ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『世界は文学でできている』沼野充義編著

愛のままにわがままに

読書というのはそんなふうに自由な運動であるべきものです。ある一つの作品を読んで、そこに凝り固まっておしまいにするのではなく、そこからまた別の世界が広がってくる、つまりいままで面白く思えなかったものががぜん面白く読めるようになる、それこそが読書の醍醐味ですから。(p.349)

<<感想>>

読むと本が読みたくなる素晴らしい本。

ロシア・ポーランド文学のマエストロであり、文芸評論の名手でもあるヌマ1こと沼野充義先生の対談集である。タイトルのとおり、テーマは「世界文学」。

 

対談の冒頭で、まず沼野先生が長めにテーマ設定を行う。対談相手がそれに従って長めに回答を行う。あとはフリースタイルで対談が続く、という形式である。

最初にぶつけるボールは、概ね沼野先生の関心に基づいており、異なる対談相手に類似したテーマを投げていることも多い。

かように、一応、対談集の体裁はなしているが、その実、沼野先生がそれぞれ違った形をしている壁(失礼)に壁当てをしている様子を楽しむのが醍醐味な仕上がりになっている。

海外文学と日本文学の違いは?翻訳で読むことと原著で読むことの差は?現代における、名著目録とは?大衆作品と文学は区別できるのか?などなど。

文学好きなら一度は考えたことのありそうな、興味深いテーマが並ぶ。

当然、対談の中では古今東西様々な文学作品の言及され、欲しい本がどんどん増えていく。当ブログでも引用したことのあるイーグルトンやバーリン過去記事】など、文学理論や過去の文学評論からの引用も多く、その点も楽しめた。

 

採録されている対談相手は5名。各対談の末尾には、それぞれの対談相手及び沼野先生自身がおススメする書籍のリストもついている。さらには、対談で言及された作品の書誌情報までまとめられており、大変親切である。

 

各対談の中でも、平野啓一郎氏と、亀山郁夫先生のものが特に気に入った。

 

平野氏についていえば、実は彼の作品は読んだことがない。

当時最年少の記録で芥川賞を受賞した『日蝕』が大変有名であるが、当時私は15歳か16歳。すでに読書好きの少年だったと思うが、同作はとかく難解な作品として知られ、少年の手の届く位置にはなかった。このため、「難解な人」という記憶が留められ、そして難解なものでも読んでやろうというまでに成長した頃には、私自身がすっかりガイブンのひとになっていた。

対談の中で、平野氏は、難解だけが自分の作風ではないので、そうしたレッテル貼りには苦しんだという旨の発言をされている。また、当時を振り返り、なぜ難解と思われる文体を志向したのかを語っており、とても印象的だ。

せっかく『万葉集』の時代から、今日にいたるまでの膨大な言葉のデータベースがあるにもかかわらず、まったく活用されなくなっていたんですね。で、もっとそっちの方向にも、日本語を拡張していくべきじゃないかという考えはありました。・・・単純に僕は美しい言葉が宝の山のように眠っていると感じました。(p.111)

沼野先生は別の箇所でも「村上春樹」という踏み絵を用意しているが、大江健三郎について話しているはずの流れでの次の反応が面白かった。

僕の場合は、大江さんの文章のほうが刺激的でしたね。まあ、村上春樹ではなかったということです。(p.119)

全体として、平野氏がもっとも沼野先生の題意に正面から答えており、対談の完成度が高い。

たとえば平野氏からはこんな発言。

編集の注文にもきちんと応じながら、なかなか奥の深いことを扱いつつ、リーダビリティも高い。でも、どこかこぢんまりしている。僕は、日本の小説が、そうはなってほしくないんです。(p.132)

沼野先生からはこんな発言。

保守的なエリート主義という批判は甘んじて受けますが、やはり、本当の文学として残る価値のあるものと、それとは対照的に、ただ消費されていくだけの面白い読み物との違いはどこかにあるはずだし、その違いを頑固に守っていかなければならない。(p.135)

双方の文学観が正面から論じられている。

 

他方で、亀山先生の部は、ぶっちゃっけまったく期待していなかった(失礼)。

今ではドストエフスキーの翻訳で大変有名な先生である一方、毀誉褒貶というか、賛否両論というかの激しい人であるが、私が懸念していたのはそういうところではない。

そもそも、私がドストエフスキーに浸り、ドストエフスキーを読み干した18,9の頃には、まだ亀山訳は出版前の頃であった。そのため、ドストエフスキーの訳といえば、私にとっては何よりもドラフト不正はやってないでお馴染みの江川卓先生である。

そして、主要著作を読み尽くし、タイトルにドストエフスキーが入る本を端から買っていたその頃に出たのが、亀山先生の『ドストエフスキー父殺しの文学』である。

従って当然、その著作も読み、また亀山先生の他の作品や講演、対談なども様々に見たり・聞いたり・読んだりしてきた。

それなのに対談に期待をしていなかったのは、だいたい毎回話の内容が似通っていたためである。

 

そうした予断がまず裏切られたのが、亀山先生の信仰告白というか、10代の頃のお話である。

要は自分が主人公になり代わりる、あるいは作品世界にシンクロしてぴったり寄り添うことこそ文学であると思っていたわけです。(p.309)

当然ご本人は若気の至り的なエピソードとして話しているわけだが、そのまっすぐさというか、その没入姿勢が、今の亀山節を作っているところに妙に納得がいった。

何より面白いのが、恐らく近しい仲であるが故の遠慮の無さなのか、沼野先生ががんがん剛速球を投げるところである。

面白いのはどんな日本文学作家を論じても、やっぱりすべて『カラマーゾフの兄弟』を訳し、ドストエフスキーにとり憑かれた人間の立場からの読みになっていることですね。(p.332)

そして、そんな剛速球をマトリックスばりの超絶回避運動で躱し、たんたんと亀山節を繰り出し続けるあたりは、まるでチェーホフの喜劇を読んでいるがごとくである。

オチもまた秀逸である。

これまた失礼な言い方になるかもしれませんけれども、・・・亀山さんの本領と独創性はむしろこういう研究*1に発揮されていたのではないか。そして、われわれはドストエフスキーからまたもう一度、ロシア・アヴァンギャルドのあのまばゆいほど輝かしい世界に立ち返るべきではないのか。(p.350)

これなどは、まるでドストエフスキーの最高傑作は『二重人格』と言い切るナボコフ先生の十八番のギャグのパロディではないか。

 

・・・、沼野・亀山両先生を大変に尊敬しているということを強調して今日は終わりにしたい。

 

お気に入り度:☆☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆☆

 

続刊その他関連作品は以下のリンクから。

 

 

*1:フレーブニコフという前衛詩人の研究について