おまえの手で漕いでゆけ
お金を出せば、美女だけではなく、ポエジーも買うことができるのだ。(p.19)
<<感想>>
最初に宣言しよう。この作品はおススメである。
それも、高校生くらいの方が読むと面白いんじゃなかろうか。もっといえば、家庭や学校の方針でアルバイトもさせて貰えない境遇にいるのであれば、最高の読書体験になろうだろう。
こんなこというと、大人のフラバルのファンに怒られそうだが、『ガリヴァー旅行記』だって、『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】だって、子どもも読めるという利点が付加されているだけで、決してその作品が児戯に等しいというわけではない。読みやすいことはいいことだ。
なぜこの作品が読みやすいかというと、それはこの話が、飲み屋で二回りくらい上のおっさんが若者に語り出すようなお話だからだ。ウザい武勇伝の良性のヤツの語り口。また、お話のスジ自体は、主人公が給仕から給仕頭を経て、ホテルオーナーへと変貌する立身出世譚のような進行で、スルスル読み進めることができる。
ところで武勇伝といえば、タイトルになっている『わたしは英国王に給仕した』というのも、ホテル勤務の給仕である主人公が、先輩の給仕に聞かされる武勇伝に由来する。その先輩は、かっこいいところを見せると、キメ台詞のようにこういうのだ。
「なにせわたしは、英国王に給仕したんだから。」
高校生におススメしたいのは、読みやすさのためだけではない。
それは本作が、「エモし」の文学だからでもある。当然これはいま私が作った用語だ。一般に、平安文学を語る枠組みとして「もののあはれ」の文学と「をかし」の文学があると言われている。
「もののあはれ」とは「しみじみとした情緒美」を指し『源氏物語』に代表される。
「をかし」とは、「明朗で知性的な感覚美」を指し『枕草子』に代表される。
これに対し、「エモい」とは、ペーソスやノスタルジアを含む名状しがたい、能動的な感動である*1。
まず、ここで強調したいのは、「能動的」な共感であるという点だ。エモくない、受動的な感動というのは、まるで幼稚園の教室のように、全員で笑う場所、全員で泣く場所を懇切丁寧に指定するTVサイズのクソドラマが強制してくる感動のことだ。そう、そんな感動なんてクソくらえだ*2!お前の感動を作り手に委ねてはいけない!!
次に、「名状しがたさ」もポイントの一つだ。「名状したがい」ため、短い文章を引用して、ここがエモいんです、というのは難しい。むしろ、本作のエモさは、次々と繰り出される小エピソードの行間から立ち昇ってくる。例えば、ホテルの常連客から馬鹿にされいじめられている詩人が、むしろ一番高貴な存在に見えてくるエピソード。あるいは、小さな規則違反がために信頼を失い、後日金のスプーンが無くなったときに、犯人と疑われるエピソード。敢えて短文で引用すれば、次の場面のような洞察もエモい。
田舎の家屋にいるのがいかに幸せかといったたわ言はうちに来るような客人たちが考え出したことで、とどのつまり一晩で湯水のように金を使い、東西南北に紙幣を投げ捨てていい気分になっているかれらには、本当はどうでもいいことだったということが、今わかった。(p.69)
この「エモし」の文学を可能にしているのは、逆説的ではあるが、登場人物の情動の描写が抑制されているからだ。作者フラバルの文体は、冷静な観察者に徹しているものだ。それは、まるでファーブルがスカラベを観察し記述したように、人間の生態そのものを観察し記述したかのような効果を生んでいる。そこには戯画化されてはいるものの、透徹した人間模様が立ち現れている。
このため、本作は決して「エモし」だけに留まるのではない、深い読みに耐える可能性をも秘めている。
例えば、社会哲学的・文化人類学的な読みはどうだろう。本作では、貨幣、あるいは貨幣と人との関わりが重要なテーマとなっている。社会思想家の今村仁司氏の著作に、ゲーテの『親和力』やジッドの『贋金つくり』を、貨幣を通じて読解した著作がある*3。その中で同氏は、貨幣を人間同士の関係性を媒介する手段として、あるいは他者の犠牲の代替物として規定する。
そうした視点で本作を眺めると、ズデニャクという登場人物がとても面白い。ズデニャクは主人公の先輩給仕であるが、貯め込んだ金を近所の村で一夜にして蕩尽したり、他人のために全て使い果たしたりしてしまう、そういう人物だ。彼は、金を出世や他者承認、性欲など、金を欲求を満たすための道具として捉える主人公と対比的に描かれている。
フラバルがマルセル・モースの『贈与論』を読んでいたのかは知らないが、これはまるで近代的な貨幣文化と、前近代的*4なポトラッチ文化とを対比的に描いているように読める。
あるいは、さらに進んで、宗教的・倫理的な読みも可能かもしれない。
本編全体を貫いているのは、稼いでも稼いでも、金銭的に成功しても、本当の幸せは得られない、といった感覚である。これは「知足」すなわち、老子の「足るを知る者は富む」の感覚である。結末部になるので直接の言及は控えるが、全てを失った主人公が最後に見出すのも、道教的な含みを持ったモチーフだ。
もしかすると、一周まわって本作の道教的な雰囲気、東洋的な感覚が、読みやすさや「エモさ」の感覚に繋がっているのかもしれない。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆☆(万人に勧めやすい良作、但し、性描写強め。)
・余談
まったくの余談であるが、私は足掛け10年近く給仕の仕事をしていた。最初に働いたのが、某ホテル内のレストラン。あれは17歳のことだったろうか、王様ではなく、某東証一部上場企業の副会長(=そのレストランの親会社の親会社の親会社くらいの事実上のトップ)に給仕をしたことがある。「お客として来ているんだから、他のお客さんと同じように扱っていいんだよ」、というようなイイハナシに出てくるお偉いさんではなく、全身の毛穴から「俺に粗相があったらお前の会社ごとお前の首を飛ばしてやる」という圧を噴出しているタイプの暴君だった。
その頃、給仕長にあたる支配人から聞いた話、ごくまれに訪れる「会長」という人物がいるらしい。その会長はだいぶ高齢で、車椅子に乗っている。会長が来店する場合には、副会長以上の特別対応が必要で、車いすの通るところには、すべて赤絨毯を敷いて回るそうだ。平成の世にそんな時代錯誤があるのかと疑う私に、支配人は、倉庫にしまってあるでっかい赤絨毯のロールを見せてくれた・・・。
ここに書いたのは全部本当の話だが、どうにもホラ話っぽいでしょう?本作もこういう、誇張されたホラっぽいエピソードが満載で、実にエモい。
・同じ時代のダンツィヒを舞台にした重ための傑作
・同じチェコ出身の亡命者による傑作
<<背景>>
1971年執筆。「夏のひと月」で執筆されたという。
作品の舞台はチェコで、作中年代は明示されない。ただ、主人公が若いころに、ナチスドイツによるズデーデン地方併合(1938)が描かれるため、主人公はおおよそ1920年代生まれとみるべきだろう。またその後の、二月事件(1948)による共産化も描かれるため、物語はおおよそ1930年代~1950年代のことと思われる。
グラス『ブリキの太鼓』は1924-1954を舞台にしているため、おおよそ同時代の物語といってよさそうだ。
両作とも、ナチスドイツを上からではなく下からの目線で捉えているのが良い。一市民にとって、歴史のうねりは与件であるかのように。なお、作中ジークフリートが再登場しない理由がわからない人は、「T4作戦」を調べよう!
<<概要>>
全5章構成。各章には数字ではなく、タイトルが付されている形式。章の下に区切りはなく、区切りがないどころか、訳者解説によると原文は改行さえ稀であるという。
各章は全て「これからする話を聞いてほしいんだ。」で始まり、本作がすべて主人公の「語り」であることが示される。視点位置は当然、一人称ということになる。
<<本のつくり>>
表紙にその人の名前が書いてあればまず安心な人の一角を占める阿部賢一氏の翻訳。
チェコ語の翻訳者であり、「その他の外国文学」勢【過去記事】の筆頭である。訳者解説も勉強になり、今回この「本のつくり」欄で述べるべきことはほとんどない。
なお、本作から池澤全集は第三集に入る。当初刊行予定だったのは第二集までの24冊で、第三集は好評につきおかわりがされた分だ。第三集の作品が発表された当時、下馬評が一番高かったのがフラバルのこの作品だ。チェコ語の作品を刊行前から評価できるだなんて、随分と高尚な下馬先の人がいたもんだ。だがそれは、本書に先立って松籟社の「東欧の想像力」シリーズから、フラバルのもう一つの代表作が出版されいたことによるのだろう。同社からは、同書の評判を受けて、「フラバルコレクション」が刊行されており、つい最近『十一月の嵐』の刊行をもって完結した。
ところで、阿部氏の顔写真を見ると、蝶ネクタイが似合いそうだな・・・と思うのは私だけだろうか?蝶ネクタイの大学教授といえば、伊藤眞教授がお馴染だが、特別似ているというわけではないが・・・。