った言説を繰り広げていた教授が言論の自由を主張する場面がある。「雲、城、湖」で、集団が攻撃的に変容した場面を描いたように、こうした政治的な雄弁さが攻撃性に変容しうることも示そうとしたのではないだろうか。

"Conversation Piece,1945"が原題だが、"Conversation, Peace, 1945"(会話、平和、1945年)の含意があるとも読み込みたくなる。

なお参考文献は、政治的内容を伴うVNの作品は、外在する世界との和解を暗に拒絶し、距離を置こうとする点に特色があるなどと論じる。

・参考文献

鈴木聡「残酷と非関与 ――ヴラジーミル・ナボコフの短篇小説の場合」(東京外国語大学論集101:2020 p.95 -115)

+「暗号と象徴」(1948)

この全集版で僅か7頁。精神病院へ入院中の一人息子を見舞って、そして帰宅するというだけの短篇。一読すると、カフカのような、少し不気味な雰囲気の漂うだけの短篇。

ところが、この短篇は過去に多くの研究者によって謎解きの的にされ、米国では丸ごと1冊、数十人の検討陣がこのただ一篇の解釈を行った書籍まであるという。

それは、VN本人が、表層的な第一のストーリーの背後に、第二のストーリーが用意されている、という趣旨の発言をしていたことが大きい。謎解き好きの多くの読み手の心を惹きつけたわけだ。

残念ながら先の書籍は邦訳されていないので、どのようなバリエーションの解釈があるのか知らない。私には精神病院を強制収容所と捉えて、ホロコーストの隠喩として読むことしか思い浮かばないし、そう読むのが最も素直であるように思われる。

ふぅ。謎が解けた。安心。

いやそうではない。そう解釈をした上で、だからこそより痛切に伝わる、子を思う両親の気持ちの方にこそ目を向けるべきように思われる。このため、私はこの作品はユダヤ人問題などを扱った他の短篇とよりも、「神々」の親戚として読みたい。

なお、参考文献はVNの短篇「報せ」と本作との関係を論じる。中でも、本作を自己翻訳する際にVNが犯した「誤訳」の指摘は実に面白い。VNの子ドミトリイの出生という伝記的事実と「誤訳」とを本作の読解に引き比べる指摘には唸らされる。

余談だが、VNの写真というと、晩年の大作家然として不遜な顔つきのものと、若い頃の柔弱な詩人然とした繊細な顔つきのものの二つを目にすることが多い。しかし、私は1935年にベルリンで撮られた、ベビーカーに乗るドミトリイ、妻ヴェーラと3人で写るものが最も好きだ。残酷な運命が背中を追う中、長男という荷物を背負うことになった不安、哀切、そして愛情と希望の入り混じった複雑な表情が、まるで作品そのもののようだ。この写真は、参考文献の第3章扉で見ることができる。

本当のところは、彼の世界に穴をあけて、そこから脱出しようとしていただけなのだ。(p.776)

・参考文献

秋草俊一郎『ナボコフ 訳すのは「私」―自己翻訳がひらくテクスト』第2章

「初恋」(1948)

汽車で行ったパリ旅行。浜辺での海水浴。同年代の少女との出会い。「初恋」を語るのにまさにおあつらえ向きだが、VNはこれを自伝的な物語だという。VN愛好家には定番的なカットが多いが、残念ながら本作にはボートのシーンは出てこない。

浜辺での恋物語であること、途中『カルメン』からの引用があること、主人公に先行者が居たことなどなど、『魅惑者』と並んで『ロリータ』の先駆的作品であると言えるだろう。

鉄道模型のモチーフがやがて本物の鉄道旅行に変化していく点など、面白い部分もあるが、同じ自伝的な位置づけの物語なら「マドモワゼル・O」の方が面白い。

参考文献は、やはり『ロリータ』と比較しつつ、ポーの影響や、フロイト精神分析論を(批判的に)踏まえた形で創作されていることなどを論じる。

・参考文献

加藤雄二「エドガー・アラン・ポーウラジーミル・ナボコフにおける回想と記憶のポリティクス:「アナベル・リー」、「初恋」、『ロリータ』をめぐって」(東京外国語大学論集81:2010 p.97 -111)

「ランス」(1952)

SF的短篇。表題のランスとは「ランスロット」の愛称。ランスの両親が、ランスを初の「惑星探検隊」に送り出す物語。

ランスロットという名そのものに代表されるように、未来的な宇宙探検の物語と、過去的な中世騎士道物語とが類比的に表現されている。この組み合わせは、作中のチンとチラのように、次世代を残すことになるのだろうか。

「神々」、「暗号と象徴」など一連の「子を思う親」の作品の系譜としても読めそう。子は親から独立し、いつか親を乗り越える。過去の物語は未来の物語のよって乗り越えられるかもしれない。さて、乗り越えられた親側は?

なお、本作の成立は宇宙開発競争が始まるよりも早いくらいの頃。ガガーリンが成し遂げた有人宇宙飛行は1961年のことである。

SF的、という点で後年の『アーダ』を胚胎するともいえる。この点に関して面白いのは、語り手(≒VN)が短篇の貴重な1章分、3頁強を割いて、執拗に推理小説やSF的ディティールを拒絶しているところ。

どちらもうんざりするくらい凡庸な文章で、会話がどっさりあるし、通勤客向けのユーモアも山ほどある。(p.792)

なお参考文献では、本作を現在、過去、未来の複数の次元における言説を共存させつつ普遍的な主題を探る作品であると位置づける。創作の時期に、VNが子ドミトリイが厳しい登山の経験に送り出したことが指摘されており、興味深い。

・参考文献

鈴木聡「探求と孤独──ヴラジーミル・ナボコフの「ランス」」(東京外国語大学論集99:2019 p.151 -172)

「怪物双生児の生涯の数場面」(1950)

怪物双生児とはなかなかキツいいいようだが、結合双生児、俗称シャム双生児を主人公に据えた物語。

私の世代ですぐ思い浮かべるのはベトちゃんドクちゃんだが、執筆当時にはまだベトナム戦争も起きていない。見世物として興行をさせられる様子からは、VNの念頭にあったのはチャン&エン・ブンカー兄弟だろう。この兄弟は、俗称であるシャム双生児の名称の由来にもなっている。

祖先の名前がイブラヒムであることその他のディティールから、宗教的な含意がありそうに読める。ユダヤ教キリスト教の寓意なのだろうか?あるいは、ロイドとフロイド、夢の共有などというディティールから、フロイトに対する含みもあるのだろうか。

結末部で、片方の眼鏡がテープで修理された人物が現れるのは、双生児の命運を仄めかしているように読める。

 

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