いつまでも君に捧ぐ
だからいい要約かどうかは別にしても、要約することにはその作品のエッセンスを自分なりに掴むという効用がある。(p.157)
<<感想>>
読むと詩を読みたくなる素晴らしい本。
前作【過去記事】、前々作【過去記事】に続く第三弾。本書の概要は前々作の記事で確認していただくとして、本作では、前の二作品に比べて、冒頭の沼野先生のテーマ設定が短くなり、より対談らしさが増している。
第3巻にあたる本作では、計5名のゲストとの対談が採録されている。
今回は、詩人が二人、小説家が二人、日本語と英語で小説がかけて、宮沢賢治の翻訳までできる人一人というラインナップ。否が応でも「詩」というテーマへの期待が高まる。
特にかねてから、私は「詩」というジャンルに対して、若干のコンプレックスがある。どうにも詩は散文よりも高級な顔をしている。それに、特に、ワーズワースとかバイロンとかボードレールとかランボーとかプーシキンとか(知らんけど)、引用されるじゃないですか、小説の中で。これがまぁよくわからない。仕方なし翻訳で読もうにも、あるんでしょう?なんか、リズムとか、韻とか、格とか。知らんけど。
そのなんとなく近寄りがたい感じに対するなんとなくの感覚も、なんとなく示してくれている。
1.作家の読書歴
一人目はドストエフスキー読みでも有名な作家、加賀乙彦氏。氏の読書遍歴などが語られる。印象に残ったのは、『源氏物語』とヨーロッパ式の長編小説との異同を論じた中で出てきた次のコメント。
『源氏物語』では、和歌が入ってきて官女が和歌をやりとりしますね。これは、万葉集から始まった短い詩の世界の伝統をきちんと作品表現の中にはめこんでいくということです。(p.43)
既に『源氏物語』の中にも文学史が織り込まれているものと気づかされた。
2.猛獣v.s.猛獣
二人目は谷川俊太郎氏。さすがに80代の谷川氏のみで対談が成立するか危ぶまれたのか、谷川氏の詩を中国語訳されている詩人の田原氏*1のダブルゲストとなっている。
ファンも多いであろう谷川氏の発言に注目と思いきや、まぁこの田氏が喋る喋る。そしてその喋りが面白く、本書の読みどころの一つである。
ポエムは小説あるいはエッセイなどと違って、ある意味で、その民族の精神的な質感を代表するものだと、私はずっとそう思っています。いくら経済が発展していても、質感のいい詩人が存在しなければ、その民族の精神的な水準は疑われるべきではないかと思います。(p.56)
このド直球ぶりである。
さすが中国人、はっきりものをいうなぁと感じていると、言語に明敏な詩人だけあって、次の指摘が飛ぶ。
みなさん、中国人ははっきりものを言うねと思うでしょ。これは中国人がはっきり言うのではなく、われわれの母語が言わせているのです。(p.92)
途中、この勢いの田氏と、谷川氏が、詩の「普遍性」について、必要論v.s.不要論に割れて激突しだす。猛獣使いの沼野先生の手腕の見せ所であり、非常に面白い。
3.呼ばれて飛び出て
三人目は小説家の辻原登氏。すいません、存じ上げませんでした。しかし、読みどころ満載で、本巻の中でもトップクラスに面白かった。
まず、加賀氏がドストエフスキーについて語るのかと思っていたところ、なんとこの辻原氏から濃厚なドストエフスキー論が飛び出した。曰く、ドストエフスキーは19歳までに読めと。ようは、若くして読んできちっと消化しきれという趣旨なのだが、ここはぜひ本文を読んで欲しい。
これを受けた沼野先生の、
視野の狭い若手にありがちな作品ですと、本当に自分と自分の恋人以外の話は何も書いてないことがあります。(p.120)
このコメントのまぁ辛いこと。
私はその後、翻訳論へと移り、これも面白い。特に、『赤と黒』の翻訳読み比べは見どころの一つである。
最後は、ナボコフの『賜物』【過去記事】への言及を含みつつ、要約論へと展開する。冒頭の引用もこの箇所からであり、まさにこのためにこそ私はこのブログをやっているようなものである。
4.変わった組み合わせ
日本語と英語とロシア語とポーランド語ができるひと同士の対談という変わった対談。
このロジャー・パルバース氏という方は、日英両言語での執筆の他、宮沢賢治の英訳も手掛けたそうだ。
テーマは日本語論から、詩の翻訳論へ。翻訳不可能な言葉もあるだろうし、特にリズムなどについては翻訳は困難ではないかという沼野先生の問いかけに対し、パルバース氏はこう答える。
宮沢賢治が英語で詩を書いたら、どういう英語を使うのか、どういうリズムのトーンで書くだろう、・・・そうすると宮沢賢治とロジャー・パルバースの間にある溝は少し埋まっちゃう・・・。一体化を目指すのです。(p.208)
このあと朗読される「雨ニモマケズ」の英訳も素晴らしく、こういう意思を持った訳者の訳詩を読んでみたいと思った。
5.詩人再び
トリは詩人である。アーサー・ビナード氏。この詩人という奴は、対談の発言までいちいち詩的で憎らしい。
テーマは翻訳論、詩論、そして過去の文学を読むこと。
特に我が意を得たりと思ったのは、次の発言。
日本語であれ英語であれ、ぼくの場合は、ある意味ですべてが翻訳なんです。・・・創作は、まだ言葉になったことのないものを言葉の中へもってきて形づくろうとすることですね。(p.225)
翻訳を理由に海外文学を敬遠する人も多いが、この指摘のとおり、母国語の作品であっても、結局言語という媒介物を経由した翻訳作品に過ぎない。みんな、ガイブン読もうぜ!
宮沢賢治の作品だって、海外文学と同じかそれ以上の距離があるとの指摘もうなずける。
で、当時の生態系、当時の地域社会と、2014年の東京の生態系、地域社会には、ほとんど共通するところがありません。(p.236)
最後に示される、ビナード氏の詩への愛情・信頼も素晴らしい。
このほか、本文では随所で詩の引用・朗読がなされ、どれも素晴らしいものばかりだ。
本作は2014年の作品だが、あとがきで沼野先生の手によって、当時のロシアの詩(歌詞)が紹介されており、ウクライナ情勢への懸念がすでに示されている。
・前作はこちら
・続刊はこちら
*1:俊彦ではない。姓が田、名が原である。