ナボコフ ドストエフスキー殺しの文学
・・・私は犯罪的な直感で、どう言葉が組み立てられ、どうふるまえば、日常の言葉が賦活され、隣からその輝きや熱や影を借り、みずからも隣の言葉に反映しつつ、それをそうした反映によって一新させる―おかげで行全体が生きているみたいに連続的に色合いを変化させる―のかを察知していて、そうした言葉の隣接関係を察知しつつ、でもぼくはそれをものにすることができないのだ、いまここのものでないぼくの課題のためにそれがぼくには欠かせないのに。(p.89)
<<感想>>
ナボコフ先生の作品ということで、今回も遠慮なく、ネタバレ上等で最初にあらすじを紹介してしまいたい。
主人公のキンキナトゥス*1は、理由もわからずに死刑判決を告げられ、投獄される。獄吏や監獄長、同囚者、面会に来た妻などとのやり取りが、ドタバタ喜劇調あるいは夢幻劇調で展開される。結末部では、とうとう刑が執行されるが、キンキナトゥスの生死は明確にされず幕を閉じる。
このように、プロットはシンプルだ。
ところが、本作は実に豊穣な作品で、感想として書き記しておきたい事項が非常に多い。
まず、『キング、クイーン、ジャック』【過去記事】同様、『不思議の国のアリス』の要素が散りばめられてる点や、登場人物が作中人物であることに勘付いているフシのある、メタフィクショナルな要素が気になる。また、『マーシェンカ』【過去記事】や『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』【過去記事】のように、作中で創作行為が取り上げられている点も見逃せない。『偉業』などと同様、読者が予想する、あるいはベタな展開に対してことごとく肩透かしを喰わせる点も興味深い。この他にも、主人公に対する「視線」の主題や、処刑が結婚に擬えられている点も、取り上げ甲斐がありそうだ。
しかし、これらは全部横に置いた上に、今回は敢えてナボコフからテキストを強奪して、本作を精一杯誤読してみようと思う。
思うに、本作の裏テーマは「ドストエフスキーのパロディ」にある。
ナボコフ・コレクション 処刑への誘い 戯曲 事件 ワルツの発明
- 作者: ウラジーミルナボコフ,小西昌隆,毛利公美,沼野充義
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/02/27
- メディア: 単行本
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ペトロパヴロフスク要塞
キンキナトゥスが囚われる監獄は、次のように描写される。
独房の家具を構成しているのは机、椅子、スチールベッドだった。(p.12)
家具がこの3点しか存在しないことは、作中繰り返し触れられる。
そして、壁は黄色であり(p.44)、遥か高い位置に格子付きの窓穴があり(p.25)、入り口の扉には監視孔がついている(p.10)。
これを踏まえて、次の動画の冒頭をご覧いただきたい。
独房の様子は、作中の描写そのものである。
一国内の監獄の内装など、どこもそう大差ないのかもしれないが、この監獄がモデルであると断じる根拠は他にもある。
実は、ナボコフの生家と、このペトロパヴロフスク要塞とは、直線距離で5kmも離れていない。Google マップでみると、一目瞭然である。
さらに、このペトロパヴロフスク要塞と作家VNとは、その空間距離よりも近しい関係がある。ナボコフ本人によれば、ナボコフの祖父の兄は、1849年当時、この要塞の司令官を務めたという(『記憶よ、語れ 自伝再訪』p.58)。
この1849年に、本作の主人公キンキナトゥスと同じように、死刑判決を受けてこの要塞に収監された人物がいる。
そう、ドストエフスキーその人である。
ナボコフ本人は、このエピソードがご自慢らしく、『ロシア文学講義』のドストエフスキーの講義でも触れている。
すなわち、ナボコフがキンキナトゥスを描くにあたって、収監されたドストエフスキーの存在を念頭に置いていないはずがないように思われる。
ロジオン・ロマーヌイチ
本作には、やたらR(ロシア語では"Р[エル]")音で始まる名前の人物が登場する。
キンキナトゥスの獄吏はロジオン、弁護士はロマン、監獄長はロドリグ、端役だが、道化のロムカなんていう名前も登場する。
ロシア文学好きとしては、当然やたらR音がうるさいあの主人公を意識せざるを得ない。
『罪と罰』のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフである。
ローマヌイチというのは、ロマンの父称系であるから、その名前の構成要素の人物が二人登場することになる。
特に、結末近くになると、愛称系である「ロージャ」が用いられたり、二人の名前がセットで呼ばれるなど*2、ラスコーリニコフを意識していないとは思えない。
「・・・さあ、これがぼくの助手のロージャとローマ、どうぞご愛顧お引き立てのほどを。」(p.203)
さらに言えば、ラスコーリニコフが老婆殺害に使った凶器である「斧」も、キンキナトゥスに対する処刑道具として登場する。
物語の内容
『罪と罰』を意識していると思しき点は、道具立てばかりではない。
本作の結末部の内容も、『罪と罰』と類似する。
まずは『罪と罰』から。
しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。(同p.485)
次に、『処刑への誘い』から。
・・・そしてキンキナトゥスも、埃が立ち、物が落下し、画布がはためくなかを、声から察するに彼に似た存在たちの立っているほうへ歩き出した。
いずれの場面も、いってみれば作中人物が作中で表現されてきた人物から生まれ変わり、別の世界へと旅立っていく内容の描写となっている。
ドストエフスキー殺し
さて、ここまでは本作がドストエフスキー、特に『罪と罰』を強く意識していることを例証してきた。
ここで注目したいのは、本作が『罪と罰』から消し去ったものが何かという点だ。
その一つ目は、宗教あるいは神である。
本作は冒頭で触れたとおり、死刑判決を受けた主人公が、処刑へと向かっていく物語である。それにもかかわらず、宗教や神に対する描写がついぞ一度も登場しない。
キリスト教圏の物語では、むしろ登場しないほうが不思議である。本作は、ある種SFチックな、いつともしれずどことも知れぬ空間を舞台にしているが、私には、宗教を登場させないことが目的であり、舞台設定が手段であるように見えてならない。
ペトロパヴロフスク要塞の独房には、机、椅子、スチールベッドのほかに、もう一つ、イコン*3が置かれていたはずだ。これも見事に、そして意図的に消し去られている。
そしてもう一つは、哲学あるいはイデオロギーである。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、その独自の道徳理論に基づき殺人を犯し、監獄へと送られる。ドストエフスキー自身も、政治犯として収監されている。
他方、本作の主人公キンキナトゥスの罪状は、「認識論的卑劣さ」という名称こそ明らかになるものの、その具体的な意味内容はついぞ明らかにされない。すなわち、キンキナトゥスが行ったことの善悪や正邪それ自体について、本作では一切問題にされないのである。
ナボコフが『処刑への誘い』から消し去ったこの宗教/神と哲学/イデオロギーは、いずれもドストエフスキーの文学をドストエフスキーの文学足らしめている中核要素である。
思うに、ナボコフの狙いは、これらの要素を消し去ってもなお文学が文学足りえることを示すことにあったのだと思う。
『処刑への誘い』は、ナボコフがドストエフスキーに宛てた死刑判決に違いない。
<後記>
この感想の作成中に、諫早勇一先生の次の論考に触れた。
http://www.dsjn.jp/dsj-archive/memberarchive/isahaya/index.html
先生は、40年も前に本作とドストエフスキーの関係性について論じておられる。
自説が裏付けられたのを喜ばしく感じると同時に、専門家の分析力と表現力に脱帽する次第である。ぜひご一読いただきたい。
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆
<<背景>>
1938年発表。ウラジーミル39歳の作品である。
ざっくりまとめると、ナボコフ先生はロシア→ベルリン→パリ→アメリカという順で転々としている。この作品はナチスから逃れ、パリへ行き着いたあとに書かれた作品となる。
ドストエフスキーの没後57年後、WWIIの開戦前年にあたる。
感想で取り上げた『罪と罰』は1866年の作品。
ドストエフスキーが、ナボコフのご先祖様に囚われていたのは1849年のことである。
<<概要>>
ナボコフ先生のロシア語時代の長編8作目にあたる。
ロシア語時代の作品としては、『賜物』【過去記事】『ディフェンス』【過去記事】に次いで重要な作品などとされている*4。
英訳がされており、我が国ではその英訳版からの翻訳に既訳がある。
既訳では題が『断頭台への招待』という韻を踏んだカッチョイイ題になっている。
原版となるロシア語版からの翻訳は本作が本邦初訳となるようだ。
全20章構成。章の上下に部や節は設けられておらず、題もない。
各章のページ数にバラツキは少ない。
注意深く読むと、19章・20章を除き、劇中の1日に1章が充てられているのがわかる。
<<本のつくり>>
訳文に違和感はない。一読して理解に苦しむ文章が散見されるが、これは翻訳というよりも、作品自体のもつ複雑さによるところだろう。例えば、冒頭の引用箇所も「私」と「ぼく」で揺れる。あるいは、主人公の思考が右に揺れたり左に揺れたりするのがそのまま表現されている箇所も多い。
また、ロシア語による言葉遊びが行われている箇所は、丁寧にカタカナルビが振られ、それとわかるようになっていてありがたい。
さらには、ロシア語独特の慣用句についても、無理に類似の我が国固有の慣用句などに訳出することなく、直訳の上で割注で説明するという方針のようであり、とても好感が持てる。
偽戯曲のような本作と、戯曲二編とが同居している編集も面白い。