ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

2-06①『庭、灰』ダニロ・キシュ/山崎佳代子訳

恋愛観や感情論で愛は語れない

あの父の天才的な姿がこの話から、この小説から消えてしまってから・・・、歯止めがきかなくなってしまった。・・・今やたががはずれ、話の葡萄酒、果物の魂は流れ出し、それを皮袋にもどし、話にまとめ、クリスタルのグラスに注ぐことのできる神はもはやない。(p.150)

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一応、私も一人でも多くの人に海外文学を好きになって欲しいと思っているのだけれど、20世紀の作品はまぁおススメしづらいものが多い。

本作もそうした作品の一つだ。

物語からプロットは失われ、遠回しな比喩が多く、時系列は意図的に錯綜させられ、語り手は信用できない。語ること/読むことそれ自体も主題化される。もちろん、作者としても何か理由があって、敢えてそのように書いているのだろう。

 

物語で語られているのは、語り手、姉、父母の4人家族の物語である。どうやら語られているのは、語り手が10歳にもならない頃の話のようだ。中でも話の中心になるのは父であり、また、父と語り手との関係性である。

歴史の渦中にある10歳児には、当然、自身が置かれた歴史的・客観的状況はわかろうはずもない。だから、語りの力点は、必然的に印象・感覚・イメージや、様々な主題群になる。

ところどころに現れるキーワード群―いくつかの東欧の地名、年号、ゲットー、封印列車、ポグロム―が、読者自身の歴史的な知識と結合されることによって、登場人物たちの置かれた歴史的文脈が少しずつ明かされていく。

 

ではなぜ著者は『戦争と平和』のように、正面から歴史的に記述するのではなく、敢えてこうした迂遠な方法を取ったのだろうか。

私の思う限り、その理由は恐らく二つある。あるいは、同じ理由を二つの側面から説明することができる。

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『ソーネチカ』リュドミラ・ウリツカヤ/沼野恭子訳

かじかむ指の求めるものが

今回ロベルト・ヴィクトロヴィチが描いたのは何から何まで白い静物画数枚で、そこには「白」の本質について、フォルムについて、絵画の基礎を左右する質感について、それまで彼が苦労して考えてきたことがいろいろ映しだされていた。・・・ふだん白いと見なされているもののなかで、理想や神秘を追求する彼がこれぞ茨の道だと思うものも、すべて表現媒体になった。(p.98)

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え!『緑の天幕』【参考リンク】じゃないの!?すいません、絶賛積読中です。

別に今回はウリツカヤを取り上げたいと思ったわけではない。『ヌマヌマ』【過去記事】が素晴らしかったので、沼野先生の訳業を取り上げたいと思ったのだ。

その目的には本作はうってつけである。なぜなら、本作はとても素晴らしい作品であり、そしてとても美しい作品であるからだ。

 

本作のあらすじは、まぁざっくり非モテ系女子であるソーネチカの一代記である。『ヌマヌマ』のトルスタヤのときも同じように要約した気がする。娘時代、妻時代、母時代、そして母が終わった後は何になるのだろう?つまり、プロット的に特段ヒキが強いわけではない。

本作の妙味は、さして恵まれたところもないはずの一生であるにもかかわらず、ソーネチカが絶えず幸福を感じているところである。むしろ、幸不幸に客観などという視点が許されるのであれば、ソーネチカの一生には不幸が続いていると言ってもよい。容姿には恵まれず、結婚こそ叶うものの、貧しい暮らしを強いられ、果ては夫の裏切りに遭う。遠景には、ソビエト時代の政治体制の空気が常に漂う。それでも、ソーネチカは幸福なのである。

そうかといって、本作をして、男性に都合のいい作品だとか、とてもソーネチカに感情移入できないとかいうように評するのは端的に間違っている

 

なぜロシア文学はこれほどまでに豊かなのか。逆説的ではあるが、それは抑圧的な政治体制が長かったことと無関係ではあるまい。遅くともツルゲーネフの『猟人日記』の頃から、ロシアは常に文学によって生活を変えることを模索し続けてきた。

本作も、絶えずそうしたロシア文学の伝統を意識して書かれている。

いっぽうソーネチカの穏やかな心は・・・、煙のようにもやもやとしたギリシャ神話の響きや、眠気を誘うような、それでいて冴えたような中世の笛の音や、風と霧のたちこめるイプセンの憂愁や、あまりに細部にこだわるバルザックの退屈や、ダンテの宇宙的な音楽や、リルケやノヴァリスの海の精のシャープな美声といった子守唄を聞いてとろけていたし、すぐれたロシア作家たちの、教訓的で、ひたむきに天空の中心を志向する絶望的なところにすっかりのぼせあがってもいた―(p.15)

 

そして、『ソーネチカ』の狙いもまた、文学によるより良い生の実現であることは明らかである。これは、意味論的に示されていると同時に、文体として仄めかされている。

 

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『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』ミハイル・シーシキン他/沼野充義・沼野恭子編訳

キラキラと輝く大地で

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ヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマヌマ!ヌマ!ヌマヌマ!

狂ったのではなくて、これは歓喜の雄叫びだ。そして多少なりとも狂っているのは、私ではなく、『ヌマヌマ』のほうだ。

我が国のロシア文学界の中で知らぬひとは居ないマエストロ・沼野夫妻が「編訳」した短編集が本作だ。ちなみに、ヌマ1こと沼野充義先生とヌマ2こと沼野恭子先生からなる二人組ユニットが「ヌマヌマ」である。従って、本作品集はヌマヌマが「編訳」した『ヌマヌマ』なのである。ヌマヌマヌマヌマ。

「編訳」なのだから、作品のチョイスもヌマヌマ、作品の翻訳もヌマヌマである。タイトルにあるとおり、現代ロシア、即ち概ねソ連末期~現代の作品が取材されている。

同時代、というだけで傾向をひとくくりにできる時代は終わっているため、これらの作品群を統一する何かを探し出すことは困難だろう。しかし、この短編集全体としては、表現することへの爆発的なエネルギーに満ち溢れていると言える。

もう10年以上も前になるが、当時文学部生だった私は、母校に講師としていらしていた恭子先生から有難くも4単位を頂戴している。あいにく露文科がなかったため、入門的な位置づけの講義ではあったが、隔年で19世紀(以前)ロシア文学、20世紀(以降)ロシア文学を取り上げていた。その講義の中でも沼野先生は、現代ロシア文学がいかに豊穣かを陶然と語っておられた。配布された「日本語で読める現代ロシア文学名作リスト」は今でも大切に取ってある。

さて、以下では、各作品の感想を書き連ねてみた。本当はマイベストを選ぼうと思ったけれど、良作が多く、かつその良作同士で全く方向感が異なるため、選びきれなかった。どれも良かったが、特に気に入ったものには★を付しておいた。

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2-05『クーデタ』ジョン・アップダイク/池澤夏樹訳

Imagine there's no countries

おまえはエクソンによって抹消され、ガルフに巻き込まれ、アメリカによって押しつぶされ、フランスによって公民権を剥奪される。(p.264)

“You will be Xed out by Exxon,engulfed by Gulf,crushed by the U.S.,disenfranchised by France”(強調は引用者)

<<感想>>

アップダイクは初めてだった。

私の印象では、しばらく前に少し流行った作家、といったイメージだった。古くて一過性で少ししかウケなかったようにも聞こえて三重に失礼なようだが、代表作とされる『走れウサギ』もHSJMで、いま普通に手に入る邦訳作品が本作だけとなると、そう的外れでもないだろう。

こないだの左派ドゥングスロマンに引き続いて苦手なアメリカ文学で、少し身構えながらの読書だった。しかし期待はよい方向へ裏切られた。

 

はっきりとしたプロットのない作品が続いたからだろうか、本作では、素直に話の展開に興味をもって読み進めることができた。

この物語は、架空のアフリカの国「クシュ」を舞台にしたある種の政治劇だ。主人公ハキム・フェリクス・アル=ビニあるいはエレルー大統領は、このイスラム社会主義国家の独裁者である。タイトルにあるとおり、物語はクーデタに向かって収束していく。それを彩るのが、主人公の四人の妻(と一人の愛人)、そして二度の国内視察の旅路である。

第一夫人はエレルーと同部族出身で、伝統に従って結婚した年上の妻。

第二夫人は、エレルーのアメリカ留学時代の恋人で、白人の妻。

第三夫人は、アフリカ人であるが、部族の首長の娘であり、アメリカ留学経験がある。

第四夫人は、部族社会から切り離された「クシュ人」である若い妻。

この四人の妻との繋がり、あるいは距離感が、その鏡像としてのエレルーのアイデンティティを規定していく。

こうして書くと、『ハワーズエンド』【過去記事】のように、寓意的な記号に満ちた小説と思われるかもしれない。しかし、本作はあとがきで池澤氏も指摘するとおり、全体が細部を統制して出来ているような作品ではない。むしろ、気の利いた細部、書きたいシーン、撮りたいカットを、小説家としての腕力で一つの全体にまとめ上げたような作品だ。

従って、この作品の本当の魅力は、優れたその細部にある。

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