ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ソーネチカ』リュドミラ・ウリツカヤ/沼野恭子訳

かじかむ指の求めるものが

今回ロベルト・ヴィクトロヴィチが描いたのは何から何まで白い静物画数枚で、そこには「白」の本質について、フォルムについて、絵画の基礎を左右する質感について、それまで彼が苦労して考えてきたことがいろいろ映しだされていた。・・・ふだん白いと見なされているもののなかで、理想や神秘を追求する彼がこれぞ茨の道だと思うものも、すべて表現媒体になった。(p.98)

<<感想>>

え!『緑の天幕』【参考リンク】じゃないの!?すいません、絶賛積読中です。

別に今回はウリツカヤを取り上げたいと思ったわけではない。『ヌマヌマ』【過去記事】が素晴らしかったので、沼野先生の訳業を取り上げたいと思ったのだ。

その目的には本作はうってつけである。なぜなら、本作はとても素晴らしい作品であり、そしてとても美しい作品であるからだ。

 

本作のあらすじは、まぁざっくり非モテ系女子であるソーネチカの一代記である。『ヌマヌマ』のトルスタヤのときも同じように要約した気がする。娘時代、妻時代、母時代、そして母が終わった後は何になるのだろう?つまり、プロット的に特段ヒキが強いわけではない。

本作の妙味は、さして恵まれたところもないはずの一生であるにもかかわらず、ソーネチカが絶えず幸福を感じているところである。むしろ、幸不幸に客観などという視点が許されるのであれば、ソーネチカの一生には不幸が続いていると言ってもよい。容姿には恵まれず、結婚こそ叶うものの、貧しい暮らしを強いられ、果ては夫の裏切りに遭う。遠景には、ソビエト時代の政治体制の空気が常に漂う。それでも、ソーネチカは幸福なのである。

そうかといって、本作をして、男性に都合のいい作品だとか、とてもソーネチカに感情移入できないとかいうように評するのは端的に間違っている

 

なぜロシア文学はこれほどまでに豊かなのか。逆説的ではあるが、それは抑圧的な政治体制が長かったことと無関係ではあるまい。遅くともツルゲーネフの『猟人日記』の頃から、ロシアは常に文学によって生活を変えることを模索し続けてきた。

本作も、絶えずそうしたロシア文学の伝統を意識して書かれている。

いっぽうソーネチカの穏やかな心は・・・、煙のようにもやもやとしたギリシャ神話の響きや、眠気を誘うような、それでいて冴えたような中世の笛の音や、風と霧のたちこめるイプセンの憂愁や、あまりに細部にこだわるバルザックの退屈や、ダンテの宇宙的な音楽や、リルケやノヴァリスの海の精のシャープな美声といった子守唄を聞いてとろけていたし、すぐれたロシア作家たちの、教訓的で、ひたむきに天空の中心を志向する絶望的なところにすっかりのぼせあがってもいた―(p.15)

 

そして、『ソーネチカ』の狙いもまた、文学によるより良い生の実現であることは明らかである。これは、意味論的に示されていると同時に、文体として仄めかされている。

 

まず、ソーネチカはそもそも文学好きの少女であったことが示されている。

物を読む才能が人並みはずれている、というか、ある意味で天才的だったのだろう。・・・たとえば、死んでいくアンドレイ侯爵の枕元で気高くもナターシャ・ロストワが苦しみにたえている場面*1と、愚かな不注意で四歳の娘をなくした姉が嘆いている痛々しい姿とが、どちらも等しく真にせまって感じられるのだった・・・。(p.6)

また、ソーネチカ自身、自分に降りかかってくる出来事が「不幸」と捉えられうることであることを十分に自覚している。

そして家に帰るまでの一〇分のあいだに、ソーネチカは、十七年続いた幸福な結婚生活がこれで幕をとじたのだということをはっきり理解し、もう今となっては自分には何もないということを悟った。(p.106)

それにもかかわらず、ソーネチカが幸福な生涯を送れたのは、まさしく文学で培った解釈の仕方によってである。つまり、ソーネチカは、自身の生を解釈し、再構成することにより、その生の中ににさえも幸福があることを発見しているのである。

「百姓娘になりすました令嬢」*2を何ページか読み、プーシキンの研ぎすまされた言葉やこの上なく気品あふれる表現を味わっているうちに、ソーネチカは静かな幸福感にみたされてきた。(p.107)*3

従って、読者に示されているのは、感情移入の対象としてのソーネチカではなく、あらゆる生を幸福な生へと転換する「知恵」なのである。

 

そして、これを支えているのが、本作のその美しい文体である。ウリツカヤは、冒頭の引用箇所にある「白い静物画」の探究者よろしく、文学の基礎を左右する質感を探究する。

彼女の文体は、とても優しげで柔らかく、儚げでどこかに懐かしさと、冬の日に思う春の日のような暖かさを含んでいる。

例えば、比喩などはこんな具合だ。

ウラジーミルが、ターニャの奇妙な楽器のことをなつかしく思い出しているのは、ものには個性があるいという不思議な事実を、駆け出しの音楽家だった当時の彼が、このピアノに教えられたからだろう。このピアノのことを語るときは、まるで、もうだいぶ前に亡くなったけれど、子供のころ、親戚の年とったおばちゃんが、サクランボばかりいっぱい詰まった、忘れられないほど美味しいパイを食べさせてくれたんだ、とでもいうような口調になるのだった・・・・・・。(p.63)

あるいは、次の文章はどうだろうか。

夜遅く、アトリエに残っているのが親しい人たちだけになると、ソーネチカは、涙も流さずに静かに泣いてから、とつぜん、きっぱりこう言った。(p.127、強調は引用者)

また、今回引用したすべての箇所をお読みいただければわかるとおり、難解な表現、晦渋な言い回しは用いられない。

 

文体とはまさしく虚飾である。しかし、その虚飾こそが、不幸であったかもしれないソーネチカの物語を優しく飾り、いかなる生においても幸福を発見できるという命題に説得力を持たせている。本作は、語りの持つ認識を変容させる力を、読者に対して示してくれている。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆

 

 

<<背景>>

1992年発表。1943年生まれの著者が49歳の頃の作品である。

それまで、児童文学や短編などを発表してきたそうだが、本作が事実上の出世作、そして単行本デビュー作にあたる。

ソ連崩壊が1991年であるから、変革期の、あるいは変革後すぐの作品である。

いっぽう、作中のソーネチカは、1941年にスヴェルドロフスクの図書館勤務を拝命している。この年にロベルト・ヴィクトロヴィチと結婚したと考えるのが素直な読みと思われるので、出生年は1914年と考えるべきか。そうすると、著者は自分より29歳上の人物を主役に据えたことになる。物語の終盤では1970年代であることが示唆される。

 

感想で引用したベールキン物語は1830年発表。

作中言及された作品で一番新しいものは、ブーニンの『暗い並木道』(1937-1945)であろうか。

なお、プーシキンといえば、露文嫌いのロベルト・ヴィクトロヴィチもプーシキンだけは例外(p.29)というエピソードが登場する。これがいかにもロシア人的で面白い。

 

<<概要>>

物語は新潮クレストの版型で130ページ足らずと短く、章や部の概念はない。

新潮クレストは作品によって文字組が異なるが、これは文字組も少ないヤツである。

時折アスタリスクが挟まり、そこでおおよそ場面が転換される。

感想で一代記、と示したが、叙述自体は三人称体で、いわゆる神視点である。

ただ、この視点位置とソーネチカの心の距離との取り方が抜群に上手い。神視点であるにもかかわらず、ソーネチカの心情を描写するときには、一歩引いてセリフで表現したり、行動で表現したり、情景描写で表したりする。そしてそれらの各表現が抜群に美しい。

 

<<本のつくり>>

ウリツカヤの文体の輝きは、恭子先生の翻訳あってこそだと思っている。

そしてその事実は、今回引用した箇所だけで証明が完了しているはずだ。

当ブログでクレストを取り上げるのは初めてかもしれない。値段もこなれていて、ソフトカバーで読みやすく、天アンカット!そしてラインナップも素晴らしい。

迫りくる惹句だけが珠に瑕である。

それにしても、クレストの中でも本作は相当なロングセラーのほうだと思われる。

文学初心者にもうってつけで、お話も短く、文章も極めて読みやすい部類の小説だ。

ついては、いっそ新潮文庫採録*4して、イカしたPOPを付けた上で、サガンの代わりに夏のナントカで取り上げませんか、新潮社さん。

*1:戦争と平和』からの引用

*2:定訳は「百姓令嬢」、『ベールキン物語』の5作目である。演劇を強く意識した作品であるところがポイント。面白かろうが面白くなかろうが、露文読みとしては『ベールキン物語』は必修である。この箇所の引用で久しぶりに岩波文庫を開いたら、かつてすらすら読んだはずの文章がなんだか古臭く感じてびっくりした。古典新訳文庫版を買おうかと思って本棚を見たらあったので、(たぶん初めて)開いたら、その読みやすいこと。若い読者には完全にこちらがおススメである。

*3:先ほどの不幸の自覚の直後である。

*4:ウリツカヤとスウィフトならそれなりに売れると思うのですが・・・