いかさま師ディネセン
イギリスのおだやかな風景のなかの小川と、アフリカの山地の尾根とのあいだに、デニスのたどった生涯の道がある。その道が曲折し、常軌を逸していると見えるのは目の錯覚である。彼をとりまく環境のほうが常軌を逸しているにすぎない。イートン校の橋の上で弓絃は放たれ、矢はひとつの軌跡をえがいて飛び、ンゴング丘陵のオベリスクにあやまたず命中した。(p.386)
<<感想>>
20世紀の小説家は重い荷物を背負わされている。
生まれながらにして、偉大な19世紀という課題を与えられているからだ。
これは、「小説家」の部分を、作曲家、画家、哲学者に置き換えても成立しそうだ。
この課題に応えるため、シェーンベルクは調性を捨て、ピカソは人体を四角くし、ニーチェはハンマーを振り回した。
それでは小説家はどうしたのか。
手法は19世紀のまま、20世紀の主題を扱うという回答も勿論ありだ。
しかし、これまで本全集の中で見てきただけでも、クンデラ、ブルガーコフ、残雪などはその形式においても20世紀を試みている。
本作『アフリカの日々』は、そうした意味ではクンデラの作品―方法論に似ている。
アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)
- 作者: イサク・ディネセン,エイモス・チュツオーラ,横山貞子,土屋哲
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/06/11
- メディア: 単行本
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クンデラは『小説の技法』の中で、「小説的対位法」という概念を導入する。曰く、小説の中で物語、ルポルタージュ、詩、エッセーなどをポリフォニー的に統合することだそうだ。クンデラ本人は怒り出しそうだが、本作はまさに「小説的対位法」による小説だ。
本作は何のことはない、著者自身の17年のアフリカ滞在をもとに様々なエピソードが語られるだけの、退屈な作品だ。しかし、これは体験記風でありながら、明らかに「おとぎ話」であるし、随所に詩が挿入または引用される。「手帖から」と題される第4部では、まさしくエッセー風に、相互に関連しないいくつかの挿話が語られる。それでいて、小説全体は一定の主題によって統合されているのだ。ちなみに、クンデラが作中に突然楽譜を挿入するのに対して、ディネセンは走り書きの絵を挿入したりもする*1。
これはまさしく、「小説的対位法」そのものではないか。
しかし、その内実というべきか、小説世界で表現されるものは大きく異なる。つまり、クンデラの世界では、タイプの異なる複数の人物が並列的に展開され、人間の「可能的な」実存が探索される。これに対して、ディネセンの世界は、あくまでディネセンの単一的な視点で展開されるに過ぎない。
取り扱われるのは、動物たちの悲劇、安楽あるいは名誉としての死、人と自然とが一体となるアフリカ、異物としての白人などなどの主題だ。
視点が単一的だからといって、本書の素晴らしさが損なわれるものではない。ましてや、本書に展開される主題を思想的に批判するのは実に愚かしい。更には、本書に書かれていない著者自身の経歴をもとに本書を再構成するのは、下種の勘繰り以外の何物でもない。
きっと、著者はただ、美しいと思ったものを美しく書きたかっただけなのだと思う。そして、それは見事に成功している。
その秘訣の一つは、著者の素晴らしい比喩の才能だ。そのうち、特に気に入ったものを本記事の冒頭に掲げた。語り手の盟友として描かれるデニス―イギリス出身で、アフリカで亡くなった友人の埋葬の場面の後に描写される。これ以外にも、本書では比喩がふんだんに用いられる。著者の比喩の特徴は、短くシンプルだが、読者に対する訴求力の強いところだ。
もう一つの成功の鍵は、著者の持つヨーロッパ人としての王道的な、そして豊かな教養だろう。これは作品中の引用の傾向から読み取れる。聖書、特に創世記やヨブ記は言わずもがな、『イリアス』、『オデュッセイア』、『アエネーイス』、『千夜一夜物語』、『ドン・キホーテ』、ラブレー、シェイクスピア、ラシーヌ、プラトン、ヴォルテール、ニーチェ・・・、これは小説家の読書というより、教養としての読書だ。
著者はもともとその前半生において小説家を志向して小説家になった人物ではない。それにもかかわらず、文学史に1ページを刻むことができたのは、まさしくこの教養のなせる技だ。
恐らくはこの読書は、著者の文章や技巧の点だけではなく、著者のアフリカ感にも影響を与えている。すなわち、著者はアフリカの原始の中に、叙事詩的な世界を見出しているのだ。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆
<<背景>>
1937年発表。語り手がアフリカ暮らしを始めたころはWWIの頃、との描写があるので1914年-が舞台だろう。作中の舞台は現在はケニアのンゴング丘陵付近だ。著者の農園があった場所は、現在では著者の本名にちなんで、「カレン」というそうだ。
著者は英語でも作品を発表していたようだが、英国ではフォースターやジョイスと同時代といっていいだろう。
なお、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は1984年発表だ。
<<概要>>
5部構成。手帖の抜書き、という体裁の4部を除き、各部には章が付される。
いずれも部の題、章の題がつけられている。4部には、抜書きがされたエピソードごとに、これもやはり小見出しとして題が付されている。
17年間のアフリカ生活を一冊の小説にまとめるとしよう。愛憎劇もあった。経営の栄枯盛衰もあった。しかし、著者はこれらをすべて捨象する。著者の技巧が光るのはここからだ。
まず著者は時系列を放棄する。そして、ある程度の緩やかなまとまりをつけて、17年間で起きた様々なエピソードを次々に繰り出していく。読者からすると、17年間がシャッフルされ、アフリカの万華鏡を見る思いだ。しかし、本作品の語りの順序は実に良く計算されている。そう、シャッフルされたと見えて、実はディーラーの作為に満ちた配列になっているのだ。
本書は愛憎劇も栄枯盛衰も立身出世もない、実に退屈な物語だ。それでもなんとなく読み進めていける理由の一つが、後半に進むほど一つの断章が短くなっていく点である。
第一部は土地とその空気と、そこに住まう人物の紹介。実に緩慢に進む。
第二部は数少ない事件らしい事件、猟銃の暴発事故が語られ、被害者1、被害者2、裁定者の順でスポットライトが当てられる。
第三部は、アフリカの著者の住まいに訪ねてきた人々とのエピソード集だ。次々と新しい人物が紹介されては去っていく。
第四部までくると、手帖から抜いたとされるエピソード集となる。ニーチェの箴言集のように、短いものは1ページに満たない。
最後の第5部では、文章量は回復される。しかし、中身は物語の唯一の舞台である著者の農園の閉鎖(これは作品の早い段階から仄めかされている。)、そして重要人物の死が次々と語られる。
「仄めかし」以外の配列の妙がある。たとえば、クヌッセン老という人物は、最初の登場が死体である。そして後の断章で、生前の様子が語られる。
また、本書には動物の悲劇など先に挙げた主題が繰り返し登場する。しかし、決して連続しては登場しない。客の語りの中で、あるいは手帖の中のメモとして、土地の紹介として、様々なヴァリエーションで時をおいて登場する。著者のいかさまの何よりの証拠だ。
<<本の作り>>
毎度定番の注文になるが、地図をつけてほしかった。ロンドンやパリならいざ知らず、ケニアの土地になじみはない。
また、そういう作品は註も少ないと相場が決まっている。本作品もその一つだ。
翻訳については、特に違和感を覚えなかった。恐らくは原文もシンプルで美しいのだろう。そうした味わいが十分に感じられた。
巻末の解説については、著者の個人史に終始し、作品自体についての論及が乏しかった。むしろ、挟み込みの池澤氏の解説が的確であったと思う。
*1:あるいは、酷い映画化をされるという被害に遭っているという点も共通する。