ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『やっぱり世界は文学でできている』沼野充義編著

新しい世界のドアを開く勇気

どんなに親しい友人でも、恋人でも、あなたの代わりに本を読んではくれない。(p.354)

<<感想>>

読むと外国語の勉強がしたくなる素晴らしい本。

前作『世界は文学でできている』【過去記事】の続編である。本書の概要は前作の記事で確認していただくとして、第2巻にあたる本書では、計6名のお相手との対談が採録されている。

 

対談相手の「得意言語」が上手に散らばっているため、外国語について、そして外国語の有り方を通してみた日本語について考えさせられる仕組みになっている。

2巻目でもあるので、今回は、以下で本作の読みどころをちょこっとご紹介するにとどめたい。

 

1.亀山先生再び

こちらの対談は、他のものと異なり、前作の発売記念のトークイベントが元らしい。

亀山先生も前作を読まれたようであり、カウンターパンチを飛ばしているのが見どころ。

ひょっとすると、この発言には、私の「カラマーゾフ」訳に対する密かな批判が含まれているのかもしれませんが(笑)。(p.21)

 

2.フランス語の規範性

二人目は、表紙に名前があったら買って良いで私の中でお馴染みの仏文学者、野崎歓先生。おススメリストが10冊と豪華版であるうえ、おススメ映画リストまで付いている。

対談の内容では、フランス語表現の規範性の強さが語られた。特に印象に残ったのが「人権宣言」の文章が美しいという言及。

皮肉なことに、文章そのものが革命で否定したフランス古典主義のエッセンスという感じがするのです。・・・、革命精神の神髄を語る古典主義的な美しさという矛盾は、フランス語の宿命かなという気がします。(p.81)

常々、日本語の方言が外国語に訳出可能なのか、という疑問を持っていたが*1、それは許容されないだろうという見解も興味深かった。

 

3.日本語の基礎

三人目は英文学者の都甲先生。実は本作ではじめてお名前を知ったが、とても興味深い内容だった。なお、野崎先生同様豪華10冊のおススメ本付き。

ここまで学者が続いており、前巻に比してもより沼野先生がぶつけたテーマに沿った議論が交わされている。

他の箇所でも言及されるが、日本語が他の言語に比して極めて変化の速い言語であるという指摘は興味深い。実際、自分の幼少期に読んでいた作品、例えば『十五少年漂流記』なんかを、当時の訳文のまま子どもに渡すのには躊躇を覚えている。

また同時に、日本語は日本語として独立して存在しているわけではないという指摘も、なるほどと思された。

・・・日本の近代文学、あるいは日本の学問には、実際にはロシア語なり英語なりフランス語なりの基礎がある。・・・寄ってたかって作りあげてきた、翻訳と混ざった日本語ができたわけです。(p.137)

 

4.禁断の対談

続いては綿矢りさ氏。

何作かしか読んだことないけど、私の中では、読書量と知識量を武器にするというよりは、半径2メートルの出来事を清新な言語感覚で突破していく作家のイメージ。印象に残る文章が書ける人。だって、もうオオカナダモって見たら綿矢りさしか思い浮かばないもの。

アカデミズムの頂点に居る文芸評論家と現役バリバリの若手作家という禁断の組み合わせ。口頭査問?ハッ。ていうこのスタンス。

綿矢氏の創作手法などが語られる。

 

5.血管に流れる詩

5人目は、中国人にして日本語で書く作家楊逸氏。沼野先生が度々言及されている方である。

唐詩選に関する次の発言が衝撃。

教科書の中にも一部ありますけど、どちらかと言うと、小学校に上がる前の子どもが家の中で暗記することが多いんですよ。・・・詩というものは人間の生活に欠かせないものですね。(p.282-283)

イギリス人にはマザーグースがあり、シェイクスピアもあり、ロシア人にはプーシキンが、中国人には漢詩が有る。実に羨ましい。日本人も昔は暗唱が好きだったはずなのに・・・。外国文学のエピグラフとか、いつも憧れをもって見てしまう。

私に残されているのはせいぜい流行歌の歌詞くらいだ*2

 

6.主役は遅れてやってくる

最後は多和田葉子氏。言わずと知れたノーベル文学賞候補。ドイツ語と日本語それぞれで創作を行う、越境を体現している作家である。公刊物未搭載であったと思われるラップのような詩が掲載されており、こちらも素晴らしい。

対談では、日本語とドイツ語それぞれにおける創作手法や言語について話題が及ぶ。

特に印象に残ったのは、次の箇所。

一度日本語で書いてしまったものをドイツ語にしていくと、・・・便宜上「私」にあたるichという単語を頻繁に使うことになる。そうすると、やたらと「私」が多い、過剰に「私」を意識したかのような文章になってしまう。(p.328)

楊氏も別の角度から似たようなことを言っている。

私が高校時代に新しく翻訳された英語の小説とかは、やたら受け身の言葉が多く、中国語というのは受け身を使わないですから、その不自然さがどうも。(p.273)

 

なお、誤解のないように付言すると、本書は翻訳について否定的なわけではない。翻訳について失われるものがあることを正面から見据えつつも、翻訳で豊かになるものもある、というスタンスである。

ああ、でもいつかロシア語でプーシキンを読んで、「韻律」ってやつを味わってみたいなぁ・・・。

 

・前作はこちら

・続刊はこちら

 

*1:苦海浄土』を読んだがのきっかけである。あれは日本語の語りの表現の素晴らしい三重奏である。

*2:ほぼ毎回こっそり引用しているのに誰か気づいている人がいるのだろうか。